掌が、サニーを絞めている。
誰の掌だろう。
間違いなく、人間のエゴだ。
「やめろ!」
雨男《エトセトラ》は、その掌へ駆け出した。
しかしそうなる前に、サニーの体は血塗れになって鮮血を吹き出す。
深紅が視界の全てを覆い、雨男《エトセトラ》は目を瞑ってしまう。
『……まるで自分は私達を助ける側の存在であるかのように話してますけど』
声がサニーのものではない。
血の雨の中で垣間見たのは、首が千切れてしまったフクリだった。
開いた瞳孔で、力のない無表情な死に顔で、ただ雨男《エトセトラ》を見つめている。
『……私達を結局殺したのは、あなたではないですか』
「あ、あああ……」
誰がフクリの首を千切ったのか。
誰がサニーの首を千切ったのか。
誰が二人の紅い豪雨を浴びていたのか。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
暗黒に全身を蝕まれ、身も心もキッズと化してしまった、雨男《エトセトラ》自身だった。
漆黒と緋色の深海《うちゅう》に、全ての自由を奪われた、哀れな狼少年が全てを殺してしまっていた。
雨は、いつまでも振り止むことは無い。結局。
「はあ……はあ……」
目を覚ました後も、その悪夢の余波で息が切れていた。
あれだけ心に押し寄せてきた暗黒の津波は過ぎ去っていて、もう自我を刈り取られる心配はなさそうだったが、それよりも嫌な汗が収まらない。
殺したくない人間を、殺してしまう夢。
自分が、ハーデルリッヒと同じになってしまう夢。
(違う……俺は、あいつらとは違う……ハーデルリッヒとは、違う……)
無意味な自問自答を繰り広げていると、いつもの“住処”とは違う事に気付く。
簡素な一室。女性の香りがする布団。石造りの立方体の構造。
冷たい床に立ちながら、警戒心を最大にして見渡す。
「ここはどこだ……ここは……あっ」
一つの異常事態に気付いた。顔を隠すべきものが、装着されていなかったのだ。
「仮面が……ない」
「――自分、そんなに仮面がないと不安なん?」
突然現れた気配に、雨男《エトセトラ》は構えた。
ドアから入ってきた少女には、微かだが見覚えがあった。意識を失う前にキッズへと変身していた少女だ。
雪の様に純白で、臀部まで伸びているさらりとした髪。
風貌は童顔というよりも、まだ未成熟なだけの顔に見える。
しかしそれでいて、将来美人となるような片鱗が整った顔のパーツから溢れていた。
服装が煽情的で、何気ない様子で露出している箇所から骨格が発展途上である事も見て取れる。
身に着けているのはボタンも止めておらず前部が露出済みの白衣と、レースがあしらわれた桃色の三角布のみ。
歩く度に揺れる白衣が開き、特に膨らんでいなくとも明らかに女性のそれである胸が晒され、下劣な情欲を抱かせるような脚と下着の模様が暴露される。
特に気にしない様子で呆れた溜息を吐く。
「それが助けた恩人に対する態度かいな……」
戦闘警戒を解く事も無く、雨男《エトセトラ》がその半裸体から目を逸らさない。
女性として見る気はなく、あくまで敵か味方が見定めている様子だ。
「助けてくれた事には礼を言う。だが俺の正体が勘付かれた以上、事が終わるまで身柄を拘束させてもらう。最後まで俺の正体は周りに悟られてはいけないからな」
「勘付かれたって。別に自分が雨男《エトセトラ》なんて事、朝飯前に分かっとるから」
「なんだと?」
訝しむ雨男《エトセトラ》。
「なんというか予想通り過ぎて、張り合いがないんは不満やけど、そこにスリル求めても火傷するだけやしな」
ピュアも寝起きらしく、気だるそうに欠伸をした様子で部屋のソファにぴょん、と腰を掛ける。
勿論白衣がはためいて、一瞬ショーツしか身に着けていない裸体が雨男《エトセトラ》に映るが、特に反応は無い。
「仮面、そこやで。それ元々白日夢のものやったんやろ? 今はメルト先生で通っとるみたいやけど」
ピュアが指さした先。ベッドの横に、笑顔と泣顔が同居した仮面が置かれていた。
「……貴様、何者だ」
「自己紹介ならしたやろ。ピュアっていう美少女や。性別確認が必要ならこの下着脱ごうか?」
