異世界トレイル

果ての樹海のその果てに
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第十四話 呪いと願い

公開日時: 2020年10月11日(日) 15:09
文字数:2,562

 アルセンさんの言葉に思わず息を呑む。


 僕の事を他の誰かと勘違いしたのだ。きっと、あの“霧”を吸い込んだせいだろう。あれを吸い込むと記憶を失うとアルセンさんは言っていた。


 『アルチョム』というのは多分、僕と同じ年齢の時に死んでしまった彼の息子の名前ではないだろうか。


「アルセンさん、僕です。やよいです……」

「ヤヨイ……あ……ああ、すまない。少し寝ぼけていたようだ……」


 アルセンさんが仰向けのまま額に手を当てた。その言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろす。幸い、僕の事を忘れてしまったわけでは無かったようだ。


 しかし不思議なのは、初めてこの世界に来た時も今回の熊狼騒動の時もそうだが、僕は霧を大分吸い込んだはずなのに何の影響もないように感じるという事だ。


 自分自身が何かを忘れているという事実を自覚するのは至難の業なのだろうが、今のところ何か重要な事を思い出せないということはない。


 それとも、忘れている事にすら気付けていないだけだろうか。


「アルセンさん、きっと霧のせいですよ。少し吸い込んでしまったのでしょう」

「霧……何故だ。あの川の霧の事か」

「そうです、アルセンさんが『霧を吸い込むと記憶を失う』と……」

「俺が……そんなことを」

「覚えていないんですか」

「ああ……はっきりとは思い出せない。だが霧については知っている。あの霧は『呪いの霧』だ。ノースホックにも数々の伝承がある……」


 アルセンさんの言葉に、思わず目を見開いた。『呪いの霧』、これまで彼が全く口にしていなかった言葉だ。


「どんな……伝承ですか」

「……『霧の中には立ち入るな。霧の向こうは死の世界。行って戻れば呪われる』……ノースホックの民なら、大人も子供も誰もが知っている歌だ。そして……実際に霧の中に入った者には様々な呪いが降りかかったと言われている……『ある者は鳥に姿を変えられ、ある者は男だったが女になった。またある者は全てを忘れ、そして殆どの者は帰って来すらしなかった』と……」


 アルセンさんは目を閉じて脇腹を庇いながら浅い呼吸を繰り返している。話すのも少し苦しそうだ。とりあえず、休める場所へ移動させた方が良いだろう。


「……アルセンさん、シェルターの用意が出来ました。手を貸します、起き上がれますか」

「ああ……頼む」


 弱々しく挙げられたアルセンさんの手を握り、その身体を支え起こすと、『彼が先日作ったシェルター』へと肩を組みながら移動した。


「おお……上手く組めているな、ヤヨイ」


 シェルターを見てもアルセンさんは何の疑いも持たず、中へ入ると数日前に寝そべっていた寝床に横たわった。


 忘れてしまったのだ。


「……水を、汲んできます」

「ああ……すまないな、ヤヨイ」


 『呪いの霧』、その伝承と実例を聞き、僕はそれを少し別の角度から眺めてみた。


 鳥になったり、性別が変わったり、記憶を失ったりと、霧に入った者達は一見酷い目に遭っているようだが、見方を変えればそれは本人にとってプラスな出来事なのかも知れないのだ。


 鳥へと姿を変えた者は、“鳥になりたい”と思っていた。

 

 女になった男は、“女になりたい”と思っていた。


 すべてを忘れた者は、“忘れたい”と思っていた。


 帰って来なかった者達は、“帰りたくない”と思っていた。


 つまり、もしかすると、“呪い”ではなく、“願い”の霧なのではと。


 中に入り、それを吸い込んだ人間の“願望”を叶える力があるのではないかと。


 そもそも、“幸せな人間”は霧の中に入ったりはしないはずだ。幸せな人生を捨ててまで、『呪いの霧』と言われるその霧の中へ立ち入るリスクを冒すはずが無い。


 だからきっと、この霧に入る人たちは何かしらの不幸を抱えていて自暴自棄になった人間か、あわよくば霧の呪いで死にに行こうとした者達だ。


 そんな彼らが胸の奥に抱えていた最後の望み、それを『願いの霧』が聞き届けたという風には考えられないだろうか。


 そしてそれを、周りの人間は“呪い”であると認識した。


 その結果、『願いの霧』は『呪いの霧』として語り継がれることになったのではないか。


 アルセンさんにしてもそうだ。


 恐らく、アルセンさんは心の奥底で何かを“忘れたい”と思っていた。だから、初めて霧に入った時に『大切な何か』を忘れ、それに気付いた彼は“呪いの霧”の効果を『吸い込むと記憶を失う』ものだと結論付けたに違いない。


 アルセンさんが潜在的に忘れたいと思っていた『大切な何か』、それは言うまでもなく息子を失った悲しみだろう。


 だが彼はそれを拒んだ。


 最初に霧に入った時に大切な何かを忘れてしまい、それ以降は『忘れること』を拒んで霧を吸い込まないようにしたのだ。


 失った悲しみを忘れる事は、息子との最後の記憶を忘れる事と同義。


 彼は悲しみを忘れたいと思いながらも、『それを忘れる事をずっと拒み続け』、螺旋状に繰り返す無限の樹海を、その果てを見るという息子との約束を果たす為に延々と歩き続けていたのだ。


 嗚咽に混じり、堪えきれないものが喉からあふれ出した。


「こんな……こんな救いのない出来事が、あるのか。こんな悲しい事が……」


 僕の頬を次から次に熱いものが伝っていった。


 『果ての樹海』には果てなど無かった。彼は終わりのない悲しみをただただ繰り返していたのだ。


「悲しいですよね……アルセンさん。辛いですよね……それなのに……それなのにあなたは」


 何度も僕を救ってくれた。


 僕なんかよりずっと辛く、悲しい記憶を抱えているはずなのに、僕に、生きているだけで大丈夫だって教えてくれた。


 息子を失い自分だけ生きていることが辛いはずなのに、生きる事は尊く美しいと教えてくれた。


 そして、僕に『信じている』と言ってくれた。


 僕は救われたんだ。


 彼の“言葉”で。


 きっと、アルセンさんは『樹海の果て』に辿り着くまでこの悲しい旅をやめないだろう。『螺旋状のループ』を説明したとしても、いつかは辿り着けると、そう信じて進み続けるはずだ。彼の息子も、そんなことは望んでいないはずなのに。


 水面にゆらゆらと映る自分の顔を見つめ、僕はハッと息を飲んだ。


 アルセンさんが霧のせいで忘れてしまった大切なもの……


 それが何であるか、僕は気付いてしまったのだ。


 

 彼はきっと、『自分の息子の顔を忘れてしまった』のだ。



「アルセンさん……大丈夫、大丈夫ですよ。僕が……今度は僕が、あなたを助けます」

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