ミモザの容体は深刻だったという他ない。
抱えた時、ぐったりなんて擬音語が似合う格好で反ってしまった。
触れている背中と太ももは人の物とは思えないくらい冷たく、肌を走る水が体温を奪っている事は明白だった。
逆に熱い額が、異常事態への認識に拍車をかける。
「フクリ、タオル!」
「は、はい!!」
ひとまずはシャワーを止めて、タオルで巻きながら更に様子を見る。
呼吸は早く、目は強く瞑られていた。ようやく保護された胸の上下も弱弱しい。
病気――否、疾患は無かったはず。
経験上、単純に疲労から来る意識の喪失の様にも感じた。それで風呂場だったことが災いし、裸体に張り付いた水滴が体温を下げて、体に異常事態をもたらしたのだろう。生憎まだ4月。春の中でもまだ気温は低い。
「フクリ。彼女の体をタオルで拭いて、着替えを着せてやってほしい」
「わ、分かりました!」
泣きそうな面持ちだったフクリに指示を出し、メルトは一旦外に出る。
「ミモザちゃん、しっかり……!」
呟きながら、フクリも体温の低下をまず防ぐべきと急いで体中を吹く一方で、メルトは後悔していた。
やはりミモザがシャワー室に入った時、ストレスを一つでも取り除いてやるべきだったのではないのか。
もしそれで緊張の糸を一つ解いてやれば、こんな事にならなかったんじゃないのか。
選択の間違いが、最悪のタイミングで最悪の事態になってしまった。
「畜生……何やってんだ僕」
握りこぶしで壁を軽く叩く。
もう少し発見が遅れていたら、ミモザは体温が下がったまま死んでいたかもしれない。
『思い出すね。大人の俺』
子供のメルトも、壁に背を預けてメルトの隣にいた。
メルトにしか見えない世界で、嘲る様に笑っていた。
『さっきのミモザ、あの時の生徒達の様に冷たかったね。血が抜けきった肉って、冷たかったよね』
「やめろ……」
目を逸らしても瞑っても、その先に瞼の裏に投影される。
“1回目の教室”。
血塗れの教室で、生徒を持ち上げた時の真っ白な顔と、冷たく硬い背中の感触。
『ミモザの裸、結果的に見ちゃったね。“クロユリ”みたいに、彼女、傷ついちゃったね――』
「やめてくれ……」
そして、天井からぶら下がっている少女。
誓いあった指輪を置いて、青いまま一人だけ浮かんでいった。
「君は一体……なんなんだ!!」
「メルト先生!?」
その方向を向くと、フクリが怯えて見上げていた。
振り返るまでもなく、血塗れの教室も、揺れている首吊り遺体もどこにも無かった。
勿論、子供のメルトも。
当たり前だ。
皆、もう会いに行けない過去の隙間にしか存在しないのだから。
「ああ、ごめん。ミモザは?」
髪以外は乾いたミモザは既に服に包まれていた。
そのミモザを背負って、彼女の部屋まで運ぶ。
『お父さん……どうして……裏切ったの……』
『やだ……やめて……誰か……助けて……』
『私……買い物もさせてもらえないの……?』
『家が……私の家が……』
それが背中で、ミモザが呟いた譫言だった。
やはりずっと苦しんでいたのだ。
ずっと。
溜まりに溜まった叫びは、メルトやフクリに悟られない様に明るく振舞っている内に、心身ともにボロボロにしていた。
そんな事。
気付いていたのに。
なんで、何も出来なかったんだろう、と悔やんだ。
父親に裏切られ、かつ血も繋がっていないと分かれば、誰だって愕然とするだろう。
死の暴力と、性の暴力にさらされれば、誰だって絶望するだろう。
街を歩く度、買い物さえ後ろ指をさされるようなマーケットでは、誰だって失望するだろう。
住んできた家が形を失えば、誰だって絶句するだろう。
この二日間で、この少女は本来ならば廃人になっていてもおかしくない未曽有の事態へ、磔にされ続けてきた。
もっと、もっと何かできる事があったはずだ。
思い浮かばなくとも、メルトは後悔し、反省するしかない。
だって教師とは、生徒の未来を掌で掬う職業だから。
水の様に、ちょっとでも気を抜けば隙間からこぼれてしまう。扱う未来とは、永遠の振りをした脆い一瞬なのだから。
■ ■
「先生……ミモザちゃん、ちょっと熱が下がってきたみたいです」
