午前九時五分。
わたしとメラニーは、内側がガラス張りになっている回廊に所在なく立っていました。
背後にはレーシュン先生の診察室。午前九時から実施されるブリーフィングの最中です。わたしとメラニーはまだ員数外ということらしく、待ちぼうけです。
小麦色の髪をした幼い男の子が右手からとっとこ走ってきて、わたしたちには目もくれず駆け抜けていきました。初等学校のものとおぼしき制服と学帽を着用していました。学友人形でしょうか。
男の子のふわふわした小麦色の髪がきらきらと乱反射して、天井からの太陽光を周囲に振りまきます。光ファイバーで取り込んだ太陽光です。天気が悪い日には、太陽光と同等にスペクトルを調整された照明が点きます。
走っていた男の子の足がもつれ、壁に向かって転びました。
「わぷっ!」
多態樹脂製の床と壁が瞬時にスポンジ状へ変形し、男の子をぽすんと柔らかく受け止めました。床の多態樹脂は歩行パターンを学習しています。男の子のもつれた足取りを検出して、瞬時に変形したのです。
すり傷一つ負わなかった男の子はすぐに立ち上がり、またとっとこ駆け出しました。と思いきや、いきなり回廊の内側、自在調光ガラスにべたっと張りつきました。何やらガラスの向こうへ手を振っています。
「やー! あは!」
芝に覆われた中庭がよく見えます。三角形の自在調光ガラスをドーム状に組み合わせて、日照を確保してあります。日中は常に陽だまりができる憩いの場です。
中庭の芝生には、女性型の人形が立っていました。手を振る男の子に気づく様子はありません。両手を地面と平行に広げ、背筋をぴんと伸ばしていました。軍人さんみたいな帽子の正面には、封筒のエンブレム。肩からかけたバッグにも同じく封筒のエンブレム。郵便人形です。
白を基調とした空間に包まれて、誰もが固有の時間を過ごしていました。
開放病棟と異なるのは、誰もが他者にほとんど興味を抱いていないか、興味を抱いたとしてもコミュニケーションが一方通行、ということです。
ここにはそういった患者さんたちが入所し、生活しています。
白塗りの廊下を出歩いている患者さんは、見たところ四体。
他に四体の患者さんがいるはずですが、個室にいらっしゃるのか、姿が見えません。
「……変わりませんね」
ただの独り言だったのですが、隣のメラニーが小さく首肯してくれました。
「ん」
わたしたちが初めて閉鎖病棟を訪れたのは、研修時代のこと。
開放病棟と閉鎖病棟との間には広めの歩道が敷かれていて、雨避けの屋根だけが渡されています。自在調光ガラスの窓は全てはめ殺し。出入り口の扉は二重の強化ガラス製。人形はおろか、メスキューくんでさえ行き来は最小限。
研修の一環で訪れるまでは、患者さんを閉じ込める牢獄のような印象を抱いていました。
ですが、実際に内部へ入ってみて抱いた印象は、『優しい揺りかご』でした。
イリーナさんの事件を経てもなお、閉鎖病棟から受ける印象は変わらないままでした。
内外の危険を細やかに取り除き、患者さんたちを温かくあやす、揺籃の病棟。
それが、当院の閉鎖病棟です。
「――入りな」
不意に、よく通るしわがれた声が、わたしの隣から聞こえてきました。
いつの間にか、診察室の引き戸が開いていました。壁から離れ、反転して診察室へ入ります。自身の心境はどうあれ、挨拶は元気良く。
「失礼します! ハーロウです!」
「入ります。メラニーです」
レーシュン先生の診察室は、床も壁面も清潔な白色でした。広さはバンシュー先生の診察室の倍ほど。明灰色の一人がけソファが対面するように二つ。ソファの間には木製の円いテーブルが一つ。やや離れて、背もたれのない簡素な円い椅子が一つ。陪席のための椅子でしょうか。
先生が腰掛けているソファの背後には、院長としての執務室へ繋がる扉が見えます。
瞳の奥に鋭い眼光を宿すレーシュン先生が、短く告げました。
「背の高い方はレフに。低い方はリディアに付ける」
手前のソファを挟むように立っていた二体の看護人形が、それぞれ担当の新米人形へ視線を向けました。
レフと呼ばれた男性型の看護人形は、わたしよりも背が高く、骨格も筋肉もごつごつとしています。灰色の髪は短く刈っていて、当院の看護服と看護帽を着用していなければ代理兵士と見間違えてしまいそうです。
レフ先輩の分厚く大きな手と握手します。
