市立美術館は、地上二階と地下二階の四階建てだ。展覧会は勿論、ツアーやイベントで、毎日賑わっているらしい。が、流石に平日の午前中となれば静かなもので、早速受付に珍しいものを見るような顔をされる。
今時、制服のまま堂々とサボる学生も中々いないそうで、人目に付かない公園等で時間を潰すのがサボりの主流となっている昨今、二人組で美術館に侵入して来たのだから目立ちもするか。まして巨大な筋肉男と、制服こそかっちり着込んでいるが、青系のインナーカラーという不良にしか見えない細い女という組み合わせである。まともな時間に現れたって目を引く。
鉄村は早速受付に近付くと、コガネムシの彫刻をリュックから取り出しながら、事情を話し始めた。コガネムシに近付きたくなくて、鉄村がリュックを下ろした瞬間から立ち止まっていた私は、館内を見て時間を潰す事にする。
コレクション展されている彫刻の一つへ、何となく近付いてみた。……材料は石だろうか? 少なくとも、木ではない。有名なものなのか、そうでないのかすら分からない。私が胸で抱え切れるぐらいの、角を削り取られた、滑らかな長方形をしている。彫刻の隣では、壁に貼り付けられた金属製のプレートがあり、作者と彫刻に関する、簡単な説明がされていた。
口元に手を当てプレートを熟読すると、その情報を踏まえ、改めて彫刻をじっと見る。
……それでもさっぱり分からなくて、つい指の隙間から呟いた。
「……犬に論語だな」
「日本を代表する彫刻家の作品ですよ」
真横から、鈴を振るような少女の声が囁く。
驚いた私は、息が止まって肩が竦んだ。
咄嗟に声の方へ視線を向けると、私と同じ制服を着た少女が映る。
でも動揺に身長差が重なって、少女の姿が、胸元から微笑を浮かべる口元と、小鼻までしか捉えられない。鎖骨は見えない程度に開けたブラウスに結ばれているリボンタイが青だから、少女が私の一つ後輩である、一年生だとは理解しつつ視線を上げた。
だがその動きは、不要だと気付く。
少女が肩越しに真っ直ぐ下ろしている、全体にかけて不規則なボルドーのメッシュが入った、緑の黒髪に気が付いて。
同じ“患者”でもこの髪色を持つ生徒は、校内で一人しかいない。この奇抜な髪色ではなく、その仙姿玉質と言って過言無い容姿で、入学当初から校内で話題になっていたあの彼女だ。
でも、何で彼女がここに? 普通の生徒は授業中だろう。
尋ねようと、口を開く。
だが声が出るより先に、彼女に右手を掴まれた。何と彼女はそのまま、すたすたと外へ歩き出してしまう。
いや、余り離れると鉄村とはぐれる。
でも美術館という性質上、騒ぐ訳にもいかず、どうしたものかとおろおろしていると、あっと言う間に館外へ連れ出された。
彼女は出入口の脇で立ち止まると、遅れて足を止めた私へ向き直る。
いや、外に出たんだから、もう彼女のペースに合わせなくていい。言いたい事は色々あるがまずは、話なら鉄村に断りを入れてからにして欲しいと言わないと。
彼女が片手に提げている学生鞄と、臍辺りまで伸ばした髪が揺れて、翻ったスカートが落ち着く瞬間を狙いながら口を開く。
行くぞ、「ごめん、人が待ってるから話は後でいい?」だぞ。ん、いや、相手は後輩なんだし、もうちょっと棘の無い言い方がいいか?「すぐ戻るからちょっと待ってて」ぐらいでいいか!? 行くぞ! はい、せーのォ!
「何で天喰先輩がここにいるんですか!?」
「…………」
それはあっさりと、大興奮な彼女が発した声に先を越された。
感情が理屈を超えた、少年漫画な胸熱展開とも言える。
私はすっかり気勢を削がれてしまって、ヤケクソのような苦笑が浮かびながら返す。
「……あー……。まあ、野暮用、かな」
超ダサくないか。今の私。
音を立てられない美術館という場所も大きかったが、そのタイミングでは出会う筈の無い人と突然会って、すっかりパニックになって出遅れてしまった。
まあこんな事、彼女にとってはどうでもいい事だし、単に私の脳内で起きた恥ずかしい小事件なので、怒ったり責めるような気持ちにはならないけれど。
館内では堪えていたのだろうか、興奮を爆発させる彼女は、二重瞼の目を見開いて続ける。
「野暮用!? あれだけ絵はやらないって言ってたのにですか!? 今夏全国高校生対象の美術展で、初応募にして優秀賞を獲ったのに!」
朝からなんてハイテンションで喋れるんだこの子。
強い雨が降る十一月だ。お互い寒さから、吐いた息が白くなって消えて行っている。だが彼女のは呼気じゃなくて、蒸気そのものなんじゃないかってぐらいの興奮ぷりだ。
圧倒された私は、つい後退りながら返す。
「あ、ああ。あったねそんな事も……」
「そんな事!?」
今度は怒りを露にした彼女は、開いた距離を詰めるように踏み込んで来た。
「そんなシャンプー切れたみたいな程度に捉える事じゃないですよ! 高校野球で言ったら一年生がエースを務めるチームが、初の甲子園で優勝したようなものなんですよ!?」
私は詰められた距離を開けようと、更に後退しながら反論する。
「……チームプレーの野球と、個人プレーの絵は違うんじゃ」
彼女は私の言葉を遮るように、その長い脚から大股の一歩を放ちながら怒鳴った。
「そこに文句を付けるのならまずは、天喰先輩自身の偉業を正しく認識して下さい!」
たったその一歩で、柱に背中をべったりと貼り付けるまで追い込まれた私は、胸辺りまで両手を挙げて叫ぶ。
「分かった分かった! 私が悪かったよ!」
テンション高い子苦手!
彼女は、私の降参すると言わんばかりの態度を、値踏みするようにじっと見た。五秒間は及ぶ品評の末、彼女は満足したように、大きく頷く。
「ふむ。そうです。天喰先輩は、ご自身の才能を腐らせているのです」
「……そうかな」
つい勢いに押されて謝ってしまったけれど、別に悪い事はしてないんだよなあ。私。
彼女は、ちょっとだけ不機嫌そうに唇を尖らせると、両手を腰に当てる。
「そうですよ。勿体無い。挨拶が遅れました。おはようございます。天喰先輩」
なんてマイペースなんだ。
振り落とされちまいそうだぜ。
でも確かに、挨拶は大事。
「……おはよう。裁さん。あと私の事は、出来ればただの“先輩”か、名前で塁先輩って呼んでくれないかな」
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