◆ ◆ ◆
井上坂の前には、幼い子供のように目を擦り、溢れる涙を必死にぬぐう、ユウの姿をした水人形。
その姿に、井上坂は手を伸ばす。
「ダメだよっ!」
指先が頭に触れる直前、泣きじゃくっていたユウが、目を真っ赤にして彼を見上げる。
「ダメだよ」
「ダメ」
「助けないで」
木霊のように声が重なる。
足元の石畳は、見る間に赤く染まった水が満ちていく。
揺らめく水面から、井上坂を取り囲むように無数のユウが姿を現わす。
「兄ちゃんは助けちゃダメなんだよ。ボクが自分でやらなきゃいけないんだ。でも、ボクはバケモノで! だれもボクの存在をみてくれない! みとめてくれない! ボクは――」
井上坂の中で、ユウの言葉と幼い自分が重なる。
『ボクはバケモノだから、ここにいちゃいけないんだ』
その瞬間、水でできたユウが彼の手を掴んだ。
我に返った井上坂は、振り払おうとしたが、相手は水。触れることはできても掴めず、じわじわと体の自由を奪おうと身に纏わりついてくる。
「いけないんだ」
「みとめてくれない」
「バケモノだから」
耳元で囁く声が聞こえてくる。
彼は半身以上を水に包まれてしまった。やがて顔も覆われてしまえば、呼吸ができず、死に至る。
だんだんと水人形たちが彼を囲いはじめ、頭上に一つの大きな水の球を作りだす。
井上坂を水球に閉じ込める気だ。
彼は目を閉じた。
水人形たちは、チャンスとばかりにユウの顔で口の端を歪ませる。
水球を落とそうと腕を挙げた瞬間。
井上坂は、掴めるはずのない水の腕を掴んだ。水人形は驚きに目を見開いて彼を見る。
彼の瞳は閉じたままだ。
しかし、口は音もなく言葉を綴っていた。
――迷うな、嫌だと思う方は選ぶな!
彼の自由を奪っていた水は、その瞬間に弾け飛んだ。
今度は、彼の声ではっきりと綴られた言葉が周囲を支配する。
「“これは、朱綴りとしてあるまじき事例である”」
袖口から数枚、短冊形の和紙が滑り出る。
と、先程の言葉が墨となって和紙に綴られていく。
――やるべきこともわかっている!
井上坂の声音が変化した。
「重ねて言う。“これは、朱綴りの試練としてあるまじき事例である。よって、字綴り屋、井上坂の介入をこれより開始する“」
短冊は文字を綴り終えると、端から桜色の花びらとなって散っていく。
井上坂が風を起こすように腕を広げると、それは辺り一面に舞い散った。
一枚一枚が意思を持つ存在のように、遠くへフワリと、近くへクルリクルリと、花びらは踊り狂う。
「主無き試練は、試練に非ず。空間回帰のため、字綴りの一切合切を許すものなり!」
発した言葉が別の短冊に浮かび上がり、それもまた花と散る。
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