水を汲み、シェルターへ戻ると、アルセンさんは既に寝息を立てていた。
今は無理に起こさず休ませた方がいいだろう。
シェルターのすぐ側にある焚火の跡に薪が残っている事を確認し、“ノースホック式”に薪木を並べてから、火おこしを試みる。
アルセンさんに教えてもらった火打ち金で火をつける方法だ。硬度の高い石に打ち付けると、打ち金から火花が散り、火口である解した繊維質の木の皮に着火することが出来る。
火口に火を移したら、すぐに息を吹き込んで火を大きくする。白煙が出て、炎が立ち上れば成功だ。
焚火を起こし、鍋に水を入れてお湯を沸かす。
コーヒーを淹れるのだ。インスタントコーヒーだけど、僕がいつも飲んでいたものを。
休憩時間の一杯のコーヒーだけが、唯一の癒しだった。
大好きなコーヒーを、アルセンさんと一緒に飲みたかった。
暫くすると、アルセンさんが目を覚ました。
木のコップを二つ並べ、インスタントコーヒーを入れてお湯を注ぐ。
木の匙でかき混ぜ、両手にコップを持ちシェルターの中へ入る。
「アルセンさん、大丈夫ですか」
「ああ……なんとかな。この匂いは、何の匂いだ」
「コーヒーです」
「コーヒー……か」
「ノースホックでもコーヒーを飲むんですか」
「水腫れに効く薬だろ」
「いえ、普段飲み物としてです」
「……それはあまり聞いたことが無いな」
「なるほどです」
どうやらノースホックには嗜好品としてコーヒーを飲む文化が無いようだ。だが、薬としては認知されているらしい。日本から持ち込んだコーヒーがアルセンさんの口に合うと良いが。
「日本では毎日飲むんです。これは、日本のコーヒー。温まりますので、良かったら飲んでみてください」
「ああ、ありがとう」
コップを受け取り、アルセンさんがコーヒーを一口飲んだ。反応が気になり、横目で表情を窺う。すると、アルセンさんの眉が少しだけ跳ねた。
「……これは美味い」
不意に、笑顔がこぼれた。
「ふふっ、でしょっ」
僕も一口飲む。
美味い。
可もなく不可もないはずのいつものコーヒーが、とても美味しく感じられた。
「アルセンさん、僕と出会った日の事、覚えていますか」
「ああ……霧のせいでぼんやりとだが」
「色々、有りましたね。あれから」
「ああ……そうだな」
「アルセンさんを見た時最初は怖い人だと思ってました……でも、全然そんな事無かった。アルセンさんはこれまで出会った他の誰よりも優しくて、素敵な人でした」
「そうか……」
「初めは三十代か四十代って思ってたんですよ。でも、よくよく計算したら、もっとずっと上でした。アルセンさんって若く見えますね」
「……俺はもう五十七だぞ。そろそろお迎えも近い」
「日本人は百年生きます」
「長生きだな……こういうものを毎日飲んでいるからか」
アルセンさんが手元のコーヒーに視線を落とした。
告げなければ。
アルセンさんに――
「覚えてますか、アルセンさんは、僕に『樹海の果て』を見た『証人』になって欲しいと言いました」
「ああ、言った気がする……」
「……長かった旅路も、今日でとうとうお終いですね。ホントに、色んな事がありました。語っても語りつくせないくらい……」
「それは……どういう……」
手で包み込むように持ったコップが温かく熱を帯びている。アルセンさんに視線を移すと、怪訝そうな表情を浮かべていた。僕は震えそうな声を抑えながら目一杯の笑顔を作り――
彼に真実を告げた。
「ノースホックへ、『樹海の果てがあった事』を知らせに行くんですよ」
空気がピタリと動きを止めたような錯覚を起こした。アルセンさんは目を見開いている。
「……樹海の果て……すまない、どういう事だ」
「もう終わりにしましょう、アルセンさん」
「な……何故だ」
「霧の向こうへ戻れば、全てが分かります」
「戻る……」
「ええ、そうです。アルセンさん、僕を信じて下さい」
「……分かった」
アルセンさんは複雑な表情で俯いた。暫しの沈黙の後、手元のコーヒーに視線を落としながら、アルセンさんが呟くように尋ねて来た。
「ヤヨイ……聞かせてくれないか。『樹海の果て』はどんな場所だった」
その質問の答えを、火を起こしてお湯が沸くのを待つ間、ずっと考えていた。アルセンさんが納得して、彼の報告を聞いた皆が納得できる嘘。それは――
「『樹海の果て』は、ただ『呪いの霧』だけが広がり、それがずっと続いていました」
再び沈黙が訪れた。とても長く感じる静寂。シェルターの外で爆ぜる薪木の音だけが、断続的に聞こえて来る。
やがて、アルセンさんが唇を引き結びながら長い息を吐き、そして一言だけ、寂しそうに微笑みながらポツリと呟いた。
「……そうか」
コーヒーを飲み干し、腰を上げる。
「帰りましょう、アルセンさん」
シェルターを出て、焚火を片付ける。アルセンさんに肩を貸し、二人で川へ進む。
“霧を吸い込まないように”と、二人で口にスカーフを巻いた。
霧の中へ入る。
僕の予感が正しければきっとこれが最後だ。
