◆ ◆ ◆
「!?」
ユウは、扉が開かれた瞬間、その先を見る間もなく、顔を背けた。
炎が、熱と痛みをめいっぱいに叩きつけてくる。
腕で顔を覆っても、目を閉じても痛みが襲う。皮膚から口から体内へと滑り込もうとしていた。
少し空気を吸い込むだけで喉が痛み、言葉の代わりに針を吐き出している錯覚に陥る。
ユウは咄嗟に息を止めた。
しかしそれでも吹きつけてくる痛みに耐えられず、身体は自然としゃがみ込み、身を守るように丸く縮こまっていく。
「大丈夫かっ?」
「一度、戻りますか?」
二人の声が心配そうにする。
すぐ近くにいるのはわかっているのに、声が遠い。
ユウが答えらえずにいると、首元が淡く光り出した。
「? あれ?」
急に痛みが和らぎ、ユウは自身を見回した。
「なんだ? 楽になった……?」
光のもとを辿って首元に手をやると、ミサギからもらった石が指先にあたる。
「それは、ミサギ様の護石ですね。アヤカシの脅威から身を守るものです」
「ミサギさんの――」
意図せず、ユウの顔がほころぶ。
「……ありがとう、ございます」
「近くにおらんでも、ミサギどんは頼りになるのぅ」
「うん」
「ユウ様、このまま参りますか?」
「もちろん」
ユウは立ち上がった。
その先に広がるは、劫火蠢く朱き世界。
ところどころに建物らしき影は見えるものの、空も地もすべて炎に包まれ、赤黒く視界が染まる。
びょうびょうと吹き荒れる灼熱の風は、アヤカシが蹂躙した世界を走り抜けていた。
護石があるとはいえ、空気がピリピリとした熱と痛みを孕む。体の外からも内からも焼き尽くそうとまとわりついてくる。
あまりにも朱く、現実味のない世界。
ユウは、また朱綴りの試練にでも来てしまったのかと、少し身を震わせた。
「……大丈夫、行こう!」
ユウは、自身を鼓舞するように歩き出す。
足元は熱で歪んだ空気が揺らめき、人間が歩けるほど大きなパイプが束になって建物のあちこちから伸びている。
木戸に、ここが工場跡だと説明されなければわからないほど面影は残っていなかった。
「ひどいや……」
アヤカシの所業に、今まで自身に降りかかった事を思い出す。
「だからアヤカシって嫌いなんだ……!」
攫われた事は数知れず、喰われかけた事も、周囲にも被害が及んだ事も日常であった。
破壊されたものは、最初の頃は弁償もしたものの、怪奇現象だと騒がれ説明も面倒になってきた兄は、被害を逆手にとって除霊だの護符だのと詐欺まがいの商売をして儲けてしまったほどだ。
ロクでもなかったなと、無理やり怒りの矛先をアヤカシに向けた。
それにしても、とユウはあたりをキョロキョロする。
「ミサギ様はすぐ近くにいるはずなのですが……」
ユウの心を読み取ったのか、木戸が話しかける。
みっちゃんは、着ていたベストをユウに被せ、自身も壁になりながら辺りを見回す。
「こんなところ、よう平気でおるわな」
ユウは、みっちゃんが汗だくになっているのを見る。
ふと自分の手を見て、彼の汗に濡れた手をガシッと掴む。
「なんや? アヤカシでもおったか?」
ふるふると首を横に振り、
「みっちゃん、まだ暑い?」
と、訊ねる。
「ん? お……そういやぁ……暑ぅなくなっとる!」
「ミサギさんのこの石、手をつないでたら効き目があるみたいだ」
「せなんやなあ。ユウどん、ありがとうな!」
ユウは頬が熱くなるのを感じた。周りが暑いからではないのだとわかる。
「あの! 木戸さんもボクと手をつないでください。暑くなくなります」
残る片方の手を伸ばし、今度は木戸を呼んだ。
しかし木戸は丁寧に膝をつき、なおも見上げるユウに対し頭を下げる。
「ユウ様のお優しさ、身に余る光栄です。私は問題ありませんので、どうかそのお気持ちだけ受け取らせてください」
「え?」
「手ぇ繋がんでも暑ぅないから、気にせんで大丈夫やって言っちょるんよ」
おそらく意味を理解していないであろうユウに説明するみっちゃん。
「あ……う、うん。
……本当に大丈夫?」
「はい」
木戸の表情は相変わらず無であったが、その声は優しげであった。
ミサギを探して進んではみるものの、灼熱の突風はユウを煽り、炎風は狂ったように舞い踊る。
「うぅ……」
その時だ。
ラァー……エェーイァー……
歌のような、囃子言葉に似た旋律が三人の耳に届く。
しかし、
「この……鳴き声……!」
ユウは、『鳴き声』と断言した。
ズドォン
突然、地響きが襲う。
足場にしていたパイプ管の束が衝撃で傾いた。
ユウたちは体勢を戻そうと顔を上げた瞬間、地響きの原因を目の当たりにした。
巨大なサルの顔。
その瞳は、この世界のように朱い。
大人でも余裕で喰らう洞のように大きな口は、凶暴を剥き出しにしていた。
ユウの言った『鳴き声』の正体もすぐ判明した。
ォオールゥールァー……
唸るサルの喉から漏れ出る音。それが、妖しくも人を聴き入らせる旋律となっていたのだ。
今ユウのいる場所は、建造物四階ほどの高さがあるだろう。にも拘わらず、地に立つサルの顔が同じ高さにあった。
「ア……!」
ユウは、開いた口を手で抑えた。
油断した。
そのサルの正体を理解し、つい声が漏れてしまった。
死がまさに目の前に迫っていたのだ。仕方ないとは思いはすれども、責められる状況ではない。
真っ赤な目がギョロリとこちらを向く。そしてゆっくりと顔を動かす。サルに似てはいるが、牙や体躯の大きさが、見るからに非なるものだと物語っている。この世界を赤く変えたのはこのアヤカシだろうか、そう思わせるほど燃えるような朱紅の毛並み。
憎悪と、トラウマからくる恐怖が口から飛び出すのを必死に抑えるユウ。
ルギュアアァァアアアア
サルの口が大きく開く。
「!?」
「マジかいっ……!」
「!」
サルはユウの恐怖ごと呑み込まんとばかりに牙を剥いた。
木戸はすぐさま鍵を取り出す。
みっちゃんは立ち上がろうとした。
ユウは――
巨大な口は、逃げようとした三人にパイプ管ごと喰らいついた。
そこには噛みついた跡がくっきりと残り、三人の姿はどこにもない。
サルはもごもごと咀嚼し、やがて喉を鳴らして呑み下した。
三人のいた場所を見つめ、満足げに軽く唸る。
「……そんなにおいしかったのかい?」
鈴を転がしたような声が、揶揄しながらサルの頭上から問いかける。
『!?』
理解するのに時間がかかったのは、サルも三人も一緒であった。
ユウがはたと顔を左右にすれば、そこはサルの口内ではなかった。
先ほどいた場所よりも高い建物の屋上で、見下ろしたところにいたのは先ほどのアヤカシ。
近くにはみっちゃんと木戸と――。
「ミサギさんっ……!」
朱く燃え上がる灼熱地獄の中、彼は銀髪をなびかせて、涼しげな笑顔を見せて立っていた。
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