部屋に入ると、ソファに腰掛けているフクリの頭が垂れていた。
今度は落ち込んでいるとかではなく、静かな寝息を立てて微睡んでいた。
寝ようと思って寝ているというより、座っていたら思わず寝てしまった様子。
考えてみれば朝から固いベンチに横たえられていたり、セクハラを強要されたり、恩人が思わぬ行動に出たりとストレスの連続だった。疲労心労共に困憊と言ったところだろう。
ミモザの入学取り消しが正式に取り消された他に、フクリがこのクラスの生徒になる事を伝えようと思っていたが、この分だと暫くかかりそうだ。
もたれ掛かって眠るより、いっそ横になった方がいい。
そう考えたメルトが、起こさない様に小さくて軽いフクリの体を横たえた時だった。
「あー! フクリちゃんを襲ってる!」
「人聞きが悪すぎる。グローリーと一緒にするな」
布を被せた所で、思わぬクレームに鼻で笑う。
着替えを持っていたミモザも冗談で言ったようで、笑顔を見せてきた。
「着替え……シャワーかい」
「朝から色々動いたからね。フクリちゃんには先に入って貰ったんだ」
「制服が変わっているのはそういう訳か」
笑顔の中に一筋の不安をうかがわせながら、ミモザが近づいてくる。
「メルト先生、さっき雨男《エトセトラ》と戦って体、大丈夫?」
「無傷って訳にはいかなかったが……まあ問題ない。よくある事よくある事」
「よくある事なの!? やっぱり先生って戦争経験者だよね」
「そうだね。戦争中は何度も体の傷だけじゃなく、魔力切れで死にかけてたし」
「あんな高速で動いたり、飛んだり、ワープみたいな事するのに?」
信じられない、という顔をしてくれるのは嬉しいと思うべきなのかどうか。
「例えば雨男《エトセトラ》が10人いたら本気で不利だった。戦争は相手も集団でやって来るし、そんなもんだ」
実際こんなに魔力を一気に使い切るのは“静《コバルトウォーズ》”以来だ。
雨男《エトセトラ》自身、これまで戦ってきた中で相当の実力者だ。縮地《ソングスリップ》状態をあそこまで長く維持できるスタミナは、欄魔の補正があるとはいえ厄介だった。
当然メルトも縮地《ソングスリップ》状態で在り続けなければならない訳だから、魔力の消費は免れない。
勿論魔力とは言っても、“地水火風の基本属性のそれとは別口”なので、ポンコツの基本魔術で良ければ問題はないが。
「そういえば、さっき僕が襲うどうこう言ってたよね」
「うん。フクリ可愛いし。ちっこいのにおっぱいも大きい眼鏡っ娘だし」
平均的な点から見れば、ミモザもそれなりに育っている。
しかしメルトが注目するのはそんなミモザの膨らみで無く、着替えだった。
一回見て、呆れたような顔つきで眼線をソファに戻す。
「一応襲われない様にした方がいい努力もあると思うんだ。この寮男子も使う可能性大いにあるし」
「へっ?」
「この後着替える下着の色はピンクかい?」
ミモザが頬をピンクに染め、図星であることを示す。
重ねた着替えから、桃色を下地にした色とりどりの水玉模様上下おそろいの布切れがはみ出しているのだ。
「ちょっ、ちょっ……先生信じらんない!! 変態!」
「先生が変態呼ばわりされて、君の大事なものが失われないなら大いに興奮しよう」
「……気を付ける」
恥じらいだ表情で、失態をしてしまったとくしゃくしゃに顔を歪めるミモザは、そのまま逃げるようにシャワー室まで駆けこんでしまった。
しかし父親以外の異性がいる家でシャワーを浴びるのも初めてなのか、ドアからこっそりとメルトを睨んでくる。
「シャワー室、覗いたら絶交だからね」
「教師と生徒には絶交っていう表現は正しくないな」
「あとフクリを襲ったら絶交の上絶交だからね」
返事をする前に、ドアが強く閉まってしまった。
絶交の上に絶交を重ねる表現なんてあっただろうか。嫌ないと反語を繰り出す暇も無かった。
ミモザの入学は安泰だと伝える暇も無かった。
「本当に、スタミナならもう僕を超えてるハイテンションだな……と安心できればいいんだけど」
いや、ミモザはハイテンションなのは確かにそうだが、やはりストップを掛けられない様な気がしている。
一連の出来事を受けて、フクリの様に何も考えられない程に疲れ切るのが当たり前なのにも関わらずだ。
実際の所、先程下着が見えてしまったミスも、疲れによるものなら?
