ベータ魔術学院には、学院長室というものが存在しない。
職員室の一番上座に、でかでかとした机と共に学院長の席が君臨するだけだ。
理由は学院長の部屋にいては、常に部下たる教員達の姿が見えないから。そして部下から上司たる自分が見えず、統制が取れないから。
現役時代も同じような理由で、階級の昇進を重ねても最前線で指揮を取り続け、士気を保ち続けてきた。
規律を乱すものには罰を与え、時には命さえ奪う。そしてその死体が、部隊の規律を保つための生贄となる。
人を率いる事において必要な戦略眼を持ち合わせ、不必要な感情を置いてきたプトレマイオスは、今は学院の長として君臨している。
「先程、お前達の取っ組み合いを見る前に、生徒たち以外にもう一人影があったようだが……まずはそいつの話から聞こうか」
偶然か、今この職員室にはメルト、グローリー、そしてプトレマイオスしかいない。
足を組み回転椅子に座るプトレマイオスの前に、メルトとグローリーが並んでいる。
プトレマイオスの言葉を聞いて、反射的に声を出したのはグローリーだった。
「奴はどうやら雨男《エトセトラ》と呼ぶそうでしてな。不敵にも私の命を狙ってきたのです」
「ほう。グローリー先生の命を」
「中々の手練れではありましたが、私とメルトで何とか追い払いました」
「グローリー先生は尻餅ついてただけですけどね」
キッ、とメルトを睨みつけるグローリーに対し、続けるメルト。
「事実を述べたまでです。グローリー先生」
「私は丁度術を出そうとしていた所だったんだ。それを君が横取りをした」
ばん、とプトレマイオスの掌が机を叩き、二人の注目を集める。
「ここは軍隊の本部ではない。自らの有能さを誇示したいのであれば、戦士ではなく教師として示せ」
狼狽えるグローリー。
一方で特に反応も示さなかったメルトが、口を開く。
「じゃあ教師として報告しますが、あの雨男《エトセトラ》はベータ魔術学院の生徒です」
「それは本当か?」
「ベータ魔術学院の制服は、入学が決まったものにしか着れない仕組みになっている筈。その制服が見えました」
「ふん。ただの妄言だ。何とでも捏造が出来るわ」
グローリーがまた顔を訝しめて、メルトの方を向く。
今度は諫める事はせず、しかし声を大きくして二人の注意を引く。
「仮に侵入者ともなれば、捕まえなければ教育の柱であるベータ魔術学院に泥を塗る事となる。そしてメルト先生の言う通り、我が校の生徒であるならば一層その真相の究明に全力を注がねばならぬ」
「まったくです。生徒に舐められたとあっては、このベータ魔術学院の名折れも甚だしい。それは即ち、生徒の未来を担保する教師の名折れ。即ち、生徒の未来の名折れ……雨男《エトセトラ》を探索し、見つけ次第処刑にでもしなければ、この屈辱は収まりませぬ」
「生徒を処刑する気か」
冷えた声を出したのはメルトだった。
再びたじろぎながらも、顔をしかめてグローリーが返す。
「教師にたてつき、ましてや命を取ろうとしたのだ。しかもあろうと事かこのグローリー=ハーデルリッヒにだ! 最早生徒ですら何でもないわっ!」
「とにかく、真実を明らかにする。軍にも協力を要請する。雨男《エトセトラ》の解明には私も動こう」
「はい。是非」
勝ち誇ったような顔をするグローリーが、続けざまに話題を変える。
「そして色々起きた事件としては……学院長はリチャード=クレラス外交官が西ガラクシ帝国のスパイで、今もガラクシの壁を超えて西ガラクシ帝国に逃走したという悩ましい事件が……」
「ああ。私も新聞で読んだ。ここに早めに帰ってきたのは、その一件があったからだ……この学院にはリチャードの娘であるミモザも入学する筈だからな」
「やはり……そうでしたか」
不敵な笑み。
メルトは、大きく息をついて動向を見守る。
「プトレマイオス学院長。我が校は、東ガラクシ帝国において今後一翼を担う、輝かしい未来を想像するための学び舎。そういった信念の下、プトレマイオス学院長はこの学院を創立された筈」
「ああ。その通りだ。この国の未来ある子供達の発展を通し、この東ガラクシ帝国を……ゆくゆくは世界中の未来を豊かにするためだ」
「そうでしょう。ですがそれには障壁があります。ガラクシの壁なんて素晴らしいものが立っているのがその証拠……西ガラクシ帝国です。あの国は戦争によって我らを喰おうと言う気配しかない。“静《コバルトウォーズ》”を経ても、何も体質は変わりはしなかった」
「それもその通りだ。西ガラクシ帝国との戦争になった時、死んでしまうようでは意味がない。強く、逞しく育ててやらねばな」
「その西ガラクシ帝国に……重要な情報を売っていたリチャードは、東ガラクシ帝国を傾国へと変貌させたA級戦犯かもしれません」
「かもしれないではなく、実際にそうだ」
腕組をしながら、深刻な表情でプトレマイオスが頷く。
「西に渡った情報はA級指定される程の軍事機密だ……新聞沙汰にはなっていないが、軍上層部はてんやわんやだ。実際西はこの情報を基に間もなく動くだろう」
「であるならば――リチャードの血が流れているミモザも、即刻学院を追い出すべきです」
学院長の机に手を突き、有無を言わさぬ声色でグローリーが詰め寄る。
「あの娘の父親がやった事は、東ガラクシ帝国の存続すら根底から揺るがしかねない、最悪の出来事です。東ガラクシ帝国に仇なした“敵”がどうなるか、見せしめを持って生徒達に分からせるべきです」
「……成程な。お前の言いたいことは分かった」
腕組をして、浅く頷いた直後、メルトの方を向く。
