トニーくんは両手を広げ、開放病棟の患者さんに与えられる個室よりもはるかに広い部屋を示しました。
「ねえ、きみ。きょうはおやすみだ。あそぼう。いっぱいあるんだ」
種々のおもちゃ、ボードゲーム、スケッチブック、クレヨン、絵の具、粘土、簡素な楽器、子供向けの小さな運動用品。およそ幼い児童が好みそうなグッズの数々が、広い部屋の壁際にごちゃごちゃと置かれていました。
「きみ、なにがすきかしら」
「天気が良いので、軽く運動してみませんか?」
トニーくんを最初に目撃した時から気になっていたことがあります。わたしから積極的に関わって、生きた情報を得なければいけません。患者さんと寝食を共にしろとレーシュン先生がおっしゃったのは、こういった機会を逃すなということでしょう。
わたしはもう、患者さんが示す兆候を見逃すわけにはいかないのです。
「うん。そうしよう」
「ではメスキューくんに運動服を持ってきてもらいましょう。トニーくんはどんな競技にするか決めてくれますか?」
「うん。ぼく、えらぶよ」
看護網絡経由で、背後のレフ先輩がわたしへ耳打ちしました。
レフ:俺は他の患者を看る。何かあれば看護網絡に。
ハーロウ:回診はどうしましょう。
レフ:患者の意向を優先すればいい。先生は回診の場所を選ばない。
ハーロウ:分かりました。
レフ先輩がそっと立ち去りました。
トニーくんはレフ先輩の退室に気づかず、数々の運動用品をあれでもない、これでもない、と検分していました。
「ううん……どれにしよう。ぼく、えらべないや」
「それじゃあ、フットボールにしましょう」
ボール一つで遊べるシンプルさと、本来は道具を扱うことには向かない『足』でボールをコントロールする難しさが両立している競技です。
「これかな」
トニーくんが手に取ったのは楕円形のボールでした。
失念していました。シティ・アデレードはオーストラリア大陸の南に位置する都市です。当然、フットボールと言えばオーストラリアン・フットボールのことを指します。
「あ、いえ。アソシエーション・フットボールです」
「じゃあ、これだね」
トニーくんは子供用の小さなサッカーボールを掘り出しました。かつては五角形と六角形の皮革を貼り合わせた、C60フラーレンのような形をしていたと聞きます。
じきにメスキューくんが到着しました。
「へいお待ち! 運動服二着、お届けにあがりましたよん」
かしょんと前面カバーが開きました。筐体内部に収められた運動服を受け取ります。
トニーくんはその場で初等学校の制服から運動服へ着替え始めました。わたしも一緒に着替えることにします。もちろん恥ずかしいのですが、トニーくんがどのくらい羞恥心を失っているか確かめるためです。
制服を脱いで下着姿になっても、制帽を脱いでアンテナを露出しても、トニーくんは全く恥ずかしがる様子を見せませんでした。ナースキャップを脱いだとき、わたしは顔から火が出そうな思いだったのに。やはり、彼は羞恥心を完全に失っているようです。
羞恥心とは、自分の失態や恥ずかしい姿を誰かに見られている、という状況で生まれる感情です。羞恥心を持つことは、対人関係の構築に必要不可欠な要素なのです。
一方で、目的に合わせて身支度を調えるという習慣については、特に疑問を抱いていないようです。
それぞれ運動帽を被って、脱いだ衣服をメスキューくんに預けたら準備完了。
サッカーボールを両手で抱えたトニーくんと一緒に回廊を歩きます。回廊の内側をぐるりと覆う自在調光ガラスの向こう側、中庭を目指します。
中庭の真ん中には先客がいました。郵便人形さんとメラニーでした。どちらも片腕を水平に、もう片方の腕を垂直に上げていました。何かの体操でしょうか。
「おや。しらないこがいるね」
「紫の髪の子ですか?」
「うん。アメシストみたいだねえ」
ふと思いついて、わたしはトニーくんに囁きました。