「韜晦は結構。何故俺の正体を知っている? あのメルトの正体も知っているようだが」
「んなもん、知っとるんやから仕方ないがな」
身も蓋もない返事をしながら、仕方ないとピュアが続ける。
「銀河魔術について調べていたら、当然白日夢を探すところから始まる。んで、メルト先生に行き着いた。そしてメルト先生が最後に倒したヴィシュヌの遺産――怪刀“欄魔”を探してたら雨男《エトセトラ》、自分に行き着いた。そんな所や」
普通、銀河魔術に自分から行きつくことは無い。そもそもスタート地点に銀河魔術があるのがおかしい。
少なくとも表向きは、銀河魔術の解読に人類は難航している。それがキッズへの変身まで自由自在に扱えている存在だという時点で登場人物としては重要過ぎる部類に入る。
「勿論自分の正体をばらすつもりもない。ばらしても、別にあたいに得無いしな」
「ならば何故俺を助けた」
「えーっ。どうしようかねぇ。仮面の下がイケメンやから、自分との遺伝子を残したくて?」
「そそる誘いだが却下だ。お前みたいな手合いの女は碌なもんじゃない……それも、お前はまだ11歳かそこらだろう」
「こんな美少女が裸で誘ってるんやで。そこは乗るのが紳士の嗜みやろ。うーん。雨男《エトセトラ》はロリコン説、上手くいかんなぁ。体で篭絡出来るならとも思ったけど、フクリちゃんは私より外見幼そうやけど、巨乳やったし――もしかしてロリ巨乳やないと駄目とかある? そこはまだ私11歳やし、伸びしろは大いにあるで? 膨らみしろって言うん? あっ、ちょっ、どこ行くん?」
少しだけイラついた様子を見せると、雨男《エトセトラ》は足早に部屋から出ようとする。
これ以上の会話は無駄だと判断しながら。これ以上会話していると、自分が良しとしない怒りの感情に駆られる気がして。
「自分の体は大事にしろよ。俺はそういう冗談が嫌いなんだ」
「ふぅん。もしかして裸の女の子を見ると、オリオンで殺された妹の死に際と被るから?」
ドアに手をかけた雨男《エトセトラ》がぴく、と顔を歪ませて立ち止まる。
相変わらずピュアは服を着る事も無く、ソファに体育座りをしながら小さく笑う。
「どちらにしてもここで逃げたとしても、あたいと自分、何度も鉢合わせるで。何せクラスを弄って、あたいと自分は同じクラスになるようにしたからな」
「……クラスを……弄っただと?」
「聞こえんかったんか? 自分と、メルトと、そしてあたいを同じクラスの生徒と先生になる様にしたんや」
学校機関のクラスを、自分の都合の良い様に書き換える。
そんな事は、少なくとも銀河魔術では考えにくい事だ。仮に銀河魔術でやっているとしたら、この少女は現実改変能力まで手に入れている危険な存在である事がうかがえる。
「何故……どうやって」
「自分質問多いなぁ。それでも闇の世界に生きてる人間してはるつもり? 銀河魔術なんて謎過ぎる部分が多すぎて、クエスチョンマークの繰り返しなんやで?」
また呆れたように溜息をつきながら、ソファに寝転ぶ。
太ももを隠すことなく組みながら、ピュアが話を続ける。
「別に銀河魔術を使わなくとも、人間相手ならちょっと満たしてやれば思う通りに動かせるもんや。あっ、まだ体は使っとらんで? 絶賛処女中や。初めての人募集中やでー出来ればその人で最後にしたいんやけどなー」
「……」
冗談交じりの情報を聞きながら、今度は冷静に雨男《エトセトラ》は考察していた。
メルトは金で懐柔出来るとは思えない。プトレマイオスについても同じくだ。
しかしクラスの決定には色んな人間の思惑が絡まる。その結び目を理解すれば、少しなら外部からでも自由自在に操る事が出来るという事だろう。
大体、この少女はやはり実年齢的には11歳の様だ。
思考能力は大人顔負けだが、雨男《エトセトラ》とクラスメイトになるには4歳分の時が足りない。
しかしベータ魔術学院が戦後の混乱に建てられた創立期であるとはいえ、年齢詐称して通せるだけの裏工作をしでかしているのだ。
「銀河魔術に関連する人物は、なるべく近くに置きたかったんや。銀河魔術についてはブラックボックスな所が多すぎてな」
