路地裏を弱弱しく、足を引きずる影があった。
壁に手を伝いながら歩いていたが、人通りの多い箇所に出る直前でその場に座り込んだ。
喧騒を遠くで聞きながら、雨男《エトセトラ》はひたすらに自身の体力の回復に努める。
酷く疲労した体は、息を荒くさせる。まずは落ち着かせなければ。
酷く損傷した体は、痛覚として訴えてくる。人前に出ても悟られないようにせねば。
「ぐっ……」
一人、疲労と損傷に喘ぎながら微かに見える青空を仰ぐ。
路地裏の隙間から見える天井は、縋りそうなくらいに綺麗だ。
雨男《エトセトラ》は、表でも雨男《エトセトラ》と名乗っているわけではない。
表に戻れば、表の自分でいる必要がある。
疲労を感づかれてはいけない。怪我が見つかってもいけない。
隠し通し、貫き通すしかない。
最初から雨男《エトセトラ》を酔狂でやっている訳ではない。どんな時でも痛みに耐え、日常生活を送っている様に見せかけているだけの精神力が無ければ、一人二役は為せない技だ。
だが、その中でも一番抉ってくる反動がある。
「いっ……」
雨男《エトセトラ》は体を反らした。
体内を駆け巡り、脳に居座る寄生虫の様な刺激。
ナイフで貫かれるよりも、爪を剥がされるよりも、十字架に磔されるよりも疼く激痛。
『ママアアアアア』『いぎががががああああ』『がふっ』『いき、たい、いき、たい』『死にたくない』『ぼくの、めだま』『苦しい』『ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる』『許して』『パンツだけでも、履かせ、裸は、嫌』『助けでで、でえええええええ』『あげっ』『入ってくる』『あああああああああ』『ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ』
「あっ……あぁっ……」
一人の狭い体には余りに有り余る、身の程知らずの怨嗟の歌。
ノイズとして、無限に雨男《エトセトラ》の魂で循環し続ける。
ハウリングとして、壊れた魔術の様に恨み辛みを吐き続ける。
「ぐっ、あ……」
体内に潜めている怪刀“欄魔”の反動。
今日は特にキッズの姿で長くいたために、死人たちの怨念が絡みついてくる。
ゆっくり、丁寧に体が喰われていく。
それよりも酷い、『ぐちゃ』という幻聴を聞きながらも、雨男《エトセトラ》は立ち上がる。
あらゆる人間を“惨毘歌《トライアングル》”で摩耗し、廃人に帰してきたものと同じ声聞きながらも、その精神を手放さない。
「……俺は、君達には呑まれない。最後まで……負けない」
欄魔を手にした日から、自分を乗っ取ろうとする暗黒は毎日の様に、雨男《エトセトラ》の精神をこじ開けようとしてくる。
雨男《エトセトラ》として生きると決めた日から、心の中は紛争地帯だ。
自分を保つので精いっぱいだ。
オアシスなんてない。いつ主導権を手放してもおかしくない。明日自分の自我と、怨霊は入れ替わっているかもしれない。
雨男《エトセトラ》として活動している時も、ただの人間として生きている時も分け隔てなく、嘘になってしまった魂の怨嗟に抗っている。
人間が勝手に決めた道徳に守られなかった命。
雨男《エトセトラ》が今日も引きずっているのは、そんな者達の悲鳴だ。
無理矢理この世界に生まれて、順当に散っていった魂だ。
彼らにとっては、グローリーも雨男《エトセトラ》も等しく餌でしかない。
それでも。
雨男《エトセトラ》は、雨男《エトセトラ》である事を
「虹の麓に……辿り着くまで……サニー達の無念を晴らすまで……俺は」
あと一歩進めば、太陽の下に出る。
命を消耗品としてしか見ない、詭弁だらけの日常に出る。
嘘で塗り固められた性善説の小箱《せかい》に出る。
その時、雨男《エトセトラ》としての仮面やローブは脱ぎ捨てて、“中の人間”として歩かなければならない。
疲労。激痛。暗黒。
それらに少しの苦悶をする事も許されない。
雨男《エトセトラ》であることを悟られた時点で、全ての計画は破綻するのだから。
今日も、騙し切る一日が始まる。
素顔の仮面を被って、表の人間として溶け込む時間が始まる。
ベータ魔術学院の制服を身にまとったその存在は、遂に我慢を覚悟し表の道に出た。
「……」
途中、猫がいた。
まだ人通りも少なかったので、少しだけ素を出すことにした。
「にゃあ」
と、小さく会釈して、人ごみの中に消えていった。
一番辛い、作り笑いの始まりだった。
ある言葉と共に。
「俺はもう……失いたくない」
湖で舞う眼鏡が良く似合う天使の幻覚が、一瞬見えた。
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