一歩一歩がやたらと重く感じる。
僕はこっそりスカーフを下ろして、祈り始めた。
やっと分かったのだ。『僕がこの世界に来た理由』が。
『願いの霧』を吸い込んでもこれまで僕には何も起こらなかった。
それは、僕がなにも望んでいなかったから。生きる事を心底諦めていたからだ。
でもそんな僕が、何も願わなかったこの僕が、全てを諦めていたこの僕が、やっと見つける事が出来たんだ。
『願い』を。
僕は、彼のため――そして僕自身のために、祈った。
***
祈る。強く、強く祈る。
心からの感謝。水への愛。体の中に満たされた水、足元をさらさらと流れる澄み切った川の水――
そして、周囲を満たす『霧』。
水は僕自身。僕自身が水――
霧もまた水。
霧は僕自身。僕自身が霧。
一体となり、融ける。
混じり合い、一つになる。
一つになり、“願い”が“現実”となる。
〝僕たちに、痛みを返してください〟
そして、“加護”が出現した。
***
やがて霧が晴れ、対岸が見えて来た。
熊狼は居ない。倒れていた、死体も。やはり、川を逆方向へ渡れば、『世界の内側』へ戻れるのだ。
開いている方の手を見つめると、向こう側が透けて見え始めていた。
やっぱりそうだ。この世界において僕は霧の川ではさまれたあの樹海でしか存在出来ない。
だけど“僕”の“望み”は、もう叶っている。
帰る時が来たのだ。
「アルセンさん……そろそろ、お別れみたいです」
「ヤヨイ……どうして……」
アルセンさんが透け始めた僕の身体を見つめて、眉を顰めた。
「身体が……透けて……」
「アルセンさん、ごめんなさい。アルセンさんの言葉を、疑ってしまって……僕は、アルセンさんの言葉を、信じてます」
「いいんだ。そんな事より身体が……」
アルセンさんは、視線が定まらない様子で、透けていく僕を見つめている。
「アルセンさん。もう、思い出せるはずです。『一番大切な事』を」
「なっ……何故……何故、ア……アルチョムの顔が思い出せる……どうして思い出せるように……どうしてヤヨイがその事を……」
「……一人で、立てますか」
尋ねると、アルセンさんが頷き、脇腹を押さえながら僕と向かい合わせに立った。
僕の身体は、そうしているうちに、どんどん透けていく。
僕が気付いた、“この世界に来た理由”。それを伝えた方が良いのか、最後まで迷った。
そして、決心した。
「気付いたんです。僕がこの世界に来た理由に……」
ゆっくりと息を吐き、アルセンさんの目を見つめる。
「……アルセンさん、きっとあなたが僕を呼んだんですよ」
少しだけ、遠回しに言うと、少しずつ、視界が白み始めた。
呪いの霧で願望を叶えた人達。彼らはみんな『水の加護』持ちで、無意識のうちに『願いを叶える霧』の加護を出現させていたのだ。
アルセンさんは『水の加護』を使える。だから彼は霧によって願いを叶える事が出来たのだ。
彼は、息子を失った悲しみを忘れたいと思う以上に、『息子に会いたい』と願っていた。
その願いは世界の境界を越え、『僕の魂』をこの世界へといざなった。
そう、僕は全てを思い出したのだ。
痛みと共に、全てを思い出したのだ。
「俺が……君を……」
「そうです」
今は遠きあの日々の記憶が鮮明に蘇ってくる。
すべてが分かった今、涙を見せるわけにはいかなかった。
きっと、アルセンさんは僕が言わなくても、いつか本当のことに気付くはずだから。
その時、僕が泣いていた事を思い出したら、きっと心配してしまうだろう。
ずっと昔の小さな約束を、いまだに覚えているような人なのだ。
僕を肩に乗せて、何となく言ったあの小さな約束を、覚えていてくれるような人なのだ。
だから必死で涙を堪えた。
泣くな、やよい。
「ヤヨイッ!!」
視界を濃い霧のような白が覆い尽くそうとしていた。身体はもう、殆ど見えなくなっている。
息の震えを押し堪え――
「アルセンさん……あなたに会えてよかった」
「ヤヨイッ! そんな……」
話したいことが、まだ沢山あった。
教えて欲しい事が、まだ沢山あった。
伝えたいことが、数えきれないくらいあった。
彼に救われたこと、彼から学んだこと、一言では言い表せない、感謝の気持ち。
でもきっと、どれだけ感謝を伝えても、アルセンさんは微笑みながら、“誰かに同じようにしてあげればいいんだ”と返すだろう。
だから、ありったけの想いを込めて――
最後は、笑顔で宣言しよう。
「ありがとう。アルセンさん。僕は――」
父さん、あなたの息子は――
「〝尊く、美しく、生き続けます!!〟」
「ヤヨイッ!!」
痛みと共に、生きよう。
彼と同じ痛みを胸に。
辛く、悲しくても、生きている。
ただそれだけで尊く、美しいのだから。
だから、きっと大丈夫。
そうですよね、アルセンさん。
ありがとう。
そして――――さようなら。
父さん。
やがて、全てが白一色に包まれた。
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