「銀河魔術を使って、何をするつもりだ」
「別にそう警戒せんでも、インベーダの様に人類根絶やしにするつもりもなければ、自分みたいに“虹の麓”を発動して、“世界を変える”事もせえへんから安心し。ただ単に一つだけ願い事を叶えるだけや」
「“虹の麓”の事までわかっているのか」
「せやで。その発動条件が何なのか、というのと――自分がまだその条件を満たせていないという事や」
「……」
「一つ文句言いたいのはな。自分、目的果たすまでにどれだけかけるつもりやねん」
「なんだと?」
「自分に残された時間、意外と少ないって事に気付いとるか? 既に暗黒に追い詰められて崖っぷちって事分かるか? 完全に欄魔に取り込まれ、キッズに成り果ててしまう姿、思いっきり想像できとるやろ?」
雨男《エトセトラ》は、何も言い返せなかった。
「そうなれば、“虹の麓”に辿り着かないまま駆除対象や。この世の兵士舐めたらアカンで? メルト先生じゃなくてもキッズを倒せちまう猛者や集団はゴロゴロおる。少なくとも自分が目下最大の復讐目標としているルジス=ハーデルリッヒはそっち側の人間やで? 周りにも、そういう強いお兄ちゃんお姉ちゃんで固めとる。どっかの誰かが刺激与えたからな」
だから人間は、インベーダに勝つことが出来たんやで、と付け加えた言葉通りだった。
メルトも、その名も無き勇者の一人にしか過ぎない。
銀河魔術を目の当たりにして、生き延び、そして倒せた人類の化物がこの世にはそれなりにいる。
ベータ魔術学院の学院長であるプトレマイオスもその一人だ。
「それに、無茶だけ繰り返してたらあのフクリってお姉ちゃん、いつか殺《い》てまうで」
悪夢で見た光景が、フクリが自らの手で死んでいくイメージが、フラッシュバックの様に浮かんだ。
そんな事させないという口だけの文句すら、言う事が出来なかった。
「そうなったら結局自分、ハーデルリッヒと変わらんで?」
「……そうならない道を、俺は探すだけだ」
「折れへんな。悩まない男は好きやで」
悩まないものか。
頭の中で、“化物”に成り果てて、オリオンと同じ悲劇を世界で量産する未来など、あってはならない。
フクリという天使を縊り、血塗れにする未来など、あってはならない。
「それでも、俺は止める訳にはいかない。やめる訳には行かない――宇宙を穢す奴らの排除と、“虹の麓へ辿り着く事。最早それを成し遂げなければ、死んでも死にきれない」
「よう言った。ならその“虹の麓”の方には協力したるわ。ハーデルリッヒの方にも、消極的にやけど裏から手を回したるわ」
「……それでお前に何のメリットがある」
「メリットなら後で話すわ。とはいえ先に触れとかないかんな」
ピュアは指を差した。
雨男《エトセトラ》の後ろを。
「“あたいのママや”」
“もう人ではなくなり、キッズですらもない何かがずっと雨男《エトセトラ》の真後ろに張り付いていた”。
「……」
“それ”を見て、雨男《エトセトラ》は思い出した。
自分を助けた時のピュアは、誰かと二人組だったと。
その誰かが――いや、“何か”が後ろに聳え立っていた“ママ”らしい。
「……“そういう存在か”」
「ママは人ともキッズともインベーダとも違う存在やけど、分かるん?」
暗黒の様に、概念の存在ではない“ママ”に。
人の様に、五体満足でもなく生命活動もはたしていない“ママ”に。
キッズの様に、暗黒がこびり付いている訳でもない“ママ”に。
それでもこの世にあってはならない存在の“ママ”に。
雨男《エトセトラ》は、一つの存在理由の可能性を見た。
「まあ、銀河魔術を弄っていればこの可能性にも辿り着く」
「呑み込み早くて助かるわ」
「……何となくピュアのメリットらしきものも見えてきたな」
「怖がらないのもありがたいわぁ。入口としては楽でええな。手を組むのも導入が簡単になるわ」
「怖がるものか」
雨男《エトセトラ》は、続けた。
「“虹の麓”に辿り着いたら、俺も間違いなく死んで、お前の母親みたいになるのだから」
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