二人になった職員室で、深く息を突いたのはプトレマイオスだった。
学院長の席に深く座りながら、微妙な表情を見せる。
「メルト。すまんな。奴を泳がせていれば、“オリオン”の証拠を掴めたかもしれなかったが……」
物事は思い通りにはいかない。
若干の悔しさを示すプトレマイオスに対して、メルトは特に咎めるそぶりは見せない。
「いや。あれで正しかったと思う。グローリーをこの学院に残していたら、救える未来すら救えない」
メルトが学院長の机に腰かけても、プトレマイオスは特に何も言わない。
「正直、いざとなったら僕はあの人の事を殺していた」
「白日夢《オーロラスマイル》は卒業したのではないのか」
「僕はそう名乗ったことは無いよ。プトレさん達が勝手に着けただけだ」
プトレマイオスは、メルトの正体を知っている。
メルトがどのような人間かも知っている。
そもそもメルトとプトレマイオスは、このベータ魔術学院の創立が邂逅のタイミングではない。
二人の縁を辿るには更に遡る必要があるが、それはまた別の話。
「でもハーデルリッヒの持つ力は強いよ。戦えるの?」
「敵前逃亡は士道不覚悟だ……何、お前が気にする事じゃない」
「プトレさんなら確かにハーデルリッヒと戦えるだけの力はあるだろうけど」
「まあ一筋縄ではいかんな。向こうに付いている諸侯は質も量も桁違いだ」
ルジス=ハーデルリッヒは教育大臣となり、公爵にまでその地位を押し上げた。
一体戦争中にどんな手回しをしたんだと問い詰めたいところだが、論点はそこではない。
権力は、即ち軍力。プトレマイオスやメルトとて、数の理論は無視できない。
だからこそ、プトレマイオスも自身の勲章を権力に変換し続けて来たわけだが。
「雨男《エトセトラ》の言葉を借りる訳じゃないけれど、確かにルジスもグローリーも、教育を権力を高める為の土壌としか考えていない。未来には、奴らは確かに邪魔だ」
メルトは権力に興味はないし、権力を得る手段はないし、得ようとすら思わない。
権力というものは、教師にとって枷になる。
背中で語るだけのものは持ち合わせているべきだが、背後にそびえたつ存在は生徒にとって毒でしかない。
特にグローリーのような、自分の欲求を満たしたいだけの馬鹿には。
「最悪、僕が消すよ」
「それは最悪の手段だ」
「……未来を守る為なら、僕は生徒と向き合えない事だってするつもりだ。勿論、最終手段だし、だからこそプトレさんにこうして宣言しているんだけどね」
プトレマイオスは机に肘を突き、手の甲で顎を囲っている。
冗談とは受け取っていない様子だ。
当然だ。
プトレマイオスは、メルトという男が実際相手がインベーダだろうと人間だろうと、“最悪の手段に出る事が出来てしまう”男だと知っているのだから。
「なら、そうさせない事が私に出来る最大の務めだな」
それなら、オリオンの一件がハーデルリッヒが裏で手引きしていた証拠を見つけるしかない。
オリオンのアルファルドチルドレンは、やはり無実だった。
“メルトとプトレマイオスが一年前から追っているあの事件”の正体は、メルトの中で確信に変わっていた。
証拠には成り得ないが、雨男《エトセトラ》の悲鳴を代弁するような“黙《サイレントチルドレン》”は確かにその光景を写していた。
盤上の駒が思い通りに動き、打ち取られていくような無機質な顔をするルジス。
ルジスの兵達に撫で斬りにされ、弄ばれ、殺されていく幼い子供達。
離れない。
頭から離れない。
あれを実際に感じた時の、心が引き裂かれる感触は痛いほど分かる。
だって。
メルトも同じだから。
「プトレさん。雨男《エトセトラ》の捜索、早めに動くように軍に呼びかけてくれないか」
「欄魔の事だな」
「……あれは危険すぎる。実際、雨男《エトセトラ》への精神汚染は進んでいた。無理に引き剝がせば命に係わるかもしれないが、早めに対処する必要がある」
「分かった」
プトレマイオスが頷く。
