「……あれ?」
ミモザがようやく目を覚ました時には、すっかり夜も更けていた。
夜闇に塗れていたものの、慣れた目から自室だと判断出来た。
しかしこうして寝巻を身に着けて、ベッドに横たわっている理由がいまいち思い出せない。
なんだか脳に霞がかかった気分で、正直体を動かすのもままならない状況だ。
「……確か」
過去に記憶を戻そうとして、一瞬目前まで見ていた夢を思い出す。
確か、人を怪人へと変えてしまう酷い夢だった気がする。悪夢だった。
「――シャワー室で倒れていたの、覚えてない?」
灯りと、汗を拭う為のタオルを持って、メルトが入ってくる。
「シャワー室で倒れてたって……」
寝ぼけ眼がどんどんと見開いていく。
記憶が無くなる直前まで、シャワー室で裸だった。
そしてその差異として、今は服を着ている。
誰かが服を着せない限り、助けない限りはこのベッドに横たわっていることもあり得ない。
「えっと、私は、どうやってここに……」
もし助けた人間がメルトなら、生まれたままの姿を異性に見られたことになる。
遂にその結論に辿り着いた様で、人生でこれまで経験したことないような恥じらいに満ちた顔をして布団に顔をうずめていた。
穴があったら入りたい、隠れる場所があったら隠れたい、死ねる方法があったら死にたいと言わんばかりに表情が崩れている。
「えっと先生……色々私も何が起きたのか、何となく察しがついててさ……」
「うん」
「正直に、正直に教えて欲しいのね……私怒らないから」
ミモザの眼の焦点が合っていない。
あちこちに視点が散らばっている。グルグルしている。
怒らないから、と言っている割には既に泣き始めている。
「私、シャワー室で倒れてて、それから……? どうなった……?」
何故ミモザがこんな反応を見せているのか、メルトにも当然合点がいっている。
メルトも覚悟を決めて、正直に話す。
「僕とフクリでシャワー室に入って、君の意識が朦朧としている事に気付いて、ベッドまで運んだ」
「や、やっぱり……先生も助けてくれたんだよね……あ、ありがとう……」
感謝するときにこんな時でもぺこりと忘れない辺り、意外とミモザは律儀だ。
そして、恐る恐るようやく本題に入る。
「それで……み、見た?」
一瞬沈黙。
ミモザは伝わらなかったのかと思い、手でも示し始める。
胸を包むように手を当てながら、
「お、おっぱいとか……」
更に下腹部の三角地帯を両手で抑えながら、もじもじしつつ、
「こ、こことか……」
質問するのでさえ精神力を消費している。
それだけ、恥辱を耐えて質問している。
メルトは一瞬誤魔化す事も考えたが、いずれ隠していても判明する事。ミモザの心の傷を最低限に抑えようと考えるならば、逆に正直に言うべきだと判断する。
「ごめん……見た」
その返答に、真っ赤になるミモザ。
体を抱えながら、再び布団に顔をうずめる。
「……や、やっぱり……! あ、ああ……そ、そりゃそうだよね……」
なんて顔をしたらいいのか分からないミモザ。
それはメルトも同じだった。表情に、ミモザを傷つけたという罪悪感が滲み出ていたからだった。
「本当にごめん……ミモザ。嫌な思いさせちゃったね」
「ま、待って! 別に先生が謝る事じゃないよ! こ、こんなの仕方ない事だよ……私、体おかしかったから倒れちゃったんでしょ? もし放っておかれてたら死んでたかもだし……! いやー、そうなると恥ずかしい所見せちゃったね、参った参ったー! もしかして欲情しちゃった? そりゃ教師と生徒の恋愛なんてよくある事かもだけど、これでも先生の半分しか生きていない様な子供なんだから、そこは頑張って耐えてね! あはは、はは、はは」
棒読みの言葉に、しかしメルトは乗らない。
ただ、後悔と懺悔の昏い面持ちだった。
「……あの時は他に方法が無かったと思うが、今思えばもっと上手くやれたかもしれない」
「メルト先生……」
物憂げで、涙で枯れた声にメルトが精一杯の笑顔を取り戻す。
励まそうという笑顔。ミモザが自然とできる笑顔も、メルトは意識しないと出来ない。
「まず、入学できるかどうかは気にしなくていい。逆にグローリーが教職を降りる事になった」
「そうなんだ! というかグローリーまでいなくなったとか! 私達の勝ちじゃない!」
それを聞いて、若干ミモザが安堵したような面持ちを見せた。
結果的にだが、これをシャワー室越しに言うべきだった。
上手くやれたかもしれない。
「これで、改めてメルト先生の生徒やれるね! 色々ありがとう! これからもよろしく! いえい!」
「……見た感じ体は回復してるみたいだけど、明日念の為に医者に行こう。勿論、一緒にだ」
「そ、そうだ――ね――」
所々言葉を詰まって聞こえた。
さっきまで自分の体を余すところ無く見られたという羞恥心から一転、明らかに恐怖を感じている表情だった。
「ミモザ……!?」
メルトが声をかけると、シャツの裾に儚くも強い力がかかっていた。
震えるミモザの指が、必死に裾を掴んでいた。
「あれ、なんで……ごめん、手が勝手に……」
「……」
「ごめん、離すからちょっと待って……あれ、あれ……」
しかしまるで神経が麻痺しているかのように、摘まんでいた指は動かなかった。
ミモザが離れろと念じれば念じる程、逆に力が増していく。
「怖いよね。こんなの、普通は耐えられないよね」
石のように固くなってしまっていたミモザの掌の上に、優しくメルトの手が重なる。
大きく涙目を見開いたミモザの震えが、弱くなり始めた。
「それでもミモザは、僕達に心配をかけまいと沢山自分から何かやろうとしていた。すごいよ。誰にも出来る事じゃない」
