一つ頭のケルベロス

棟方(むなかた)
棟方(むなかた)

私の方がよっぽど子供。

公開日時: 2021年11月1日(月) 06:00
文字数:2,298

 見えなくなるまで鉄村を見送ると、同じく鉄村を目で追っていた裁さんは、ぼそりと呟く。


「……ここのアップルパイ、一個九百円ぐらいしませんでした……?」


「ああ、それぐらいだったね」


 知ってるって事は、食べた事があるんだろうか? 学生がそう、気軽に通えるような価格帯の店では無いけれど。


 裁さんは、圧倒されたように表情を硬直させると、まだ呆然としながら言葉を継ぐ。


「……そんな額をさらっと出せるなんて……。凄いお金持ちなんですね、天喰先輩……」


「ただの小金持ちだよ。成金って言ってもいい」


 苦笑で返す私に反して、 裁さんは羨ましそうな顔になった。


「いいなあ。そんな大金をぽんと出せるなんて。私ならいっぱい買い物しちゃいます。服欲しいし、スマホは最新のに替えたいし、旅行もカラオケも行き放題だし……」


 指を折って願望を数えていく裁さんの様子に、つい微笑んでしまう。


「趣味が多いのはいい事だよ。私と鉄村はお茶してから登校するけれど、裁さんはどうするの?」


 あの食事量をお茶と言えるか怪しいが。


 でもあの通りデカい図体なので、パイ一個なんておやつにもならないだろう。


 まだ指を折りながら願望を数えていた裁さんは、ピーマンでも食べたような顔になって振り返って来る。


「ヴえぇっ、学校行くんですかぁ?」


「いや……。行くけれど。授業まで街をブラブラしてもいいけれど、特に用事も無いしね。開始時間もはっきりしてない状態で歩き回るのも、あんまり落ち着かないし」


 朝の諸々の一件から時間も経って、すっかりイライラも治まったし。


 すると裁さんは、ぱっと目を輝かせた。


「なら、私とお話ししましょうよ! 天喰先輩!」


 私は困って眉を曲げると、裁さんをたしなめる。


「……美術館では静かにしなさ」


 裁さんに右腕を掴まれ、鉄村が食べたいと言っていたメニューを出しているレストランへ連れて行かれた。


 奥にある窓際の席に座らされた私に見せるように、テーブルにメニューを広げた裁さんは興奮して言う。


「いやーびっくりしましたよ。まさかこの目で、例の彫刻が見られるなんて! ましてこの美術館で調査されてるなんて、夢にも思いませんでした!」


 対して引きった笑みを浮かべている私は、右腕をテーブルに伸ばすと、頬杖ほおづえを突きながら裁さんを見た。


「……君って強引」


「天喰先輩が押しに弱いんですよ。でも反省しています。確かに、美術館ではお静かにですから」


 裁さんは唇の前で、右の人差し指を立てると苦笑する。


 確かに最初に顔を会わせた際の彼女は、しっかり美術館のマナーを守って静かにしていた。


「……まあ、分かってるならいいけどさ」


 別に断る気も無かったし。


 ぼそりと言いながら頬杖をやめ、右手をお冷のグラスへ伸ばす。


 その様子に裁さんは歯を見せて、悪戯っぽく笑った。


「へへ。ありがとうございます。何頼みます?」


 お冷を口に含んだばかりの私は、頬を水で膨らませたままの声で応じる。


「んん?」


 別に気にしにゃしないけれど、何だか完全に、彼女のペース。


 湿気しけっていた制服も乾いているから心配事も無くなったし、水を飲み込みながらグラスを置くと、メニューを見た。


「……じゃあ、リンゴジュース」


 身を乗り出して熱心にメニューを眺めていた裁さんは、目をまんまるくすると顔を上げ、不思議そうに私を見る。


「……凄い可愛いらしいの飲むんですね」


「えっ?」


 私の目もまんまるになった。


 裁さんは右手で頬杖を突くと、からかうような笑顔になる。


「いえ、てっきり私、天喰先輩はコーヒーか紅茶かなと。意外です」


 ……変、だろうか? 


 そんなに食い付かれると思ってなかった私は、気恥ずかしくなって目を逸らす。


「い、いいじゃんか。好きなんだから……」


 裁さんはもう、にこにこになって尋ねて来た。


「お腹冷やしませんか? 外寒いですけれど」


 面白がってこの子。


 余計に目を合わせられなくなった私は、意味も無く窓の外を睨みながら返す。


「猫舌なの。年中熱いものは飲まないし、コーヒーも苦いから嫌。ミルクと砂糖入れないと飲めないよ」


 つい尖った声になるが、裁さんはびくともしない所か、笑い声を上げた。


「あはは! 冗談ですよ天喰先輩。ギャップに撃ち抜かれました。完敗です」


「先輩だから気前よく奢ろうと思ってたロールケーキ、頼むのやめるね」


「だぁ!? 嘘です嘘です! 頂きます! 私このッ、抹茶のロールケーキがいいです天喰先輩ッ!」


 裁さんは立ち上がって身を乗り出すと、大慌てでメニューの抹茶ロールケーキを左手で指す。


 ようやく小さな反撃に出られた私は、顔の火照りを何とかしようと、お冷を口に運びながら尋ねた。


「ドリンクは?」


「ブラッドオレンジジュースで!」


 目を伏せてお冷を呷ろうとした私は、露骨に不満顔になって裁さんを見上げる。


「君もジュースじゃんか」


 裁さんはまた目を丸くすると、歯を見せてはにかんだ。


「……私は子供なので、これぐらいがお似合いですよ」


 その姿が、ただ不貞腐ふてくされているだけの私なんかより、よっぽど可愛くて。


 用意していた意地悪い言葉を吐く気には、どうしてもなれなくなって、代わりにぼそりと呟いた。


「……何だいそれ」


 まあ、こういう日常も守れていると思えば、悪い気はしないけれど。


 お冷を一気に飲み干すと、店員を呼んで注文を取って貰う。


 まだ開店して間も無いこの時間帯に、私達以外の客はいない。裁さんが落ち着けば、店はあっと言う間に静かになった。


 私は、注文を取ってくれた店員が注いでくれたお冷を一口飲んでから、グラスを置くと切り出す。


「もし一つ頭のケルベロスに出会ったら、何かお願いしたいの? 私が聞いた噂ではこいつって、気に入らない人間と出会ったら、指一本残さず食べちゃう怪物だって聞いたけれど」

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