その場には、二体のキッズが佇んでいた。
一人はかつては貴族として生まれた人間であり、今は世界の益虫として無駄な人類を大地に帰属させようとしている。
一人は未だ正体不明の人間であり、今は漆黒の鎧へと肉体を変身させ、目前の蜘蛛を破壊しようとしている。
「……真似事だ。所詮愚民には模倣が限界か?」
嘲笑したのはグローリーの方だった。
「俺がこの状態になったからこそ分かるぞ……貴様のキッズとしての姿、“不完全”なんだろう?」
グローリーのいう事に、勿論雨男も気づいていた。
この二人の大きな違いは、グローリーが完全なキッズとして人間をはみだしているのに対し、雨男《エトセトラ》はまだその領域まで達していないのだ。
雨男《エトセトラ》の反天《リバース》は、完成されたわけではない。
しかしそんな事実を今更示されたところで、雨男《エトセトラ》は溢れ出す吐息を仕舞う事をしない。
戦意に、殺意に、敵意に陰り無し。
「そんなに魔物になれたのが嬉しいか?」
「何……?」
「グローリー。貴様はキッズという名を冠した魔物に成り下がっただけだ……心を喰われ、理性を喰われ、本能の赴くままに破壊する。それが魔物でなくて何だ……お前は原始人にも劣る最悪の血だよ。それを自分で証明して、随分と嬉しそうだな」
「やれやれ……仮にも神から天啓を受けた俺と同じ力を持ちながら、その程度の思考しか出来ぬとはな!」
またしても不連続の空間から発された蜘蛛の糸。
音すらしない。発動したと分かった時には、強力な粘着力が動きを奪う――筈だった。
しかし18箇所から放たれた蜘蛛の糸全て、雨男《エトセトラ》の残像を掠めただけだった。
「何っ……!?」
グローリーの視界から消えた。
そう認識した時には、背中に熱い衝撃。
横一文字に斬撃がキッズ化した強靭な肉体を裂いただけでなく、何十メートルもの距離を押し転がしていた。
「ぐ……?」
自身で展開した蜘蛛の巣に受け止められることで、衝撃は全て殺す。
しかし体勢が安定しても、グローリーの眼に雨男《エトセトラ》は写らない。
辛うじて見えた漆黒の残像。
雨男《エトセトラ》が二体にも、三体にも、四体にも見える。
「速……すぎる!」
「特にその灼熱魔術、当たったら馬鹿にならないからな」
疾駆の速度は、完全に次元を超えていた。
出鱈目過ぎる軌道。不規則過ぎる軌跡。
縦横無尽に駆け巡り、時折着地の為に残像として留まるその姿は獣そのもの。
見えた瞬間にその場所に蜘蛛の糸を張り巡らせても、全く捕まる気配がない。
最早移動速度がグローリーの反射速度を上回っている。
「調子に乗るなよ! この獣があああああああ!! “縮地《ソングスリップ》”っ!!」
体内に蔓延る“星からの贈り物”から賜った魔術を以て、世界の時間を操る。
音速の次元へと、自らの体を突入させる。
辺りで起きていた破壊による瓦礫の落下が止まり、溶岩の沸騰が固定され、視界の全てが停止した。
しかし限りなく時間を遅くしたにもかかわらず、未だ移動を止めない雨男《エトセトラ》を除いて。
グローリーは勝利を確信してほくそ笑む。
「見つけたぞ害虫……醜いまま果てろ!」
憤怒のままに、多数の光球を頭上に出現させる。
無数の球体の全てが、着弾しただけでキッズであろうとも焼き溶かす灼熱を誇る。
それらを放つと同時、雨男《エトセトラ》の周囲全方向から蜘蛛の糸を放つ。
速度の差は既に埋まっている。
全弾直撃する。
黒の獣は溶け、残骸を蜘蛛の巣に残す。
そんな未来のイメージが、間違いなくグローリーにはあった――。
「“縮地《ソングスリップ》”――“猫の解《オープンボックス》”」
期待は裏切られた。
同じく音の次元に入り込んだ雨男《エトセトラ》が、致死率十割のその結界から姿を消したのだ。
「な……にっ!?」
最後まで言い切る事が出来なかった。
今度は突如眼前に現れた雨男《エトセトラ》の蹴撃に弾き飛ばされたのだから。
「銀河魔術は空間のトンネルも行き来出来る……トンネル効果という奴だ。目先の存在をどうにかしようとしか考えないからこうなる!」
吹き飛んだグローリーを今度は野放しにはしない。
地面と水平に吹き飛ばされるグローリーへ追撃しようと、再び超速の闊歩を実現する。