異性が現れるかもしれないと分かっている建物内という事にも、もう気が回っていないのだとしたら?
そもそも、いきなりメルトの献立を何とかしようと考えたのも、気を紛らわす為だとしたら?
もう、パンクは始まっているのではないか。
そう思い、一つでも不安を取り除こうとシャワー室に向かう。
入学の取り消しはもう考えなくていい。グローリーは追い出された。フクリも同じクラスだ。
そう説明したら、少しは落ち着くかもしれない。
「……いや、駄目だ」
メルトはシャワー室に近づいて、しかしノックをする事も、声をかける事もしなかった。
もう中で着替え、裸かもしれない。
見ないにしても、ノックや声だけでも、刺激になるかもしれない。
生徒の未来を案じるが故、メルトにしては慎重すぎる選択をして、椅子に座り込む。
先程の戦闘で、疲労やダメージがないと言えば嘘になる。
脳が睡眠を欲求する中で、フクリの寝言を耳にする。
「雨男《エトセトラ》さん……もう、やめよう……?」
寝心地の悪い顔で、小さな祈りをつぶやく少女の寝顔に、顔を緩ませる。
「そうだな……フクリ」
彼女は、夢の中でも雨男《エトセトラ》を心配している。
勿論、メルトも雨男《エトセトラ》を不安視している。一刻も早く正体を暴きだし、こんな事を辞めさせないといけない。
本来なら軍機関の役割だろうが、違うクラスだろうとその真実を知ってしまった以上、見過ごすわけにはいかない。
生徒はミモザだけじゃない。
フクリも、そしてハーデルリッヒであろうと生徒であるネブラも、他3人の生徒もそうだ。
そして自分のクラスじゃない生徒の未来も、守らないといけない。
否、最早――お願いだから、この世界の子供達の未来を――。
(そうだ……僕はもう、教師になったんだ。ツクシ先生と同じ……ここが、頑張り時だ)
『なら、大人の俺はどうして教師になったの』
ふと、気づく。
せせらぎ。
心が清まる音で目を覚ますと、メルトは森の中にいた。
「……子供の僕?」
隣を見ると、座り込んでいる子どもがいた。
ソファでも椅子でもなく、自分と同じように草の上に座り込む10歳の頃の――メルトだった。
ツクシに会って、世界が開けた頃のメルトだった。
『世界の全ての子供達の未来を守りたいなら、教師になるべきじゃなかった。大人の俺は、雨男《エトセトラ》みたいに世界に冒険に出ればよかったじゃないか。人間の闇から、アルファルドチルドレンを救うあの子みたいに』
意地悪そうな顔で、子供のメルトは続ける。
『教師になって、生徒の未来を救えば、世界全ての未来を救った気にでもなった? って、雨男《エトセトラ》にも訊かれなかったっけ。大人の俺は、答えられなかったけど』
「それでも僕は……ツクシ先生みたいに」
『ツクシ先生は俺の先生として、未来を導いてくれた。でも星の子供達の未来そのものを救った訳じゃないだろう?』
本当に、こんな漆黒の顔をする少年が自分だというのか。
真っ白な仮面を、笑顔の方向で被ったこの少年が、メルト自身だというのか。
メルトが呆気に取られていると、遂に何かが心臓を貫く。
『仮に大人の俺がそうしたいと願ったところで、未来は守れないと思うけどな』
吹き飛ばされるまま、宇宙空間が周りに広がる。
無重力空間。何もない空間。
“黙《サイレントチルドレン》”しかない様な世界に、映る一筋の光。
それはメルトにとって絶望の繰り返し。
もう何年、この宇宙彷徨っているのだろう。
幾星霜、この銀河を迷っているのだろう。
