見えなくなるまで鉄村を見送ると、同じく鉄村を目で追っていた裁さんは、ぼそりと呟く。
「……ここのアップルパイ、一個九百円ぐらいしませんでした……?」
「ああ、それぐらいだったね」
知ってるって事は、食べた事があるんだろうか? 学生がそう、気軽に通えるような価格帯の店では無いけれど。
裁さんは、圧倒されたように表情を硬直させると、まだ呆然としながら言葉を継ぐ。
「……そんな額をさらっと出せるなんて……。凄いお金持ちなんですね、天喰先輩……」
「ただの小金持ちだよ。成金って言ってもいい」
苦笑で返す私に反して、 裁さんは羨ましそうな顔になった。
「いいなあ。そんな大金をぽんと出せるなんて。私ならいっぱい買い物しちゃいます。服欲しいし、スマホは最新のに替えたいし、旅行もカラオケも行き放題だし……」
指を折って願望を数えていく裁さんの様子に、つい微笑んでしまう。
「趣味が多いのはいい事だよ。私と鉄村はお茶してから登校するけれど、裁さんはどうするの?」
あの食事量をお茶と言えるか怪しいが。
でもあの通りデカい図体なので、パイ一個なんておやつにもならないだろう。
まだ指を折りながら願望を数えていた裁さんは、ピーマンでも食べたような顔になって振り返って来る。
「ヴえぇっ、学校行くんですかぁ?」
「いや……。行くけれど。授業まで街をブラブラしてもいいけれど、特に用事も無いしね。開始時間もはっきりしてない状態で歩き回るのも、あんまり落ち着かないし」
朝の諸々の一件から時間も経って、すっかりイライラも治まったし。
すると裁さんは、ぱっと目を輝かせた。
「なら、私とお話ししましょうよ! 天喰先輩!」
私は困って眉を曲げると、裁さんを窘める。
「……美術館では静かにしなさ」
裁さんに右腕を掴まれ、鉄村が食べたいと言っていたメニューを出しているレストランへ連れて行かれた。
奥にある窓際の席に座らされた私に見せるように、テーブルにメニューを広げた裁さんは興奮して言う。
「いやーびっくりしましたよ。まさかこの目で、例の彫刻が見られるなんて! ましてこの美術館で調査されてるなんて、夢にも思いませんでした!」
対して引き攣った笑みを浮かべている私は、右腕をテーブルに伸ばすと、頬杖を突きながら裁さんを見た。
「……君って強引」
「天喰先輩が押しに弱いんですよ。でも反省しています。確かに、美術館ではお静かにですから」
裁さんは唇の前で、右の人差し指を立てると苦笑する。
確かに最初に顔を会わせた際の彼女は、しっかり美術館のマナーを守って静かにしていた。
「……まあ、分かってるならいいけどさ」
別に断る気も無かったし。
ぼそりと言いながら頬杖をやめ、右手をお冷のグラスへ伸ばす。
その様子に裁さんは歯を見せて、悪戯っぽく笑った。
「へへ。ありがとうございます。何頼みます?」
お冷を口に含んだばかりの私は、頬を水で膨らませたままの声で応じる。
「んん?」
別に気にしにゃしないけれど、何だか完全に、彼女のペース。
湿気っていた制服も乾いているから心配事も無くなったし、水を飲み込みながらグラスを置くと、メニューを見た。
「……じゃあ、リンゴジュース」
身を乗り出して熱心にメニューを眺めていた裁さんは、目をまんまるくすると顔を上げ、不思議そうに私を見る。
「……凄い可愛いらしいの飲むんですね」
「えっ?」
私の目もまんまるになった。
裁さんは右手で頬杖を突くと、からかうような笑顔になる。
「いえ、てっきり私、天喰先輩はコーヒーか紅茶かなと。意外です」
……変、だろうか?
そんなに食い付かれると思ってなかった私は、気恥ずかしくなって目を逸らす。
「い、いいじゃんか。好きなんだから……」
裁さんはもう、にこにこになって尋ねて来た。
「お腹冷やしませんか? 外寒いですけれど」
面白がってこの子。
余計に目を合わせられなくなった私は、意味も無く窓の外を睨みながら返す。
「猫舌なの。年中熱いものは飲まないし、コーヒーも苦いから嫌。ミルクと砂糖入れないと飲めないよ」
つい尖った声になるが、裁さんはびくともしない所か、笑い声を上げた。
「あはは! 冗談ですよ天喰先輩。ギャップに撃ち抜かれました。完敗です」
「先輩だから気前よく奢ろうと思ってたロールケーキ、頼むのやめるね」
「だぁ!? 嘘です嘘です! 頂きます! 私このッ、抹茶のロールケーキがいいです天喰先輩ッ!」
裁さんは立ち上がって身を乗り出すと、大慌てでメニューの抹茶ロールケーキを左手で指す。
漸く小さな反撃に出られた私は、顔の火照りを何とかしようと、お冷を口に運びながら尋ねた。
「ドリンクは?」
「ブラッドオレンジジュースで!」
目を伏せてお冷を呷ろうとした私は、露骨に不満顔になって裁さんを見上げる。
「君もジュースじゃんか」
裁さんはまた目を丸くすると、歯を見せてはにかんだ。
「……私は子供なので、これぐらいがお似合いですよ」
その姿が、ただ不貞腐れているだけの私なんかより、よっぽど可愛くて。
用意していた意地悪い言葉を吐く気には、どうしてもなれなくなって、代わりにぼそりと呟いた。
「……何だいそれ」
まあ、こういう日常も守れていると思えば、悪い気はしないけれど。
お冷を一気に飲み干すと、店員を呼んで注文を取って貰う。
まだ開店して間も無いこの時間帯に、私達以外の客はいない。裁さんが落ち着けば、店はあっと言う間に静かになった。
私は、注文を取ってくれた店員が注いでくれたお冷を一口飲んでから、グラスを置くと切り出す。
「もし一つ頭のケルベロスに出会ったら、何かお願いしたいの? 私が聞いた噂ではこいつって、気に入らない人間と出会ったら、指一本残さず食べちゃう怪物だって聞いたけれど」
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