音速の領域にいるグローリーでさえ見切れない様な、真の縮地を再開する。
「ちょこまかと……! ちょろちょろと鼠が鬱陶しいぃぃいいいいいいいいい!」
一方のグローリーの体も怪しく淡く光る。
見下してきた存在が未だ逆らう現実。暗黒に脅かされた自我は、誇りや自尊心を凄まじく引き上げる。
それらに触れた存在への憤怒で、目の前が見えなくなるほどに。
焔の様煮えたぎる激情が、暗黒という深淵を一層濃くする。
「磔獄門火あぶりの上市中引き回して晒し、重ねて川に首を晒してくれようああそうしよう、そして刑に服すべき大罪人である貴様が何で抵抗してんだぁ!? 動く権利すら貴様にはない!! 動くな動くな動いてんじゃねえ!! 生きてんじゃねええええええええええ!!」
瞬間。
先程まで10数本の線しか同時に出せなかった、空間からの蜘蛛の糸。
――それが、一気に千本。
グローリーの周り半径1㎞。四方八方。
余すところなく、最早何もかもが見えなくなる密度で展開されていた。
見渡す限り糸、糸、糸、糸、糸、糸、糸、糸!
糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸糸!!
純白から色を落とした灰色の世界。
その中心から少しずれた所で、雨男《エトセトラ》の動きは止まっていた。
全身を、その張り巡らされたその灰色の糸に雁字搦めにされていた。
先程白い糸に捕まった時よりも、強く縛り付けられている。
「……更に心を暗黒に売ったか」
キッズとしての人間を超えた肉体でも、力づくで引き千切れない。
グローリーの中にあった憤怒が暗黒と反応し、キッズとしての力を強めたのだ。
即ち、ただでさえ逸脱していた人間としての心を犠牲にした。
「“猫の解《オープンボックス》”」
雨男《エトセトラ》の前。
逆さまに、蜘蛛の怪物が姿を現す。
「可及的速やかにぃぃぃ……開いてやるよ」
八爪で何度も。
何度も。
何度も雨男《エトセトラ》の体を引き裂く。
裂いて、割いて、体を咲かせる。
「心臓《ハツ》、肺《フワ》、胃《ジョウミノ》、肝臓《レバー》、小腸《ショウチョウ》、大腸《シマチョウ》……何の料理にもならねえ汚ねえ中身をおっぴろげ……ちま……」
キッズ化によって、冷静で無くなった脳でも理解が出来た。
今切り刻んでいる雨男《エトセトラ》が、どう見ても生物のそれではないという事を。
キッズの肉体をしているからでなく、そもそもそこに意志が存在していないという事を。
目の前の雨男《エトセトラ》が。
一切中身のない、偽物であるという事を。
「粒子という属性は本当に便利でな。粒子で肉体を作ることもできる。暗黒で精神を補う事もできる。自分の影武者を作ることもできる……“影朗《ミミック》”と言ってな。この蜘蛛の巣を展開している一瞬の隙をついて俺と入れ替えといた」
「……にせ、もの……謀ったのか、この俺を……」
その声は、上手く灰色の模様の隙間に佇んでいた、“本物”の雨男《エトセトラ》からしていた。
更に憎悪が膨れ上がっているような見下す複眼を見上げながら、雨男《エトセトラ》は横薙ぎの姿勢で欄魔を構える。
「結局貰い物の力。その暗黒が意味する悲劇の重みも分からない貴様に、これ以上悲劇は起こさせはしない。ハーデルリッヒ一族は俺が抹殺する」
「ええええええええええええええええええええええええええええええええとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおせええええええええええええええええええええええええとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおらあああああああああああああああああああああああああああああああ」
もう何を言っているのかよく分からない。
グローリーの自我の残滓が無くなりつつあるのもそうだし、雨男《エトセトラ》の中には一杯木霊しているからだ。
欄魔に込められた無限の暗黒から押し寄せる、数々の断末魔《しんだあかし》に耐えるのに夢中で、グローリーの一言一句等気にしていられなかった。
例え、殺意をむき出しにして蜘蛛の巣を張って、今まさに八つの爪で引き裂かんと迫ってきていても。
