鉄村は泰然と、左手を肩まで挙げる。勿体振るような動きで、親指以外の指をピンと伸ばすと、凄みのある声で言った。
「クラシックアップルパイ、四つでどうだ」
受付と裁さんが、ぽかんと口を開ける。
クラシックアップルパイとは、地上一階にあるレストランのメニューの一つだ。確か一つ九百円近くする、お高い商品である。
それを四つ。つまり鉄村は、コガネムシを地下二階の展示室へ運ぶ見返りに、三千六百円を要求している事になる。
アホかと思うだろう。だが鉄村も、私も、正真正銘に真剣だ。
私は本当に虫が苦手だし、地下も狭い所も大嫌いだ。可能な限り遠ざけたいという言葉だって本当だし、鉄村がこのような大金を要求している意図も、私が小金持ちだからでは無い。鉄村は、警察に声を掛けられるのが嫌なのだ。
魔術師はあくまで、魔法使いと違法魔術を滅ぼす為にある存在であり、法の裁きには関与しない。故に、後始末は警察といった、国の機関に任せられる。警察からすれば捜査の為に、事件に関わった魔術師に話を聞きたくなるのは当然の事だ。然し、法の裁きには関与しないという魔術師の立場上、私達は何も喋らない。
この非協力的な態度が看過されているのは、魔術の秘匿性を守る為にある。魔術とはこの現代でも、唯一魔法使いに通じる殺しの武器だ。魔法使いへ放つその直前まで、砂粒一つ分の情報さえも開く事は禁じられている。それは国が相手でも絶対の規律であり、万一事前に、己の魔術の内容がどこかへ漏れようものならば、その魔術師は、全ての武器を失う事になる。
高が魔術師一人の戦力が無効化された所で、一体何があるのか。違法魔術使用者の撲滅だって、立派な魔術師の責務だろう。そう思う人は勿論いる。
でも、たとえば今朝。もし私が、自分の魔術の情報をどこからか漏らされて、あのぶよぶよマンに勝てない未来が来ていたら。止められる人間が側にいない中、副作用を起こした違法魔術使用者は、どんな動きを取っただろう。
警察や他の魔術師に見つかるまいと、電車に貼り付いて逃げ出そうとしたかもしれない。そうなれば今朝以上の騒ぎになっていた。貼り付かされた電車は、その中ですし詰めになっている乗客は、果たして無事に済んだだろうか? 他の魔術師がぶよぶよマンに気付いて駆け付けるまで、死傷者がゼロのまま時間が流れるなんて奇跡が、本当にやって来ただろうか? まだ違法魔術使用者ならこの程度で済むが、魔法使いの危険度はこれを超える。
駆け付けるのに一分遅れるごとに、千人は死ぬ。
もし駆け付けた魔術師の魔術が、その魔法使いにバレていたならば、街の人間は全員死ぬ。
助かったのなら奇跡だ。血の海と死体の山を踏み越えながら、生き延びようと彷徨う地獄の光景が生涯脳裏に焼き付くだろう。
警察が抑えられる脅威ではない。違法魔術使用者が挑んだって、勝てるような相手じゃない。
魔法使いとはもう人間では無く、魔法使いという、一つの種だ。
こんな化け物に勝とうとするのが魔術師であり、その必殺であり唯一の武器である魔術は、如何なる理由があろうとも、使う間際までその内容を明かす訳には決していかない。
違法魔術だのという、魔術師失格の裏切り者が作った紛い物で生じる事件など、魔法使いが起こす殺戮に比べれば、どちらが払うに値すべき脅威かは、明白な訳で。
なんて、違法魔術の生みの親でありながら、勝手な理由を付けて捜査に協力しない魔術師の体質を、私と鉄村は嫌悪している。
とは言っても、もし魔法使いが街を襲った際、やっぱり戦う手段を失う訳にはいかなくて。
つまりこれは、本当は協力したいけれど、ぺらぺらと喋る訳にはいかないという矛盾に、苛まれたくないだけの押し付け合いなのだ。
確かにコガネムシを見つけたのは鉄村だが、駅前でぶよぶよマンを捕まえたのは私だ。然もどちらも現場が近い。私と鉄村のどちらが警察に近付いても、捜査協力を求められるのは自然であって当然である。ましてこの街の魔術師を束ねる鉄村家の人間、かつその当主の息子ともなれば、警察も黙って帰す訳にはいかないだろう。何せ警察も一般人と同じように、魔術の正体を知らないのだから。訳の分からない力で強引に事件を収束されようとしているなんて、受け入れられる方がどうかしているし、それを許せるような人は、警察になんか入っていない。
……どうせ協力出来ないんだから、せめて魔術協会から、国に説明をするなりしてくれればいいのに。
かと言って、私は本当に虫が苦手だし、だからって鉄村に押し付ける事に、罪悪感が無い訳でも無くて。
苦笑を浮かべながら、言葉を返した。
「シェパーズパイに、ドリンクも付けてやるよ」
鉄村はにかっと笑うと、ご機嫌になる。
「じゃーあ席取っといてくれー!」
鉄村はコガネムシを鷲掴みにすると、スキップしながら地下二階の展示室へ向かって行った。
図体のデカさからは想像もつかない軽やかなスキップに、辺りの来館者はぽかんとして、鉄村を目で追っていく。
……バレエ選手もびっくりのジャンプ力だが、コガネムシを落とさないだろうか。
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