「あのお尻の大きな子は、メラニーという名前です。あだ名は『尻でかメラニー』です」
「きみのおともだち?」
「ええ、そうです」
「じゃあ、ぼくもともだちにならきゃ」
ステンレス鋼で縁取られたガラス戸を押し開け、中庭の芝生を踏みます。
すっかり熱量を増した陽が自在調光ガラスのドームに反射して、中庭を明るく照らしていました。
トニーくんはサッカーボールをぽいっと放り投げ、郵便人形さんと一緒に奇妙なポーズを取っているメラニーのもとへと駆け出しました。二歩目で転び、立ち上がってまた駆けました。
「やあ、アイリスくん。それと、はじめまして、メラニー! ぼくはアンソニー。トニーとよんでくれると、うれしいな」
トニーくんの口調はたどたどしいのですが、わたしに背を向けていてもはっきり聞こえるほど声は大きめです。
「どうも」
「きみのこと、しりでかメラニーって、よんでいいかしら」
メラニーの眉根にピシッとしわが寄りました。
「……尻でかはやめてください」
「おや、いやなのかい? あだな、すてきだとおもうけれど」
「嫌です」
メラニーは患者さんが相手でもきっぱり言い切ります。
「こまったな、ぼくはきみとともだちになりたいのに」
「メラニー、と呼んでください」
「うん。わかったよ、メラニー」
「尻でかって言ったの、誰ですか」
「ハーロウくんさ」
わたしは眉の根を寄せながら、すかさず看護網絡経由でフォローを入れました。
ハーロウ:レフ先輩から申し送りです。彼に悪気はありません。
メラニー:見れば分かる。何、吹きこんだの。
ハーロウ:社会的失言検出課題の予備実験です。
メラニー:くたばれ『針金ハーロウ』。
ハーロウ:言っておきますけどわたしは真面目ですからね。
メラニー:知ってる。でもくたばれ。
トニーくんは二つ、社会的失言をしてしまいました。ですがそのことを自覚していません。
一つ目。彼自身による『メラニーが言われて嫌なこと』の発言。これは他者にネガティブな感情を抱かせる社会的失言です。
二つ目。わたしが『尻でかメラニー』と言っていたことの暴露。これは他者であるわたしに不利益をもたらす社会的失言です。
特に後者が問題です。
トニーくんの性格を考慮するに、失言の責任をわたしに押しつけたわけではないでしょう。『メラニーの嫌がる言葉をわたしが教えた』という事実を話しただけ、という認識のはずです。
十分に社会性が育まれているのなら、友達にネガティブな感情を抱かせる発言や、友達に不利益をもたらす発言はしないはずです。もちろん実社会は複雑なパワーバランスで成り立っていますから、意図的に失言する、ということはありえますが。
ともあれ、トニーくんはおそらく、社会的失言検出課題を通過できません。
社会的失言検出課題とは、自分や他人が社会的失言をしてしまったことに気づけるかどうか、を調べる方法です。ヒトでいえば九歳から十一歳の間で通過できるようになる、かなり複雑な課題です。トニーくんの外見は七歳か八歳の設計ですから、通過できない可能性はありえます。
ですが、学友人形は学校という場において、人間様の子供に社交の模範を示すことがお仕事の一つです。社会的失言検出課題を通過できる程度には、社会性を持つよう設計されているはずです。
などと思索を巡らせていたところ。奇妙なポーズを崩していないメラニーにトニーくんが近寄っていました。無造作に手をメラニーの豊満なおっぱいに伸ばし――
「あ、いけないや。むねとか、おしりとか、さわっちゃいけないっていわれたものね」
引っ込めました。
社会規範を遵守するために有効な手段は、大別して二つあります。
一つ目、直感や経験に基づいて言動をコントロールする。
二つ目、知識に基づいて言動をコントロールする。