「私からもお前に指示がある。まず、グローリーが教師で無くなった事によってあぶれてしまった生徒の事だが、うち一人のフクリについてはメルト先生が見た方がよさそうだと判断する。既にお前が保護しているという事だからな」
「生徒が一人増えるという事だね」
「他の生徒についても割り振るが……しかしこれでお前の生徒は“6人”だ」
ミモザ、フクリを含めてメルトが見る生徒は6人。
その話題に行き着いた時、メルトは眼鏡を直しながら意志を伝える。
「僕の負担を気にしてるなら大丈夫だよ。僕は正直、この学院に入ってくる476人の生徒全員を見たいくらいなんだから」
「そうはいかん」
半分冗談だろうがな、とプトレマイオスは呟く。
「忘れたか。お前のクラスには“ネブラ”がいるのだぞ――“ハーデルリッヒの末弟”だ」
ネブラ。
メルトが見る生徒の一人であり、ルジス=ハーデルリッヒの息子の一人である。
メルトとグローリー以外はの兄弟は、インベーダからの先制攻撃により“街ごと”死亡してしまったが、避難先でルジスが妻の一人にべブラという少年を産ませたらしい。
即ち、メルトにとっては生徒であるとともに、弟でもある。
「生徒ならハーデルリッヒでも関係ない。未来を救う」
言い換えれば、ハーデルリッヒの力はまだ学院に及んでいるのだ。
メルトもプトレマイオスも絶対に手を出せない、生徒という領域に配置しているのだ。
追放なんて手段を迂闊に使えば、メルト達は使命無き教育者になる。
だが、メルトはハーデルリッヒの息子だからと言って、差別する事はしない。
貴族として他の生徒より丁重にもてなす事も、アルファルドチルドレンを蝕む穢れた血として忌む事もしない。
「勿論だ。だがハーデルリッヒの力が厄介に働く事がある……何より、雨男《エトセトラ》の標的はネブラに及んでいる可能性もある……そうなった時、一人ではどうしても後手後手に回ってしまう可能性がある」
「……」
メルトは反論しなかった。
そう、ハーデルリッヒの血が流れているという事は。
――雨男《エトセトラ》の復讐対象に入っている可能性があるのだ。
「何より、一年前のオリオンの一件……そのネブラが引き金になった可能性があるからな」
「分かった。その副担任というのは?」
「出張中、何人か人財を見つけた。その一人を充てたい……若く実績は無いが、魔術技能、戦闘技能はお前には劣るにしても、申し分はない」
「今はどこに?」
「明後日には来れるそうだ」
「……分かった」
話は終わりと、メルトは机から腰を上げ歩き始める。
淋しい後姿を見つめていたプトレマイオスが、声をかけたのはその直後だった。
「……私が、全力をかけて生徒の未来は守る。“7年前”の“アストライア”の様にはさせない……そして雨男《エトセトラ》が拘るオリオンの様にもさせない」
メルトは立ち止まる。
振り返ることは無く、少しだけ伏し目がちになって返す。
「それが、アストライアの一件を止める事が出来ず、お前の“生徒”と“家族”を奪ってしまった私に出来る事だ」
「7年前も言ったでしょう。あんたに対しては、僕は許している、と……生徒達の未来のために、何が出来るか。失ったものを数えるより、そうやって前向くしかないんですよ。プトレマイオス学院長」
「……メルト先生」
教師としての呼び方に戻すと、メルトは首元のペンダントを取り外して掲げる。
二つの指輪が、歪んで、くっついた首飾りを。
「これだけは、ずっと身に着けてます。いつでも失う事の怖さは、この“結婚指輪”が教えてくれる」
「……」
そして振り返ったメルトの眼は、とっくに枯れていた。
力のない笑顔のどこに、かつて世界を救った英雄の要素があるというのか。
「僕はもう……失いたくない」
手を挙げる子供達の元気な声と、一緒に教室を歩く“妻”の情景だけが、その眼に映っていた。
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