「メルト。お前の話を聞こう」
メルトは身動きもせず、直立不動で答えた。
「……ミモザは退学にはさせません」
「貴様まだそれを言うか!」
グローリーの咆哮は無視して、メルトが続ける。
「ミモザの父親がした事は、確かに帝国への背反行為です。しかしミモザ自身は何もしていない」
「今ミモザは、お前が保護しているのか?」
「そもそもミモザは僕のクラスで受け持ってるので」
「ちなみにミモザの親友であり、ベータ魔術学院の生徒でもあるフクリも一時的に僕の寮で休ませています……後ほど報告しますが、彼女もこのグローリー先生に精神的苦痛を受けたので」
睨むグローリーから声が飛んできそうだったが、プトレマイオスの方が速かった。
「今はミモザの話をしてくれ。その件については後で話す」
ネクタイの結び目を一度引き、眼鏡を直してメルトが返答する。
「午前中外を出歩いてわかりましたが、このグローリーの様に色眼鏡でミモザの事を見ている人が殆どです。昨日に至っては、プロキオンの連中に連れ去られ、服まで剥がされ、危うく女性としての尊厳を踏みにじられる所だった。今ここで我々教師が最後の門番として彼女に寄り添わなければ、間違いなくミモザという未来は摘まれます。僕はそれを許さない」
「それが当然の法則! 自然の摂理! あの売国奴の血をのさばらせる事は、この帝国の未来に暗雲を齎すのだ!」
唾が飛んできた。
その方向を向くと、親の仇でも咎めているかのようなグローリーが指を差してきた。
「あのフクリもそうだ……何やら雨男《エトセトラ》の事を知っている様子。あの女も拷問に晒し、今すぐ雨男《エトセトラ》に関する情報を吐かせるのだ!! そうですよねプトレマイオス学院長!!」
職員室、たった三人しかいない空間にけたたましい声は大きく鳴り響いていた。
「事情は相分かった。その上でお前に命じたい事がある。グローリー」
プトレマイオスはそっと立ち上がり、グローリーの前に立った。
やはり自分のいう事の方が正しい。自分が黒といえば、白ですらも黒になる。
そんな全能感は、しかし一転して不測の事態に叩きこまれたことによって消滅する。
「この学院を出ていけ」
自分の優位を信じていた人間ほど、
グローリーは、空前絶後の呆れた顔をする。
「はあ? 今何と……」
「聞こえなかったのか。出ていけ。追放という奴だ」
メルトの怒気を孕んだ声とは違う、無駄のない冷徹な有無を言わさぬ声。
槍の様に貫くその声が、プトレマイオスの本気度を示していた。
「そもそも私が早々に帰ってきたのは、ミモザへのケアが必要かどうかを判断したかったからだ」
「お、お待ちください……学院長は、リチャードの娘をこの学院に残しておけというのですか!?」
「ああ、ミモザの父は確かに罪を犯した。だがミモザ自身は何をした」
「何をしたかが問題ではないでしょう!? もっと俯瞰的に、帝国という目で見るべきです!」
「帝国の未来を作るのは我々の様な老人ではない。もうすぐこの学院に通う様な子供達だ……ここは貴族議会でも、戦場でもない」
「うっ」
その割には細剣を抜いたのはプトレマイオスだった。
しかし女性である前に、全兵士の目標として掲げられていた軍人である彼女の剣裁きは、一応は戦闘経験を持つグローリーでも対応できない程だった。
零度夫人《プルート》の名に相応しい、氷点下の気配を漂わせる先端がグローリーの動きを封じる。
その凛々しい一連の動作を見て、昏い表情をしていたメルトが笑みをこぼす。
「“プトレ”さん……現役時代の癖、まだ抜けてないんすね」
「今は学院長と呼べと言ったはずだ。メルト先生」
「失礼」
両肩を竦めるメルトを見て、グローリーは確信する。
「……メルト、プトレマイオス学院長と繋がっているのか」
「昔からの知り合いでね。まあそんな事はどうでもいい。この場にあなたのような魔術師中の魔術師はいらないんですよ。家の威光を翳して邪魔な生徒を消し去り、興味を持った生徒にふしだらな行為をする……そんな奴が魔術師として通用するかは分からないが、教師としては一切風上にも置けやしない」
「貴様はハーデルリッヒの威光を示す場として、また教育大臣となられる父の意向に従ってこの学院に赴任した。この学院への出資も大きかったハーデルリッヒだ。“生徒に迷惑が掛からない範囲では大目に見てきたつもりだったが”生徒の未来を勝手に潰そうなどと考えているのであれば話が別だ」
二つの双眼が、グローリーを睨みつけている。
一つは零度夫人《プルート》の氷結せし敵意。
一つは白日夢《オーロラスマイル》の笑顔無き憤怒。
ここまで追い詰められて、グローリーがやっと発せた言葉は案の定の言葉だった。
「このベータ魔術学院へ、俺達が、ハーデルリッヒがいくら出資したと思ってやがる。それにお前らは教育大臣となるハーデルリッヒを敵に回したんだ。ここも創立早々長くないなぁ……」
「案ずるな。出資先など、パイプを辿ればそれなりにいる。私の創った魔術学院が、たかだか公爵様一人抜けた程度で揺らぐものかと思っているのなら、相当舐められたものだ……ここが学校で良かったな。もし戦場であれば、貴様は見せしめに処刑していたぞ」
「い、今の言葉……易くはないぞ」
「私は自分の言葉を、易く発したことはないよ」
決して揺るがぬ二つの直立不動を前に、グローリーに出来る事と言えば鞄を持って立ち去る事くらいだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!