『目論見通り、明日より白日夢《オーロラスマイル》であるメルトへの接近を試みる――ベータ魔術学院、メルト級の“副担任”として』
――とある一室で記していた文章は、人類が築き上げてきた文字を使った代物ではなかった。
特定の魔術を宿したペンで書いた、点と直線のみで構成された暗号だった。
例えば、東に紛れた西の工作員《スパイ》が使う物である。
それも、西に所属する工作員《スパイ》の中でも、帝国を揺るがしかねない存在を相手にする諜報機関の身に許された暗号である。
かのプトレマイオス学院長でも、“彼女”の正体を見破る事が出来なかった程の浸透力は既に発動していた。
『同時に、東ガラクシ帝国の教育大臣であるルジス=ハーデルリッヒに近づく。“ルジスの息子であるネブラ”がメルト級の生徒である事を利用し、奴に取り入る』
女性は、無表情で恐ろしき暗号を連ねていた。
汚れも穢れも見当たらず、また感情の一切が伝わっていない様な表情は、まさに“作業”に打ってつけだった。
先程までは“仮の顔”で化粧し、戦利品となる情報を入手している。
その時の変装用の顔面は、先程一緒に焼いたドレスやヴィックと合わさってとても良い仕事道具と化してくれた。
仕事用の表情で東ガラクシ帝国の重鎮の愛人として取り入り、情報を入手した後――病気に見せかけて“始末”もした。
『また、怪刀“欄魔”の持ち主の情報も入手した。今は雨男《エトセトラ》と名乗り、詳細は不明だが銀河魔術を扱っているようだ。その男も、ベータ魔術学院に通う生徒である事も判明。怪刀“欄間”を回収し、必要であれば雨男《エトセトラ》も貴重なサンプルとして回収する』
素の顔は、演技もする必要のない顔は、心ここに非ず。
心など、もう記憶にもないどこかに置いてきた。
ここにいるのは、ただ西ガラクシ帝国に情報と利益を東から奪い、時には破壊して殺戮する工作員。
『しかし最大の目標はメルトである。奴を必ず生存状態で回収し、必ずや西の繁栄に役立てさせる』
女性は、その髪を鳩の足元に括り付けると、最後に魔術を唱えた。
これは特定の波長の魔術で、かつ特定の“言霊”で鍵をするもの。
鍵となる言霊以外の魔術、もしくは物理的な力で鳩の足から離そうとすれば――鳩と暗号文が爆発し、その存在を知る者はいなくなるという寸法だ。
『太陽ハ西ニ還ル』
その言霊で鍵をする前に、暗号文の最後に書いた名前がある。
『――“隼《はやぶさ》”』
“隼《はやぶさ》”。
その女は、西ガラクシ帝国のスパイである。
同時に。
その翌日から。
ベータ魔術学院に赴任する、メルトを担任としたクラスの副担任――として潜入する。
鳩を出した直後だった。
先の任務で特にミスをした点は思い当たらないにも関わらず、殺意に部屋が囲まれている事に気付く。
「……」
先手を打ち、“隼”はその細身の体で三階もの高さから飛び降りる。
どこかの銀河魔術の様に重力を操った訳ではなく、強化され柔軟性も誇る肉体で持って無事受け身を取ると、背後の追手を気配だけで人数を把握したうえで逃走を始める。
あの服装は勿論頭に記録している。
プロキオンの様な非公式な過激派団体ではない。
東ガラクシ帝国が直々に用意した、諜報員を排除する為の機密部隊。
一人一人の戦闘力も伊達ではない。対人間に対しては圧倒的な戦闘力を誇る。
捕まれば最後。この世界には死より辛いものがあると学習して、最後には果てる。
「東の犬どもが」
“隼”は短く吐き捨てる。
死よりつらいもの。
彼女にとってそれは、狂おしい程に愛する西ガラクシ帝国の凋落。
「青空は西ガラクシ帝国にこそ存在する――!」
小さく呟くと一旦逃走を諦める。
しかし諜報員として、素顔は晒さない。
緊急の為に少なくせざるを得なかった武器の中から、“隼”の被り物で頭を覆う。
「――私こそは隼。ガラクシ帝国本来の血統に青空を齎す渡り鳥」
“隼”はその翼を広げる。
◆ ◆
「手こずらせ……やがて」
多勢に無勢。
“二日”もの戦闘の後、遂に隼は地に落ちた。
だが彼女を追い詰めていた名も無き機密部隊も、最早部隊としては壊滅しきっていた。
後方部隊まで投入して、このざまだ。
名前の代わりに、長きにわたって東ガラクシ帝国を陰から支えてきた歴史と由緒を積み重ねてきた百戦錬磨が、最早数人しか残っていない。
隼の意識を刈り、地に伏せさせるまでに果てしない犠牲を払ってしまった。
勝てたのは、正直運が良かった。
逆に隼が負けたのは、運が悪かった。
第三者がこの戦闘を見ていれば、誰もがそう思う事だろう。
「よし……この女を連れ帰るぞ」
「ああ。散っていた奴らの屍と、天秤が釣り合えばいいがな」
「隼のマスクを脱ぎ取ったら、どんな美人が出てくるんだろうな」
「欲しいのは女じゃない。敵の諜報員だ」
男達がまさに群がろうと一歩を踏み込んだ直後、男達は逆に距離を取った。
「こいつ……まだ動けるのか……!」
隼がうつ伏せの体勢から、一瞬にして片膝をつく体勢にまで回復したのだ。
しかし右腕はぷらんとしていう事を聞かないらしく、片足も言う事を聞いていない。
何よりトドメの一撃となった頭部のダメージで、やはり意識を保つのもやっとの様だ。隼の仮面の下で、呼吸が乱れている。