「そうか……まずは何よりだね」
台所にいると、後からミモザの部屋から出てきたフクリから報告を受けた。
保健室も空いていない今だからこそ、容体が急変したらどうしようとも気を揉んでいた訳だが、一先ずは安心そうだ。
ただし、ミモザの体においては、という条件が付くが。
根本的なミモザの心についてケアしなければ、何も解決しない。
「メルト先生、何をしているんですか?」
「ん? 料理」
と何気なく返しながら、器用に包丁で野菜の表面を切りながら片手間でスープの火を調整していた。
「えっ、メルト先生料理出来たんですか?」
台所の完璧な配置を見つつ、物凄い驚かれた。
これはこれでショックだ。
「ごめんなさい……パンしか食べない人だと思ってたので……」
「自分へ料理しないだけで、誰かには料理をするんだよ。丁度いいや。味見お願いしていい?」
スープを入れた皿をフクリに手渡す。
少しだけ啜り、少しだけ時が止まったような表情をして正直に感想を述べる。
「美味しいです……それに、体が何だかぽかぽかします」
「そう。療養食としては合格だね」
しかしフクリから見えたのは、十二分な出来だと分かったにも関わらず、物憂げな顔をするメルトの横顔だった。
「ミモザちゃんは、きっと大丈夫です」
「うん。体は……多分ね」
「心の方を、気にされています……よね」
「……フクリは鋭いな」
誰がどう見ても、心の方を気にしている反応をしているメルトが悪いのだが。
最も、フクリも同じくミモザの精神的な方面について気にしているのは同意だった。
ミモザの心を気にする二人が、隣同士で台所に向かいながら会話を続ける。
「……私、考えちゃうんです。こうなる前に、もっとミモザちゃんから話を吐き出させて上げられなかったのかって。抱きしめてでも、休むべきだよって止めるべきだったって」
「前者はしない方がいいな。嫌な経験を共有するのって、共有する側は結構辛いから」
「そうだとは思うんですけど……でもミモザちゃんに必要だったのは、辛い経験を吐き出させてあげる事で……辛い時は辛い、悲しいときは悲しいって泣いた方が、心に住み着く毒を浄化出来たんじゃないかって」
「……成程ね。それは君の言う通りだ。確かにそんな風にやった方が、健康的だ」
「勿論、無理矢理は良くないです……でも、どこかでミモザちゃんはあんなに活発に動くものだから、全部不屈の精神って物で乗り越えちゃったんじゃないかって甘える自分がいたのかもしれないです」
「甘えてなんかいないよ。君はずっとミモザの近くにいたし、君自身ミモザの為にグローリーに掟破りの直談判をしに行った。僕から見れば、君だって心的に大丈夫かなって思ってるんだよ……」
「それでも……私が受けた苦しみよりも、ミモザちゃんが苦しみは何倍にもあると思います……」
苦しみは、苦しみ同士で比較をするもんじゃない。
そう言うのは簡単だったけれど、しかしそれでストップをかければフクリの気持ちも吐き出されない。
このストップは管理じゃなくて、ただの制御であり、洗脳だ。メルトはそう言い聞かせ、隣でスープの様子を見るフクリの話を聞いた。
「特に、プロキオンから先生が連れて帰ってくれた時、ミモザちゃん服を完全に脱がされていたじゃないですか……先生が服を着せるまで、一体どれだけの辱めを受けたのかって考えると……」
震える声に、メルトは渋い顔で頷いた。
「僕が動くのが遅かった」
「いえ、メルト先生が謝る事じゃないですよ……! メルト先生はいつだってミモザちゃんの味方をしてくれているじゃないですか……!」
「それでも、ミモザがああなっちゃったのは、僕に責任がある」
「……でも、私は知ってます。メルト先生のお陰で、ミモザちゃんは生きているって。魔術学院だって残れているって」
魔術学院に残留できたのは正確に言えばプトレマイオスのお陰だ。
「……私、ちょっと恥ずかしい話をしてもいいですか。先生の為に」
「うん」
「今日、私の裸を見ようとしたグローリー先生しかり、過去に情事する所を見たことがある男然り、そういう性欲に駆られている人にはそういう目線があります……何というか、そういうものなんです」
