「うぅ、胸がいろんな意味で苦しい……」
「胸だけは布で押さえつけてやっとだったからな。入ってよかった」
東方には『サラシ』という道具があると、以前にフィーネが言っていたことを思い出したのが幸運だった。なんでも胸や腹に巻いて使う布をそう呼ぶらしい。
「この服に背丈が合ってしまう体に生んだパパとママを、生まれてはじめて恨んでいます」
「おふくろさんが小柄だったからそっちに似たんだろうな」
「そこはパパに似てほしかったです……。よくも、よくも……!」
聖輝力を持って生まれ、若くして戦いの運命に身を投じることを余儀なくされたフィーネ。村を出ていく時にも恨み言のひとつも言わなかった彼女の目には俺も見たことのない感情が宿っている。
「ともあれ、これで俺がいなくても買えるようになったな。『黒猫ニトラの大冒険 五巻』が」
「なんで……なんでこんなことに……」
人気絵本シリーズの新作発売を伝える貼り紙をフィーネはじっと見つめている。孤独な黒猫の姿が自分と重なるとかで、都会に出てきてからの心の支えだったらしい。
寝る前に読んでいる絵本の中でも特にお気に入りの『黒猫ニトラ』シリーズの新作なら、なんとしても手に入れたい。だが国の守護者たる聖女様が絵本を読まないと眠れないなんて知られれば世間は不安を感じてしまうだろう。フィーネとしてはそれはなんとしても避けたい。
こういう場面を想定して、俺の給料には絵本類を聖女のためとバレないように買う手間賃も含まれている。なので本来なら俺が購入してくるべきところ、今回ばかりはのっぴきならない事情で俺は発売日に動けそうにない。
では後日……といきたいが、なにしろ人気シリーズ。発売日当日でないと売り切れてしまう恐れがあるというのだ。
かくなる上はフィーネ本人が身分を隠して絵本を買いに行くしかない。そうして方法を模索した結果が今の状況というわけである。件の手当は子供服を買ってくるのに使ったから決して不当に受け取ってもいないし完璧だ。
「これも……これもニトラのため……」
「王宮も、何も発売日に直撃でやらなくてもいいだろうに」
「こればかりは誰を恨んでも仕方ありません……」
「まさか、俺まで闘技大会なんてものに出ることになるとは思わなかったよ。さ、髪型も子供っぽくしようか」
「前髪は、前髪ぱっつんだけは許してください!」
フィーネが長い金髪をおさげに括るのを手伝いながら、俺はことのきっかけになった二日前のことを思い出していた。
◆◆◆
~二日前~
「……『獅子の鬣』も出場するのか」
「そのようですね」
エルバから首都に戻った俺たちを待っていたのは、王宮からの急なお触れだった。
『武芸奨励のため、騎士団、ギルド、祓魔隊、そして全ての市民から腕に覚えのある者を募る闘技大会を開く』
『優勝者には莫大な賞金を与えるとともに、王女の護衛候補として推挙される』
俺はすでにフィーネの護衛なので出場資格はないのかと思ったが。なぜかフィーネ隊は全員出場するようにと名指しで念を押されてしまったとかで、俺はシアさんや他の面々といっしょに首都西側の闘技場で行われる闘技大会に参加することになったのである。
「幸運だったよ」
「ユーくん?」
「ああ、『いい機会』に恵まれたなと思って」
俺が所属していたギルド『獅子の鬣』。大手ギルドとしてそれなりに名の通った組織だが、その実態はギルド長のご機嫌取りが上手い人間だけが昇格し、俺のような世間知らずは何年も雑用として使い潰された挙げ句にギャンブルのネタとして殺される、そんな組織的にも人間的にも腐敗しきった集団である。
そうして捨てられた俺は、ギャンブルが行われていると知って全財産を『自分の生還』に賭けた。渡された証文の作りが雑だったおかげで、今からでも自分の財産を増やせば取り立てられる賭け金も増える仕組みになっている。
優勝者に与えられる『莫大な賞金』。
それが手に入ればギルドへの打撃力は桁違いのものになるだろう。今の俺なんかが優勝できるとは思わないが、一分でも可能性があるなら試しておきたい。
それに何よりも。
「公の場で『獅子の鬣』と戦えるチャンスだ……!」
こちとら毒を打たれて墓場に捨てられたのだ。正々堂々と戦って借りを返せるというのであれば、それ以上に望むことはない。
「張り切るのはいいですけど怪我には気をつけてくださいね? この前のエルバの戦いだって、擦り傷で済んだのは奇跡みたいなものなんですから」
「無理はしないさ。相手の力量くらいは見る」
「力量といっても参加者も様々ですからね……。聖職者、ギルドの剣士、狩人……街の魚屋さんまでいらっしゃいますよ。包丁が上手な人は剣もお強いんでしょうか……?」
俺の隣ではフィーネが対戦表を見てふんふんと興味深げにしている。聖女のフィーネは出場者ではないから闘技場まで行く義務はないし、望むなら来賓席から観戦もできるのだが。
「一回やってみたかったんです。長年の夢がかなう日がきたんです」
「夢?」
「客席から『ひっこめ三下ー!』って言うやつをやってみたいんです!」
国の英雄、全国民の憧れたる『悪霊祓いの聖女』、フィーネ=アルバスの長年の夢。
それは、いわゆるひとつの野次だった。
「……ほどほどにしておこう?」
「はい! 中指までは立ててもいいと、この前の宿屋の女将さんが言っていました!」
「ロクなこと教えないな、あの女将!」
闘技場についてだいぶ偏った知識をお持ちのようだ。俺の勉強も兼ねて当日までにいろいろ教えなくてはなるまい。まだ一週間もあるのだしなんとかなるだろう。
「……一週間?」
「開催日時は一週間後になっているな」
「そんな……」
「どうした? 祓魔の予定はないから大丈夫だろ?」
「いえ、その……」
しばらくぐにぐにと両手の人差し指どうしをこすり合わせたフィーネは、おずおずとした様子で、言った。
「絵本の発売日、なんです」
「それは残念だな。予選、本戦の初日と決勝の二日目で終わるらしいし、それから買いに行くから……」
「いつも発売日に買わないと売り切れるんです!」
そうは言ってもフィーネ隊は強制出場なので俺は闘技場を離れられない。かくして、前述のようにフィーネが身分を隠して絵本を買いに行くことになった次第である。
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