「一斉にかかる。最早この女に戦闘力は残されていない」
男の見立て通り、最早隼は戦闘不能だ。
後ろは川に面した崖。しかも今現在、記録的豪雨が降りつけている為に、とても人が沈めば助からない激流と化している。
逃げ場はない。
最早、隼が飛べる場所などどこにもない。
「……待て!」
しかし、隼は特に何も恐怖していなかった。
目前で、今まさに大爆発を引き起こそうとしている自爆用の紅の魔法陣を出現させた後でも。
「この規模の爆発……俺達を道連れにする気か」
「くくく……最早逃げようとも遅い……」
その笑みだけで充分だった。
実際、中にあった隼の瞳に、恐怖は無い。
寧ろ本懐を成し遂げられる。光栄な事この上ない。神への最後の奉仕。
西ガラクシ帝国への愛国心が、一身に詰まった瞳で嬉々として語りだす。
「“隼”の最後の羽ばたきで、貴様らと共にあの世へ旅立つ!」
とても今から死に行くものの声ではない。
男達も影の存在としていつでも死ぬ覚悟はあっても、死ぬことに喜びを感じることは無い。
しかしこの隼は、絶頂を感じている。
今目の前に迫った大爆発よりも、声から発せられた狂気に男達は恐怖した。
「この……妄執者が!」
そして――。
辺り一帯を包み込む爆炎が広がった。
また、一つの女体が激流に突き落とされ、飲み込まれていく。
「……」
被り物も燃えて吹き飛び、露になった隼の口元は緩んでいた。
命を懸けて目指した、西ガラクシ帝国による東西統一が目前にまで迫っている。
そんな夢物語に、思いを馳せながら。
ただ一つ。
メルトというダークマターの基に副担任として潜入し、西ガラクシ帝国へさらなる戦力を連れ帰るという任務を遂げられなかった悔やみはあった。
しかしそれすらも。
“どうせ替えの効く存在が何とかしてくれると”。
やはり自身満足げに、濁流の中で遂に意識を手放していた。
人生と呼ぶには、あまりに昏い二十年間も――手放して――
二度と羽ばたけない、水の底へ――――
――。
――――。
(……ん?)
隼として死んだはずの女性は、死んでいなかった。
しかし、びしょ濡れの体が上手く動かない。
どこかの石だらけの岸に打ち上げられたようだが、目を覚ます事すら難しい。
『いやー、昨日は物凄い雨だったね、メルト先生』
『うん。まあ4月は天気が崩れやすい。2ヶ月もすれば梅雨がやって来る……今年は梅雨前線が来るのが早いらしいけどね』
何やら会話が聞こえる。
若い男性と、明らかに少女。
こっちに近づいてくる。というより、目前を通り過ぎそうだ。
『ちょ、ちょっとメルト先生……誰か倒れているよ!?』
『本当だ……!』
倒れている隼に気付いた様で、抱き起された。
『酷い怪我……特に頭、血が出てる……』
『だけど息はあるようだ……直ぐに病院に連れていこう。ん? 待てよ……?』
『どうしたの、先生?』
『この人、あの情報通りなら……まさか“ポル”!?』
『ポル? 誰それ……?』
『ポル……先生だ。僕のクラスの、副担任だよ』
『えぇっ!?』
(ポル……ポル……)
その名前を頼りに、ようやく隼は目を開けた。
自らを抱きかかえていたメルトという男性教師と、せかせかと隼の出血や傷を拭うミモザという生徒がそこにはいた。
どちらも、隼として既に得た情報通りの人間。
隼はこのメルトという男性教師――もとい“白日夢《オーロラスマイル》”を捕え、更にクラスに関係する様々な戦利品を西ガラクシ帝国に連れ帰る。
そういう任務だ。
だからこれは好都合。
このまま助けてもらい、何事もなくベータ魔術学院の教師としてメルトに近づく。
……筈だった。
もし、“隼”が。
“本当に生きていたならば”。
『大丈夫か!? ポル先生、大丈夫か!?』
必死に目を見て呼びかけるメルトに、隼と“呼ばれていた”女性は質問する。
「……教えて、ここ、どこ?」
「アルファの郊外だ……ポル先生、ここで倒れていたんだ。一体どうしてこんな事に……」
「どうして……どうして……?」
それは、東ガラクシ帝国の諜報機関に自らの事がばれ、最後は大爆発で自らもろとも彼らを返り討ちにしたからだ。
しかし、これを説明する事は出来ない。
理由。
“隼”としての正体をばらす事と同義だから、ではない。
もう、彼女はその経緯を話す事さえ出来ないのだ。
何故なら――。
「私……ポル……?」
「ああ、そうだよ……って、あれ? 違うのかい? あなたは一体……」
自分の名前を確認するかのような発言に、メルトもミモザも呆気に取られていた。
そして“隼”は、遂にその異常を語りだす。
「……思い出せない……私は、誰?」
隼は、既に死んでいた。
肉体は生きていても、名前まで記憶から失ってしまっているとして、誰がそれを生きていると言えようか。
全てを失っていた。
“隼”として得た情報も。
昨夜までの戦闘経緯も。
“隼”としての、本当の使命も。
そして西ガラクシ帝国への、異常なまでの愛国心も。
そう、全ての記憶が――“隼だった”女性の中から、消えていた。
「私は……ポル……なの?」
残されたのは。
“ポル”という、とある魔術学院の教師としての名前のみだった。
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