「お久しぶりです。ハーロウです。これからよろしくお願いします」
「よろしく頼む。新人扱いはできない。さっそく穴を埋めてもらう」
穴。陽気で面倒見の良かったラカン先輩。
わたしとメラニー、二体でなければ埋められないと判断された、看護D班の欠落。
「はい、頑張ります」
レフ先輩に悪気は無かったはずです。何気ない言葉が誰かにとっての地雷だった、というのはよくある話ですから。
「どうも。メラニーです」
メラニーが握手を交わした相手、リディアと呼ばれた女性型の看護人形は、わたしとメラニーの間くらいの背丈です。肉付きはそれなり。桃色の髪はさっぱりしたベリーショート。
「よろしくぅ。一年ぶりだねぇ。そういえばさぁ、なぁんかいきなり物資を節約しろって言われたんだけどぉ、君たちがこっちに来たことと関係あるぅ?」
「化学工場が故障したので」
メラニーはそっけなく答えましたが、わたしはメラニーの眉間が一瞬だけこわばったのを見てしまいました。
「リディア。無駄話は止しな」
「はぁい」
レーシュン先生がソファに立てかけてあった杖を取り、床を軽く突きました。
「レフ。バンシューの娘はアンソニーに」
「承知いたしました」
「リディア。セイカの娘はアイリスに」
「はぁい」
「以上だ。解散」
え? もう解散?
異動してきたばかりのわたしたちに、引き継ぎも申し送りも無く?
「あの、院長先生。わたしたち、患者さんの情報を聞いていないのですが」
「時間が惜しい。見て話して接した方が早い。私は回診を始める」
無茶をおっしゃいます。
「メラニーもハーロウに同意です。アイリスさんの情報をください」
レーシュン先生は右目をすがめ、目尻のしわを深くしました。
「バンシューの娘。セイカの娘。三十秒、閉鎖病棟の時間をくれてやる」
奇妙な前置きから、レーシュン先生は歯切れ良く忠告を並べました。
「三度は言わん。私は時間が惜しいと言っている。閉鎖病棟のクライアントから目を離すな。クライアントと寝食を共にしろ。ブリーフィングは私が必要を認めた時に実施する。それも長くて十分以内だ。他に報告があればメスキューに伝えるか、私を直接捕まえろ。私は常に閉鎖病棟のどこかにいる。外出する際は事前に通達する。私が寝ていたら大声で起こせ。遠慮は許さん。以上だ。分かったら出ていきな」
わたしとメラニーが揃って反論しようと息を吸った瞬間。レフ先輩の大きな手がわたしたちの顔面を覆いました。
「もがっ!」
「んぶ!」
反射的に太い手首を両手で掴みましたが、レフ先輩の腕はびくともしませんでした。
「そこまで」
そのまま診察室の外へと引っ張り出されます。
「リディア。メラニーを」
「はいはぁい」
口と一緒に視界まで覆われているので何が起きているのかは分かりませんが、メラニーはリディア先輩に引き渡されたようです。
わたしはそのまましばらく引きずられたのち、ようやく解放されました。
「――ぶへ!」
行き場を失っていた吐息が爆発して、頬と唇をぶるぶる震わせました。
「なっ、んなんですか⁉」
レフ先輩は抑揚のない口調で諭しました。
「先生が正しい。君もすぐに理解できる。時間が惜しいのだ」
促され、レフ先輩の隣に並んで早足で回廊を歩きます。
「彼に君を紹介する。君の担当はアンソニー。トニーと呼んであげてくれ。出身はシティ・アデレード。分類は学友人形」
心当たりがあったわたしは、レフ先輩の言葉を先取りしてしまいました。
「あ。ふわふわした小麦色の髪の、元気な八歳くらいの男の子ですか?」
レフ先輩は気を害した様子もなく、頷きました。
「その通りだ。話が早い。なら、後は見て話して接すれば良い」
自在調光ガラスの回廊を見渡します。診察室へ入る前に見かけた男の子は、今は見当たりませんでした。部屋に戻ったのでしょうか。
「彼に会う前に、一つだけ覚えておいてほしい」
「何ですか?」
「トニーに悪気は無い」
「と言いますと?」
「悪気は無い、としか言えない。彼の行動は予測できない」
「はあ」
回廊を二度曲がり、診察室の真向かいにある部屋へ到着しました。引き戸の向こうからは何やら、甲高い歓声やら物を投げているような音やらが聞こえてきました。
レフ先輩は引き戸を三回ノックして、さっと開きます。
先ほど廊下をとっとこ駆けていた、ふわふわした小麦色の髪の男の子が、レフ先輩めがけて全力で突進してきました。