気が遠くなるほど昔から、ここにいるような気がする。
ツクシの優しい手を無くして、迷子になったあの日から。
「ツクシ先生……」
自分を街からワープさせて、光線の一斉射撃に街ごと消えた恩師の最期。
何もない空間なのに、そのサブリミナルは瞼の裏にでも強く焼き付く。
『だってそうだろう?』
ここが墓場だと気付いた時には、荒唐無稽な軌跡の隘路だと気付いた時には既に遅い。
暗黒の一つ一つが墓石で、墓標で、後悔と気付いた時には始まっている。
もう次の映像が、瞼の裏に焼き付いている。
『俺達はいつだって、大事な人すら救えなかったんだから』
たどり着いた教室では、沢山の命が消えていた。
子供。
子供。子供。
子供。子供。子供。子供。子供。子供。子供。子供。
子供。子供。子供。子供。子供。子供。子供。子供。子供。子供。子供。子供。
――即ち、全員生徒。
血塗れ、血溜まり、紅、赤、朱色に揺蕩うは、メルトにとっては家族の様な子達だった。
メルトが守りたかった、未来だった。
“最初の”。
“生徒”だった、にも関わらずだ。
『いつだって、俺達は、死に損なってばかりだから』
後ろを振り向く。
光。
陽光。
誰かが死ぬには、あまりに平和過ぎる青空。
宇宙と自分の間を、一つの影が遮る。
ギシ、ギシ、と縄を軋ませる悲痛な音を靡かせながら。
一人の少女が、ぶらさがっていた。
ぶらさがって、揺れていた。
永遠に、掲げられていた。
「“クロユリ”……」
そこにいた少女は。
“本当に家族になった”筈の。
“同じ指輪をつける”筈の。
“妻”になる筈の――。
『ほら、大人の俺』
耳に入っていたのシャワーの音。
そして少女が、心配そうに呼ぶ名前。
『命って、羽毛より軽いって再確認する時間かもよ?』
「――ミモザ、ミモザ!」
はっ、とテーブルに伏していた顔を上げる。
すっかり夕暮れ時になった寮内で、フクリの心配そうな声が響いていた。
シャワー室前で、ドアに必死にノックしているフクリに話しかける。
「あっ、先生!」
「どうした」
「ミモザちゃん、ずっと返事がなくて……」
というかまだ入っているのか?
メルトの中に、そんな疑問がよぎった。
何故ならこの夕暮れ時が示す通り、ミモザが入ってから相当時間が経っている。
しかしシャワーの音はずっと鳴り響いている。
直後、寮中を探すもミモザの姿も見当たらなければ、彼女の靴も残ったままだ。
そうなると、やはりミモザはシャワー室にしかいない事になる。
「ミモザ、ミモザ! 入っているのか!?」
ノックした途端。
嫌な、予感が走った。
悪夢が、思い起こしたせいだろうか。
生徒が死んだ時の事。
全身を抱きしめてきた、絶望の尻尾。
それが見えた気がした。
「フクリ。ここを開ける」
「は、はい……」
仮にも女子が裸かもしれない部屋に突入するというのだから、何か言われるかと思ったがそれは無かった。
中でミモザが異常事態かもしれないという事を思えば、優先度を入れ替えなければならない時だってある。
絶交で済むなら軽い話だ。
変態呼ばわりで済むなら笑い話だ。
生徒の未来が、無くなるあの絶望と比べたら。
「……」
そして扉を開ける。
「ミモザ!?」
予想通り。
しかし、蒼白なった苦しそうな表情がこちらを向いていた。
意識を失った少女の裸体に、シャワーの雨は容赦なく打ち付ける。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!