知識に基づくコントロールは、まだ機能しているようです。そういえば、先ほどメラニーが「嫌」と答えたときもすんなり納得していました。
「トニーくん! こっちでフットボールをやりましょう!」
「はーい! またね、メラニー」
「はい。また」
メラニーは郵便人形さんと一緒に奇妙なポーズを続けます。あ、腕の垂直と水平が入れ替わった。いったい何の体操なんでしょうね。
さておき、気になっていることは他にもあります。わたしが運動の題材にフットボールを選んだのは、シンプルさと難しさが両立しているためです。
「まずはパスにしましょう」
わたしは転がっていたサッカーボールを足で取り、向かいで待っているトニーくんへ弱いパスを出します。ボールが芝の上を緩やかに転がり、トニーくんの足下へするりと収まります。
「ナイスパス!」
トニーくんは止まったボールから三歩下がってわたしに手を振りました。
「ぼく、けるよ!」
助走を付けて、思い切りボールを蹴っ飛ばしました。
筋力は見た目相応に弱いようで、ボールは緩やかな弧を描いて自在調光ガラスの壁に当たり、ぽてん、ぽてん、とわたしからやや離れたところで止まりました。
「あはは。ぼく、へただねえ」
「いいんですよ。楽しみましょう」
言いつつ、今度はやや厳しく速いパスを出しました。
トニーくんは二歩ほど移動して、パスの勢いを殺さなければいけません。
「わっ、とと……んっ!」
トラップに失敗して、ボールを後方に逸らしてしまいました。中庭の隅っこへと勢いよく転がっていきます。
トニーくんは振り返り、ボールの行く先を見て血相を変えました。
「いけない!」
こけつまろびつ、ボールを追いかけて飛びかかりました。お腹をしたたかに打ったのか、ぐうと唸って咳き込みました。
わたしも慌てて駆けつけ、咳き込むトニーくんの背中を撫でました。
「大丈夫ですか⁉ どうしたんですか、急に?」
「は、な……」
「花? お花、ですか?」
咳をこらえたトニーくんが、中庭の隅っこ、自在調光ガラスで日照を確保してもなお日陰となっている一角を指差しました。
「あそこ、おはなが、さいてるんだ」
さくさくと芝生を踏んで中庭の隅へと歩み寄ると、確かに小さく白いお花が十数輪、群生していました。
付け根にほんのり青紫を帯びた、五枚の細く儚げな白い花弁。花弁に比べて茎は太めで、円みを帯びた濃い緑の葉が互い違いにくっついています。背は低く、地面にしがみつくように咲いていました。
「こんな日陰の隅っこに、お花が咲いていたんですね」
わたしの隣へ立ったトニーくんが、優しげなまなざしで群生した花を眺めました。
「ぼく、このはな、すきなんだ」
「あ……そう、でしたか」
ボールがあのまま転がっていたら。わたしは危うくトニーくんの『好き』を壊してしまうところだったことに気づき、ぞっとしました。
「ええと……トニーくんはこの花のこと、知ってるんですか?」
トニーくんは慎重に言葉を紡ぎました。
「……どこか、とおくからきたんだとおもう」
花を知っているかと尋ねられて「遠くから来た」と表現するのは独特な感性ですね。
「遠くから、ですか」
「ヒプセラににてる。でも、ヒプセラのはなはピンクだし、はっぱもこんなにまるくない……だからきっと、とおくからきたんだとおもう。わたりどりにはこばれて……ずっと、ずっととおくから。ぼく、このはながすきだ。ひかえめで、でもちゃんといきてる。はらっぱをみたら、ぼく、きっとしあわせだ。だって、はなのことをおもいだすから」
優しい子。誰にも気づかれないお花を、身を挺して守ったのです。
「……わたし、お花には詳しくないんですが、このお花のことが好きになりました」
「うれしいな。そしたらぼく、はなをみたらきみのこともおもいだすよ。きっと、もっとしあわせだ」
「はい。わたしもきっと、このお花を見たらトニーくんのことを思い出します」
それから、何度かパスをやりとりしました。
