それまで痺れていただけの男の身体が、待ち構えていたように、ハンドボールぐらいの球体に分裂した。的を失った爪先が、雨粒を弾きながら空を切る。
骨や臓器、衣服を細胞核とするように包んだ肉のボール達は、車道を転がって私の背後に集まると、一つの塊に戻りながら身を捩った。
もう男と呼ぶのも躊躇うそれは、腕に見立てるように円筒形に変えた身体の一部で、右の横殴りを放つ。
私が左足を引き戻すより速く放たれたその打撃は、捉えた私の右肩から頭を、アスファルトに叩き付けるように回転させながら殴り飛ばした。
天地がひっくり返って吹っ飛んでいく景色の中、地面へ両手を伸ばす。アスファルトを捉え、殴られた勢いを利用して両足も着地させると、男から引き離されつつも、食らい付かせた四肢で滑走するように拳の威力を削ぎ落とす。
地面に溜まっていた雨水が飛沫を上げ、聴覚が、全身が風を切る音に飲まれていく。
だがこの程度の衝撃、傷所か、痛みにも至らない。
歩道上の野次馬にぶつかる直前で停止すると、弾かれるように男へ駆ける。
すると男の全身から、もやしのようにひょろりとした柄に、円錐状のカサを持つ赤黒いキノコが噴き出した。
野次馬からは悲鳴が上がり、加速していく私は、怪訝になって眉を曲げる。
……それマジックマッシュルームじゃないか。この間学校であった、薬物乱用防止教室で見せられたスライドに小さく載ってたぞ。
これがあの男の違法魔術の、武器としての力か。マジックマッシュルームを栽培する違違法魔術なんて使うって事は、違法魔術に手を出して、薬物の売人になったクソ野郎って所だろう。様子がおかしかったのも、酒の臭いに混ざっていたキノコ臭も、自分でマジックマッシュルームを食べたんだろう。
じゃあ、多少痛め付けても心が痛まない。
不健全な笑みに、歯が覗く。
男の懐へ潜るよう踏み込んだ右足が、一際大きく雨水を跳ね上げた。
拳か蹴りが来る。
それまでの私の動きから読めていた男は、また無数のハンドボールになって躱そうと、より速く身体の形状を変えるべく蠢いた。
その身を、私の左ストレートが打ち抜く。
何の捻りも無い、ただそれまで見せた中で、桁違いに最速であるだけの拳だった。
速さだけで捻じ込まれた打撃が、男を空へ攫うように吹き飛ばす。
男は、アスファルトに接触する瞬間を狙うように、身体を一つの球状に変化させた。そのまま、私の拳の威力を利用するように、落下と同時に跳ね上がる。
拳を引き戻すと男へ駆けていた私は、目を丸くした。
すぐに込み上げた苛立ちに、舌打ちを漏らす。
キノコが邪魔で、拳の狙いがズレたか。
今の左ストレートで、気絶させたと思っていたのだ。身体に漂うパーツから、脳を狙って打ったつもりだったのである。
然しそれは、キノコが噴き出す前の位置だ。びっしりとキノコに塗れた今の男の身体から、どの位置に目当ての内臓があるかはさっぱり見えない。クソ野郎なら多少容赦しなくともいいだろうとギアを上げた一撃で、気絶が取れない理由がこんなものだとは。
何でマジックマッシュルームなんて喧嘩の武器にもならない上に、自分が問われる罪を重くするようなものを見せびらかすのかと思ったが、きっちり胃を狙って蹴って来た私に対する目隠しか。
下らない真似を。
私の拳が生んだエネルギーが、男を五メートル程上空へ運んだ所でゼロになる。男はそのタイミングで身体全体から、ウニのように棘を突き出した。男の落下時に追撃を狙って追っていた私の頭上に、雨のように降り注ぐ。
大きく跳び退って、棘を往なした。
鼻先を掠めた棘が、私の前髪に置いて行かれた雨水を貫いて、アスファルトに突き刺さる。
棘は、無数の足のように男を支える格好になると、棘が刺さった部分のアスファルトを、剥がすように持ち上げた。象一頭分はあるそのアスファルトの塊を、跳び退って着地したばかりの、私の頭上に投げ付ける。
瓦のように軽々と飛んで来るアスファルトが視界が飲む中、とっくに雨で濡れそぼっている私の背は、冷や汗が滲んだ。
目の前にあるあの駅は県の要衝で、この通りは飲み屋が多い。通勤通学時には車の交通量が乏しいので、さっきのように車道を堂々と歩く人が現れるのも日常だ。
だが、駅そのものには無数の地下鉄線が入っており、それぞれの通りの全ては、地上と地下で繋がっている。幾ら午前中は人通りが少ない飲み屋街だからと言って、そう簡単にアスファルトを剥がされると交通が麻痺するのだ。
どこでもアスファルトなんか剥がされたら迷惑だろって? 私だって昔はそう思って、同級生の魔術師に喧嘩を売られた時、この辺のアスファルトの一枚二枚剥がすような暴れ方をした。
そしたら三日ぐらい、街の交通がおかしくなった。
近所のコンビニの納品時間は乱れたし、次から次へと駅から降りて来る人が溢れて、あれだけ毎日目にするタクシーが消えた。駅に辿り着く前に大渋滞を食らった人々の為に、臨時のバスが狂ったように走り回った。同じ道路の破損でも人口が多いと被害のレベルは、比較にならない程膨れ上がる。
という前科を負っている身としては、道路に何かされるのは鳥肌ものの恐怖なのだ。まして、自分が捕まえようとした違法魔術使用者の所為となると、ある程度の責任は私にも向いて来る。
たとえそれが、正義の為に起きた事故であろうとも!
自分に起きる不都合には文句を言わずにはいられないのが、人間なのだから!
寒気とやってられなさに苦笑が滲んで、本当なら殴って粉砕したいアスファルトの塊へ両手を伸ばす。
勢いを殺すように受け止めながら、右足を引いた。同じく右方向に上体を捻り、剥がされたアスファルトを流すように道路に置く。
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