……おいおい。
つい、僅かに歯を覗かせて苦笑する。
男が私を指して、警察だと口走った理由が漸く分かる。
何故、私は男と女性の仲裁に向かう際、この大雨の中傘を閉じたのか。
普通なら濡れたくないと、傘を差したまま向かうだろう。私だってずぶ濡れになるのは勘弁だった。でも荒事になるかもしれない状況に、片手が塞がっている状態で近付くのはまずいと思ったのである。この時点で、酔っ払いのような面倒な人間の相手をしたらどうなるかについての経験値が、平均より高い。ましてこの対応は、もし暴力を振るわれても対処出来るようにという、迎撃の姿勢だ。
男はこの私の行動の意味を理解した上で、自分の身分を振り返り、勘違いしたのだ。この女は、違法魔術使用者である自分を、捕まえに来た警官だと。
こちらとしてはただの飲んだくれを相手してると思ってたのに、目の前で身体を溶かすなんていう、違法魔術使用による心身の影響を披露されては、もうただの荒事としては構えてられない。
何せ違法魔術とは、女性が配っていたチラシの通り、誰でも使えるという謳い文句で出回っている武器なのだ。魔法使いという、人類史上最悪の犯罪者を退治する為に魔術師によって作られた、殺しの道具なのである。一般人が扱っていいものではないし、一般人が立ち向かってどうこう出来る相手でもない。
男はもう、人の姿を失っている。どろどろに溶けた肉は、中型車ぐらいもある、巨大な赤いアメーバのような半透明の塊に膨れ上がり、内部では男の衣服と骨と臓器が、散り散りになって漂っている。レンジでホットミルクを作った時、凝固した表面が作る膜みたいなものがくしゃくしゃになって浮いているのは、皮膚だろう。どういう仕組みで発声しているのか分からないが、キィキィと金属的な鳴き声を連続させ、バラバラな位置で漂う両目を真っ直ぐ私へ向けている。
男は知性が消えたような唐突さで、原形を失った足で地を蹴った。
飛ぶような速度で車道に飛び出すと、その身を風呂敷のように広げ、私を飲み込もうと雨を弾きながら向かって来る。
チラシ配りの女性は腰が抜け、スマホを向けていた野次馬は、足が竦んで動けない。誰も連絡してくれていないようで、パトカーのサイレンさえも聞こえない。ただただ、言葉にならない大小の悲鳴が不規則に上がる中、迫る男の輪郭が、影となって私を覆った。
鞭で叩かれたような強烈な音が走ると、男は駅から離される格好で、紙屑のようにぶっ飛ばされる。
車が走っていないのをいい事に、呑気に車道を歩いていた通行人達の目の前へ、男は叩き付けられた。土煙の代わりに雨水が飛沫を上げ、パニックになった通行人が、喚きながら歩道へ散っていく。
雨音を残して、辺りは静まり返った。
通勤ラッシュに合わせ、三分置きにやって来る電車が高架線を駆けて行く音が、黙りこくった空気にやたらと響く。
周囲の視線と、野次馬の一部が構えるスマホカメラが捉えるのは、車道の真ん中で痙攣するスライム男ではなく、私だった。
大方、風呂敷みたいに広がった男の身体に隠れて、私が何をしたのかよく見えなかったんだろう。
まずは、男が間合いに入って来る瞬間に合わせ、身体を左へ捩じりつつ、前に出した右足で跳んだのだ。そのまま宙で身体を左回転させ、振り向き様に弧を描いていた左足を、遥か頭上で漂っていた、男の胃へ放ったのである。
空手で言う所の、胴回し回転蹴り、らしい。
まあ、体育の授業以外でスポーツも武道もやらないから、詳しくは知らないけれど。
鞭で叩いたような音も、蹴りが男に命中した証明だ。
受け身を取って立ち上がっていた私は、男へ走り出す。
繰り返すが、本来魔術とは、魔術師のものだ。警官にとっての銃に当たるもので、扱うには専門の知識と技術が不可欠である。
これを品質を落とす形で、誰でも使えるように作り変えられたものが、違法魔術だ。品質を落とすとは、素人でも扱えるよう専門性を低下させた事で、武器としての威力が劣化している意味と、使用するとあのスライム男のように、心身を変質させる副作用を受けるという意味がある。
あんな姿になった男に違法魔術の目的である、メンテナンスも、使用者の訓練も要らないよう作られた銃としての性能を振るう知性が、どこまで残っているのか知らないが……。今が、非常に危険な状態にある事に変わりは無い。持った奴をおかしくさせるだけで、銃は銃だ。
全く、朝からなんて不愉快なんだ。
違法魔術使用者なんて、クソッタレな人間の相手をしなければならない事もそうだが、最悪なのはそこじゃない。
違法魔術の製造者と売人は、魔術師なのだ。違法魔術とは、魔法使いを退治し過ぎて仕事を失った一部の魔術師が、金儲けの為に生み出した最悪の凶器なのである。今となっては魔術師の仕事とは、激減した魔法使いの退治から、違法魔術の駆逐に摺り替わってしまった。もう最低だ。どっちが犯罪者か分からない。それでも今を、見過ごす訳にはいかない。
ここで無視を決め込める程、私はプライドの無い魔術師でも、薄情な人間でも無いから。
痙攣する男の身体から脳を見つけると、右足で踏み込んだ。脳震盪を起こしてやろうと、速度を乗せた左の爪先を前へ放つ。
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