トニーくんはわたしのパスを、二回に一回は逸らしてしまいました。特に速くも厳しくもない、ちょっと立ち位置を変えればトラップできるパスのはずなのですが。
「それじゃ、次はボールの取り合いっこをしましょう。まずトニーくんのボールから」
「おーけー」
ボールを目の前にしたトニーくんから、わたしは二歩下がって距離を取りました。
「それでは、スタートです」
一歩踏み出すと、トニーくんは右足の裏をボールにかけました。トニーくんの脛を削らないように注意しつつ、わたしはボールめがけて左の足先を差し出します。
「おっ、とと……ありゃ」
トニーくんは右足から左足へとボールを送ったのですが、重心の移動がうまくいかず、左足からボールが逃げてしまいました。
「まだトニーくんの番ですよ」
「うん!」
トニーくんがわたしに背を向け、ボールを追います。わたしもトニーくんを追いかけます。彼が右足の裏でボールを止めた瞬間、左足をちょんと突き出して蹴り出しました。
「あっ」
小柄な彼を突き飛ばさないよう慎重にかわして追い抜き、ボールを奪いました。
振り向くと、トニーくんがようやくわたしへ振り向いたところでした。
「はい、わたしの番ですね」
「うん。まけないぞ」
トニーくんが右足の爪先をボールに向かって突き出してきました。わたしは右足を軸に反転、左足でボールを引き込み、隠してしまいます。
「やっ――あっ、わっ!」
追いかけようとしたところ、足がもつれてトニーくんが転びました。ずさっと芝に突っ伏します。
「大丈夫ですか?」
怪我をするほどの転倒ではなかったため、あえて手は貸しませんでした。立ち上がる動作をよくよく観察します。反動を付けて飛び起き、勢い余って尻もちをついて、ようやく立ち上がります。
「わ、とと……うん、だいじょうぶ」
「では、ゲームを続けましょう」
「うん!」
ボールを追い回すトニーくんを反時計回りにくるくる回ってかわしながら、看護網絡を通じてメラニーに問いかけます。
ハーロウ:どう思います?
メラニー:弱い者いじめ。
ハーロウ:わたしではなくトニーくんについて。
メラニー:三半規管に不調?
ハーロウ:やっぱりそう思いますか。
廊下で見かけたときから気になっていたのです。
人形は簡単に転倒しません。
身体操作にかけては、人形はヒトの標準よりよほど上手くやります。人形は身体操作を常に最適化し続けているからであり、身体操作そのものが計算の解となるからでもあります。
トニーくんは、人形にしては明らかに身体操作が下手すぎます。
以前、わたしがガラティアさんから読み取った重心の不安定さなど、かすり傷ほどと言えるほどにはひどい。
「おっとっと」
ボールを持ち続けてもつまらないので、適当なタイミングを見計らい、わざとボールコントロールを間違えました。わたしの足裏に吸い付いていたボールはトニーくんのすぐそばに転がりました。
「おや、ぼくのばんだ」
「はい。君の番ですよ、トニーくん」
それから、ボールの奪い合いで何度もトニーくんは転びました。
転んでも転んでもトニーくんは笑顔でした。
他愛ない、学校の体育のような微笑ましい光景に見えることでしょう。
ですが、トニーくんは人形として明らかに異常なのです。
わたしは作り笑顔を維持してボールをひょいひょいと操りながら、心中ではトニーくんが抱えている不調の深刻さを測りきれずに焦燥感を募らせていました。
彼の社会性は、いったいどれくらい失われているのでしょうか。
なぜ彼は、閉鎖病棟で手厚く守られなければならないほどに、ひどくなってしまったのでしょうか。
わたしはもっとトニーくんのことを知る必要があります。可及的速やかに。詳細に。何一つ取りこぼすことなく。
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