「……大丈夫（だいじょうぶ）か？」

「あ？　だだだじょーぶだっ！　手ぇ繋（つな）ぐくらいっらい、なななんとも、何とも！」

　明らかに挙動不審（きょどうふしん）なユウに、キョトンとする井上坂（いのうえさか）。

　自分の繋（つな）いだ手と、ユウのオタオタする様子を見て、

「なあ……」

　石畳（いしだたみ）の脇（わき）にある赤い花を指さす。

「そこ、ヒガンバナが咲（さ）いている」

「え？　うん……」

　混乱する頭で探してみれば、ヒガンバナがあちらこちら、群れるように咲（さ）き、近くを小さなトンボが飛んでいる。

「囃子（はやし）も聞こえてきた……」

　彼（かれ）の言う通り、ユウが耳を澄（す）ますと、どこからか笛や太鼓（たいこ）の音が響（ひび）いてくる。

「もうすぐ字綴（じつづ）りを始めるからだ」

　井上坂（いのうえさか）は、ユウを見てにこりと笑う。

　彼（かれ）なりに不安を和（やわ）らげようとしてくれているようだ。

　それを感じて、ユウの表情から緊張（きんちょう）がほぐれ消えていく。

「落ち着いたようだな」

「うん……ありがとう。

　なあ、『じつづり』って、どんなふうにするんだ？」

「難しい事はない。囃子（はやし）に合わせて、言葉を音にして綴（つづ）る」

　彼（かれ）は、繋（つな）いだ手をきゅっと自身に引き寄せる。

「君は、俺（おれ）が今から言うことを真似（まね）て言ってくれればいい」

　気付くと、周りは最初に通った参道の風景になっていた。

　終わりの見えぬ石畳（いしだたみ）。

　並ぶ灯籠（とうろう）。

　点々と群れているヒガンバナ。

　両脇（りょうわき）を竹林が連なり、そこへ足を踏（ふ）み入（い）れた者を異世界へと誘（さそ）い込（こ）むようだ。

　竹が風に揺（ゆ）られ、葉と葉を擦（す）りあい、さやめく音にのせて静かに聞こえてくる囃子（はやし）の音。

　幾重（いくえ）もの和楽器が奏（かな）でる緩（ゆる）やかな調べ、そして、シャン……と高く響（ひび）く厳（おごそ）かな鈴の音（ね）に、空気が澄（す）んでいく。

　雰囲気（ふんいき）が、最初の頃（ころ）と違（ちが）っていた。

　井上坂（いのうえさか）は、すぅ……と歯を合わせて空気を口に含（ふく）み、小さく、しかしはっきりと聞こえる低い声で言葉を綴（つづ）る。

「人の為（ため）に有れ」

「ひ、ひとのためにあれ」

　ユウも彼（かれ）に倣（なら）って言葉を続ける。

「人と共に有れ」

「……ひとと、ともにあれ」

「人と賜（し）て有れ」

「ひととしてあれ」

「アヤカシ災禍（さいか）と非ず――」

「アヤカシさいかとあらず」

「朱音（あかね）の雲を褥（しとね）とす」

「あかねのくもを、しとねとす」

　言葉は、紡（つむ）ぐうちに囃子（はやし）にのって歌へと変化していった。

　ユウの耳は、奥（おく）の方がキィンと鳴り続けるのを感じていたが、不思議と不快ではなかった。

　手を引かれ、ゆっくりと石畳（いしだたみ）を踏（ふ）みしめ進むうち、言葉が体中に満ちていき、自然と口から零（こぼ）れ出る。

　ユウは、無意識に歌っていた。

　人のためにあれ

　人とともにあれ

　人としてあれ

　アヤカシ災禍（さいか）と非ず、朱音（あかね）の雲を褥（しとね）とす

　歩むたびに空気が揺（ゆ）れ、柔（やわ）らかい風となってユウを包む。

　自分の声が囃子（はやし）と風景に溶（と）け込（こ）むようで心地（ここち）よかった。

　空を仰（あお）げば朱（しゅ）に染まり、茜雲（あかねぐも）が横たわって薄菫（うすすみれ）の瞳（ひとみ）をもまた朱（しゅ）を映す。

　その明るさが沁（し）みて、瞼（まぶた）を閉じれば溜（た）まった涙（なみだ）がこぼれ出る。頬（ほお）を伝う一筋を、なぜか懐（なつ）かしいと感じた。

　忘れていた何かを思い出しそうになった。

「？」

　気付くと、井上坂（いのうえさか）が手を添（そ）え涙（なみだ）を拭（ぬぐ）ってくれている。

　我に返ったユウは早々に、人生二度目の声にならない声を上げることとなった。

「嫌（いや）だったか？」

　井上坂（いのうえさか）は、少し困った風に笑う。

「やっ！　あの、そのボク、兄（にい）ちゃん以外の人とこんなに近くにずっといるのってほとんどなくて――」

　気恥（きは）ずかしいだの、変な意味はないだのと狼狽（うろた）えるユウに、井上坂（いのうえさか）は軽く吹（ふ）き出（だ）した。