「やあ! レフくん!」
「やあトニー! 今日も元気だな!」
先ほどまでの朴訥とした声音はどこへやら。レフ先輩は気さくで陽気なおじさんのように、高いトーンの声音で男の子を迎えました。
「きょうも、きたんだね!」
「もちろんだとも。よいしょ!」
駆け寄ってきた男の子の脇の下へ両手を差し入れ、高々と持ち上げます。
「あはは!」
「そらっ、飛行機だ!」
レフ先輩はその場で何度かステップを踊って回転。男の子――トニーくんは嬉しそうに手足をばたばたさせます。
ひとしきり飛行機ごっこをやったのち、レフ先輩はわたしの眼前にストンとトニーくんを立たせました。
「さあトニー、今日は新しいお友達を連れてきたんだ」
なるほど。彼は学友人形ですものね。わたしの役割はお友達の方が都合が良いと。
ふわふわ髪のトニーくんはきょとんとして、わたしを見上げます。視線が頭、顔、胴体、脚、爪先へと断続的に移ります。全身をくまなく観察されているのに不快感を覚えないのは、青灰色の大きな瞳がきらきら輝いているからでしょうか。
わたしは身をかがめ、トニーくんと目線の高さを合わせました。トニーくんはわたしの胸元に視線を定めていました。襟を留めているクリップが気になるのでしょうか。
「こんにちは、トニーくん。わたしはハーロウです。今日からあなたの友――」
わしっ。
わたしの平らな胸に。トニーくんの小さな両手が。わしっと。
「んな――」
トニーくんは首をかしげつつ、ぐにぐにと指を動かします。皮膚越しに肋骨を触られます。
唐突に胸をまさぐられたわたしは彫像もかくやといった具合に硬直。
じきに、トニーくんが顔をぱっと上げ、光の粉が散るような笑顔で言い放ちました。
「うん。きみはないんだね!」
頬がカッと熱を持ち、赤く染まるのを自覚します。こんななりでもわたしは女性型です。恥じらいは持ち合わせています。そりゃ、頭部のアンテナを見せたり触らせたりするよりはよほどマシですけど。というか、ちょっとはあります。あるかないかで言えば、ない方ですけど。
「……わたしは人形の味方……わたしは全てを肯定する」
小声で看護人形誓詞の一節を呟き、心を落ち着けます。
「ないしょばなしかい?」
トニーくんは手をわたしの胸から肩へと移し、小さな耳をわたしの口元へ近づけてきました。顔が、近い。ふわふわした小麦色の髪の毛先が鼻先をくすぐります。
わたしよりも華奢なトニーくんの胴体をそっと持ち上げ、腕を伸ばして遠ざけました。拒絶を感じ取ったのか、彼はくしゃっと顔を歪めて泣き出しそうになりました。
「怒っていませんよ。安心してください、トニーくん」
悪気は無いのですし。実年齢はともかく精神年齢はお子様ですし。
「おいたが過ぎますよ。女の子の胸とか、お尻とか、お股とか、あとはアンテナとか、そういったところに触るのはいけないって、知ってますよね?」
トニーくんは元のきょとんとした表情に戻り、首をこてんと傾げました。
「ええと……あ、そうだ。ぼく、いつもわすれてしまうな。ごめんよ、ハーロウくん」
「忘れてしまう、って……」
彼は学友人形です。学校においてヒトの子供たちと触れ合い、社交の模範を示すことが、学友人形の主な役割です。そんな学友人形が、ごく常識的なスキンシップのお約束を忘れるはずがありません。
まさか。
「……トニーくん。あなたも裸になったら恥ずかしいでしょう?」
「はずかしいって、どんなかんじかしら?」
ばかな。
わたしはもう一歩、踏みこむことにしました。学友人形であれば、性教育を目的として外性器が実装されているはずです。
「その……おち、んちんとか、アンテナを見せるのは、嫌じゃありませんか?」
「いやとはおもわないけど……いけないことみたいだ」
言葉を失いました。
レフ先輩に視線を送ると、静かに首肯しました。わたしの質問と、トニーくんの反応から導いたわたしの推測は、正しかったのです。
羞恥心の欠如。
それはつまり、学友人形に必要不可欠な『社会性』の一要素が、彼から失われていることを意味します。
わたしは青灰色の瞳へ再び視線を転じました。トニーくんは、光の粉が散るような底抜けの笑顔になりました。
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