「そうなの、かな……私、そうしてないと自分を保てなかったんだと思う。皆と一緒にいないと、一人だとおかしくなっちゃってたんだと思う……!」
だって、だって……と。
ようやくミモザは、薄暗い中吐き出した。
自分の精神に居座っていた、昏い衝撃を口から吐き始めた。
「お父さんが皆を裏切って……! しかも私の父親じゃないってどういう事って感じで……! プロキオンに殺されるかと思ったし……! 服脱がされて下着姿でアジトうろつくの恥ずかしかったし、危うく犯される所だった……! 私、何もしてないのに……! あんなに楽しみにしていた学校生活も出来ないかもしれないし……! 街の人達、私をあんな眼で見てくるし……! フクリちゃんだって大変な目にあうし……!」
メルトの手をぎゅっと握りしめる。
壊れるくらい、離れたら命を失うんじゃないかというくらいに握りしめる。
弱音を吐きながら、蟠《わだかま》りを吐き出しながら、ジレンマを非難しながら、それでも空っぽにならないどす黒い感情という物を吐き出し続けながら。
残念なぐらいに、綺麗じゃなかった世界への不満を放った。
途方もないくらいに、愛の無かった父親への失望を呟いた。
神も経典も見放したような、肉体と精神の死を引き起こすような試練への絶望を謳った。
「なんで……!? なんで私がこんな目に合わないといけなかったの!? 私、あの時お父さんについていくべきだったの……!? なんで外の世界を歩くのにこんなに怖がらなきゃいけないの……!? 学校生活を諦めても……一生あの男の下で箱入り娘やっているべきだったの……!? 先生、ねえ、先生!!」
思わず押した掌が、メルトの胸にぶつかる。
そこでようやく我に戻ったのか、ミモザが上目遣いでメルトを見つめた。
「ごめん……メルト先生に八つ当たりするつもりはなくて……!」
しかし少しだけ安心したかのように、メルトは、笑っていた。
眉の形は若干、悲しそうだったけれど――そんな感想も、変わらず握り返してくれるメルトの手の暖かさに消えていった。
「フクリがさっき言っていたんだ……ミモザはやっぱり溜め込んじゃうタイプだから、色々こうやって吐き出させるべきなんだって……」
「……フクリちゃんが」
「フクリの言う通りだ。沢山、溜め込んでいたんだね……本当にここまで、よく頑張ったね」
「……私は、頑張ってない……助けられただけだよ」
涙を拭いながらミモザ。
そんなこと無いよ、とメルトは小さく返した。
「君は普通の女の子なのに、料理が好きでお節介好きだと会って2日しかしていない僕でもわかるような、単純明快な面倒なくらいに明るいくらいの優しい女の子なのに……今日までそれを吐き出さず、ずっとその闇と戦ってきた」
「どうしたの……あの冷徹皮肉屋の最強無敵銀河魔術使い放題の主人公メルト先生どこ行ったの……今日はやたらと褒めてくれるじゃん」
「最強無敵……僕は最強でも無敵でもないよ……いっそ、そんな力が欲しかった。そんな力があれば、君だってこんな風に傷つけなかったのかもしれない」
そんな力があれば……。
枕詞を呟いて、次の言葉を放つのを躊躇った。
メルトの僅かに日が昇り始めた夜と朝の境目となった空を見つめる目は、酷く遠かった。
しかし最初と比べて、ミモザの顔からは憑き物が取れたような面持ちになっていた。
「体は大丈夫?」
「うん、何だかメルト先生と話してちょっとだけスッキリした……明日には元気になってるよ」
「その割には、中々手に入った力が抜けていないみたいだけど」
柔らかくなったにしても、手を放そうとするとその手から力が入ってくる。
密接な距離が、中々遠くならない。
ミモザも想定外という顔が消えず、中々手を放そうと頑張るが、手は相変わらず硬直していた。
「……ごめん。私、どんだけ怖がりなんだよって話だよね。先生だってもう朝になり始めた時間だし、早く寝なきゃなのに……」
「さっき仮眠は取ったから大丈夫だよ。朝も近いし、もう少しこのままでも大丈夫だよ。色々吐き出して楽になるならどこまで聞くし、眠るならそれでも大丈夫」
その優しさに触れて、ミモザも取り繕った笑顔ではなく、世界の不条理と戦うと覚悟を決めた顔で頷く。
「……うん。私、頑張る」
「ああ。一緒に頑張ろう」
「その代わり……先生も、辛くなったら話してね。これ約束だよ」
フクリにも言われたことだが、小さく頷く。
しかし同時に、メルトはこの二人に心の辛さを吐きだす事はないだろうと思っていた。
先程、フクリには少しだけ過去の事を話したが、せいぜいあれくらいだ。
教師は、生徒の未来を導く存在であって、生徒に自分の過去も未来も背負わせるようでは、グローリーとやっている事が変わらない。
教師は自分の事は、自分で解決しないといけない。
涼風に揺れる稲穂の様に、たくましく、柔らかく。
何度だって、起き上がらなければならない。
何度だって、起こしてやらなければならない。
その時だった。
明らかに尋常ではない爆音が、寮まで鳴り響いたのは。
「何!?」
手を繋いだまま、メルトとミモザは窓へ近づく。
世界の震撼に、寝静まっていた鳥たちが空へ向けて一斉に羽ばたいていた。その影が晴れ、遠くでとてつもない広さの煙が上がっているのがわかった。
“静《コバルトウォーズ》”の再来。
二人の脳裏に蘇ったのは、かつて空を見上げる事さえ恐れられた暗黒の14年間だった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!