必死に、嫌な思い出を、言葉にしがたい概念を言語化しようとするフクリ。
苦悩しながら、苦心しながら、それこそ一陣の恐怖を吐き出している過程だった。
「でも……裸だったミモザちゃんを助けようとしたメルト先生……ミモザちゃんの命を救うので必死だった。顔に、全くそういう何かが出ていなかったんです……私思いました。メルト先生、先生をするべくして先生になったんだな、って……」
「……ありがとう」
まさかの称賛に礼を言いつつ、しかしメルトは首を横に振った。
「きっとグローリーと比べると、かもしれないけれど……たまたま僕が、そういった性の問題について、恐れているだけだしね。多分」
「性の問題……?」
「僕は多分、そういった問題について、ちょっと過敏なんだと思う」
全ての野菜を切り終えたメルトは、包丁をまな板の上に置く。
「たまたま僕の知っている範囲で、強姦された人が、自殺したって事」
それを聞いて、スープを一杯に居れていた皿を思わずフクリも置いてしまった。
「勿論それだけが理由じゃないけどね。彼女は、自分の子供と言っても過言じゃない子供を全員殺されて、何も手元に残っていなかった」
「……そ、そうだったんですか」
「もしかしたらそれを知らない、若い頃の僕だったら裸のミモザに何かを抱いたのかもしれない。その彼女に会っていなければ、僕は今フクリから称賛されるような僕じゃなかったのかもしれない……」
「……」
「……そう考えても、そんな意味があったとしても、僕は彼女に死んでほしくなかった。あの子供達に死んでほしくなかった。時間を戻す方法はまだ僕には分からないけれど、もし時間を戻せるなら……」
「メルト先生。その人の事、愛してたんですか?」
本当に何故か。
この数日間、胸元の指輪が自分の中で強調される。
熱いのか冷たいのか分からない感覚が、ペンダントに触れている触覚から確かに感じ取れた。
「……フクリ。お腹すいたら自由に食べてね。ミモザは起きたら鍋を温めるでいいから」
「メルト先生。もしかしたら私達生徒は頼りないかもしれないけれど……話を聞くくらいならできます」
台所から出ようとしたメルトの足を止めたのは、そんな優しい一言だった。
「ミモザちゃんも、きっと同じことを言うと思います。辛いことあったら、いつでも話してください」
「……フクリは優しいな」
「きっと人は、辛いことを話す相手がいなくて、どんどん荒んでいくと思いますから……これ、難民キャンプで学んだことです。もしかしたら、雨男《エトセトラ》さんもそうなんじゃないかって」
「間違いない」
雨男《エトセトラ》は、恐らく個人で動いている。
正体を隠しているがゆえに、誰にも自分の活動を話せないのだろう。
自分がどんな苦悩を抱えているか、どんな絶望を知ったかさえ、まともに話す事が出来ないのだろう。
「もしかしたら、雨男《エトセトラ》を救うキーパーソンは君なのかもしれない」
「え?」
「僕は雨男《エトセトラ》を制する事しか出来ないけれど、君の方が彼も話しやすいのかもしれない。勿論僕も、教師として彼の話は真摯に受け止めるつもりだけどね」
「私が……雨男《エトセトラ》さんにとってキーパーソンかどうかはわかりません。それでも……私は、最後まであの人がいい人だと信じ続けたい。私はあの人を助けたい。間違った道を行っているなら、その道は違うよって言ってあげたい。そう考えるのは、悪い事でしょうか……?」
恐る恐るながらも、勇気を出した生徒の質問も、メルトは真摯に受け止める。
「正解だ。じゃあ、手段も先生と一緒に考えようか」
「……はい」
「ちょっとミモザの様子、見にいくか」
この直後も、まだミモザは目が覚めていなかった。
それでも、ミモザの体調も外見的には快方に向かっている様子だったのも合ってか、メルトとフクリの表情は少し前よりも緩くなったことは間違いない。
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