正面方向から、数台のパトカーのサイレンが聞こえて来た。すぐに姿を現した三台のパトカーは、歩道に入った私達や野次馬を通り過ぎ、ぐるぐる巻きにされた男の側に停車する。中から警官が出て来ると、あっと言う間に男をパトカーに乗せ、無線機でどこかに連絡を始めた。
あの手際のよさから見るに、鉄村が呼んだんだろう。犯人を捕まえるのはその危険性から魔術師の役目だが、違法魔術も犯罪だ。後始末と言った他の部分は、警察の仕事にも入って来る。鉄村が路地裏に入ったので、様子を窺えるのはそこまでとなった。
「遅刻の理由は二つだ」
鉄村は雨を凌ごうと、空いた手で庇を作りながら切り出す。
「一つは、さっき誰かが吸血鬼に襲われたそうで、その現場保存の為の交通規制に引っ掛かったんだよ。魔術師だからって理由で警察の方にも、何か知りませんかって話聞かれるし」
今更濡れたって変わらないから鉄村を傘に入れようと、腕を伸ばして爪先立ちを繰り返していた私は聞き返した。
「朝から吸血鬼?」
「この所ずっと雨が降ってて、太陽が見えないだろ? 最近時間帯を問わず増えてんだってさ。こういう吸血鬼とかの、夜に現われがちな怪物による被害」
私はうんざりしながら返す。
「……あいつら、怪物と魔法使いを混同するなって何遍言えば分かるんだ。吸血鬼退治は魔術師の専門じゃない」
「まー、やろうと思えば魔術師でも退治出来るからじゃねえの? 違法魔術使用者を見つけて捕まえるのは魔術師の仕事だけれど、そいつを裁くのは法律だし、裁判が始まる間のそいつの面倒は、警察が見てくれるし。向こうの仕事を増やしてる身からすれば、そう断るのは酷に映るぜ」
「怪物退治は狩人の仕事だ。あいつらまで仕事を失くしたら、今度は何が出て来るか分からないぞ」
「そいつもそうだ。ほら、こいつが二つ目だよ」
言うと鉄村は、急に路地の真ん中で立ち止まった。私も言われたままに足を止めるが、何か変わったものは見えない。
図体のデカい鉄村とビルの壁に挟まれて、今にも潰されそうな気分になって肩を竦めながら、もう一度辺りを見る。でもやっぱり、ただの路地裏だ。
「……どれだよ」
分からなくて鉄村を見上げると、意味の分からない、腹立つにやけ面を浮かべている。
「なぁんだ分からねえのか? これだよ」
鉄村がニヤニヤと顎で足元を示すので、怪訝に思いながらも視線を下ろした。
私の黒いロ―ファーと、鉄村の履き慣らした赤いスニーカーの鼻先で、官製葉書の横幅ぐらいもあるコガネムシが這っている。
「ひぃっ!?」
私は驚いて飛び上がると、傘を落としそうになりながら鉄村の背中に回った。
鉄村は堪えていたものを噴き出すように、豪快に笑う。
「だっはっは! お前本当に虫苦手だよなあ!」
「うるさい早くそれ何とかしろ! てか何でそんなでっかいんだそいつ!」
鉄村の背にしがみついたまま、顔を覗かせてコガネムシを見た。……ああ気持ち悪い。……けど、動いていない? 大粒の雨を受けているのに足一本動かさない所か、身体の色が違う。あの不気味な光沢も無い、アスファルトと同じ灰色だ。
「これ彫刻なんだよ」
鉄村は庇を作ったまま、私が飛び上がった際に振り払った方の腕で、コガネムシを指す。
「御影石で彫られてんだってさ。台座ごと一繋ぎで彫られてあって、地面を掘って台座ごと填め込んでるらしい」
鉄村は熊みたいな身体を屈ませると、コガネムシの足元に、太い人差し指を向けた。私はその動きだけで、悲鳴が出そうになる。
だが鉄村は気にしていないようで、そのまま地面を、すーっと真横になぞってみせた。確かにコガネムシは全く動かないし、鉄村がなぞった位置を境目にするように、地面の色が微妙に違っている事に気付く。
その様子を、鉄村を傘に入れながら覗いていた私は、僅かに安心しながら声を漏らした。
「……本当だ」
鉄村は背中越しに振り返って来ると、歯を見せてくしゃっと笑う。
「本物のコガネムシだと思ったろ? 有り得ない大きさしてんのに」
確かに、こんなに大きいコガネムシいやしないのに、本物に見えて驚いてしまった。ただ虫が嫌いだから、同じ形をしたものを見て驚いたんじゃなくて、本当にその大きさをした生きてるコガネムシが、目の前に現れたんだと思って。この正体が石だなんて、まだ少し信じられない。
まだ全身に立った鳥肌が治まらなくて、傘を持つ左手を擦りながら尋ねる。
「……でも、何でこんなものが?」
「文字化け作家だよ。お前も帯刀に、このストラップ貰ったろ?」
鉄村は言うと、ズボンの尻ポケットからスマホを出して掲げて見せた。私がスマホに付けているものと全く同じ、ステアレザーのストラップが揺れている。
このストラップは、私と鉄村の共通の友人である、帯刀からのプレゼントだ。文字化け作家とはこのストラップの作者である、正体不明の人気造形作家を指す渾名である。渾名の由来は、自身のSNSのアカウント名と、活動拠点としているオンラインアートギャラリーでの登録名の、「菫コ縺ッ縺雁燕縺梧ー励↓蜈・繧峨↑縺??」だ。文字通り文字化けしていて、渾名でも付けないと呼びようが無い。
この作家は、自分のホームページを持たず、出展もしないが、登録しているオンラインアートギャラリーでは常に売り上げ上位を独占しており、アート好きな人々の間では、数年前から話題になっていたらしい。特にここ最近は、数千円から購入出来る安価な作品も発表するようになった事で、流行りに敏い学生の間でも人気者だ。作品発表のみで、自身の素性について一切言及しないミステリアスなSNSでの投稿も、注目を浴びたきっかけらしい。兎に角幾ら調べても、何も分からないそうなのだ。作品が素晴らしい事以外。
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