それでも人の心は失わずに。
オリオンの復讐を。オリオンを二度と起こさせない為の前進を。
その一閃を、渾身の銀河魔術を込めて振り抜く。
「“天狼閃煌”」
斬撃が、一瞬三日月の残像を残した。
途端、世界が開けた。
――欄魔が描いた斬撃は、目に見える世界のみを切り裂いた訳ではない。
粒子によって象られた物理の世界だけではない。
暗黒によって彩られた精神の世界まで切り裂く。
結果その軌道上にあった蜘蛛の巣も、グローリーのキッズ化された肉体も、何もかもを両断していた。
「……ぐ……あ」
転がった自分の右腕と右足、更に三本の爪。
自立すら出来ず、キッズの肉体のままグローリーが藻掻く。
あまりのダメージに他の蜘蛛の巣すら溶けて、灰になって消えていく。
更には縮地《ソングスリップ》も持続できなくなり、元の速度の次元へと引き戻されていた。
蹲るグローリーの目前に立った雨男《エトセトラ》も縮地《ソングスリップ》を解除する。
両肩でしている荒げた息が示す通り、雨男《エトセトラ》もギリギリだった。
精神を齧る怨霊達の咽び泣きに、いつ自我が呑み込まれてもおかしくない状態だった。
銀河魔術を使えば使うほど、銀河魔術に繋がる“基本属性の魔力とは別の魔力”を使えば使うほど、どんどん暗黒は近づいてくる。
完全なキッズになったら、自我の崩壊もあり得る話だ。
故に、“虹の麓”を実現する事も出来なくなる。
“オリオン”の犠牲者の無念を、晴らせなくなる。
「……貴様如きに……きしゃま、きしゃま、ごときに……回復が、間に合わない……!」
目の前の呻き声は、一切無視できる。
少し耳障りだと思う程度だ。
だが時間を与えては、現在発生している右腕と右足の再生が間に合ってしまう。キッズの再生能力だ。
しかし再生にも限度がある上、心臓を破壊すればキッズとて再生はしない。
そもそも再生した分だけ、体は暗黒に近づいていく。精神は暗黒に浸かっていく。
「俺の……俺の俺の俺の俺の、王国……グローリー王国……誰か、誰かいないのかああああああああああっ!?」
「……どうせ俺も、すぐに地獄に落ちるさ」
雨男《エトセトラ》は欄魔を掲げる。
刃が下に向く。
その切っ先の方向には、グローリーの心臓があった。
「貴様が間違ってもオリオンのいる天国に登らない用、見守る為にな」
力を入れた。
直後だった。
「……あっ」
ガラ、と。
不自然にも、瓦礫の一つが音を立てて落ちた。
その先で、少女の声が漏れていた。
「……」
ずっと隠れていたのであろうか、汚れと傷に塗れた少年少女が隠れていた。
怯えた顔で、それでも少年が必死に少女を庇っている様子で。
まだ十歳と八歳くらいの――兄妹に見えた。
「……はっ」
途端、何故グローリーがその兄妹に手を伸ばし、灼熱魔術を放ったのか分からない。
しかし確信をもって、希望が見えたとばかりにその魔術を放っていた。
人体で考えれば消滅。キッズで考えても致死量の可能性さえある、“まだ一回も受けた事のない、超強力な魔術”。
子供二人を殺すにはあまりに協力過ぎる魔術は、雨男《エトセトラ》の様子を見て放たれたように見えた。
雨男《エトセトラ》が、見ず知らずの汚い子供達を見捨てる事が出来ない聖人と暗に認めたからこその一撃。
「ち……くしょう!」
そしてそれは見事にはまってしまった。
放たれた太陽の如き温度を誇るエネルギー弾は、子供達兄妹を庇った雨男《エトセトラ》の背中に直撃した。
(……でも、未来《こども》が死ぬなんて、悲劇だろう?)
きっと妹《サニー》も。
こんな激痛を受けながら、死んでいったのだろうし。
■ ■
「……!」
決してフクリが目覚めたのは、微かに朝日が差し込んだからではない。
きのこ雲が出来る程に深い爆発によって起こされたわけでもない。
昨日フクリが受けた心の傷は疲れとなって、本来ならばもっと眠っていても仕方ない筈だった。
ただ、雨男《エトセトラ》の寂しい背中が、やたらと冷たかったから。
冷や汗を拭いながら、目覚めた直後にしてはっきりとしていた目線で、窓の向こうの世界を眺めていた。
「雨男《エトセトラ》……さん?」
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