その隙に棘を引っ込めていた男は、歩道へ跳んだ。
道路に面して立つ、十二階建て雑居ビルの窓に吸い込まれながら、風呂敷状に広げた身体を貼り付かせる。そのまま重力に引き摺り落されるかと思いきや、下へ弛みかけた身体は高速で波打ち、マジックマッシュルームで毛虫のようになりながら、ビルの窓を駆け出した。
いやもう我慢してたけれど、ビジュアルと言い動きがキモ過ぎる。ぶよぶよマンって呼ぶぞ。奴の進行方向は……。三分置きに電車がやって来る、あの巨大な駅?
いやそこでもし何かあったら道路破壊以上にまずい!
両手で頭上に持ち上げていたアスファルトの塊を、元の場所に填め込んでから男を追って走り出す。
加速しながらビルの窓を行く男は、キノコの隙間から私を見たのだろう。走る身体から触手のような腕が一本伸びて、丁度男を遮る格好になっていたビルの看板を引き千切る。そいつを躊躇い無く、車道の真ん中を走る私へ投げた。
投げ付けられた看板が迫る中、考える。
このまま、あくまで奴を捕まえる事を最優先として街の損害を大きくし続けるのと、街への損害を抑える余り奴を逃がしてしまうのは、どちらが問われる責任が重いだろうか。
そりゃあ逃がす方がまずい。道路に穴が開き、ビルにも被害が出た以上、何らかの成果を上げないと世間が許さない。正義の味方と言ったって、違法魔術という厄介なものも生んだ魔術師だ。常に世間体には細心の注意を払うものだし、これ以上恥を晒すような行為は、魔術師同士でも厳しい目を向けられる。
でも私は、世間体以前に、間違っている事は許せない。そもそも私がこの件に首を突っ込んだ理由は、女性に手を上げる輩を許せなかったからだし、大体私よりあのキノコ野郎の存在に気付いていた人なんて幾らでもいたのに、どいつもこいつも見て見ぬ振りをして、通り過ぎてったからだ。チラシ配りの女性という困っている人も、確かにその目に映ってたのに。
そんな身勝手な腰抜け共を、一般人という、あたかも無害なカテゴリに括り上げて守らなきゃいけないこの苛立ちが、お前に分かるか? キノコ野郎。車道からお前を追ってたのも、お前の攻撃対象である私が歩道に入って、歩行者に被害が及ぶのを防ぐ為だ。
違法魔術使用者を追っている真っ最中だと言うのに、この配慮。魔術師の鏡だろう? そうまでして守ろうとしてる奴らとは、見過ごしはする上に警察は呼ばず、助けに入った私はスマホで無断撮影し続けているような、お前以上のクソッタレ野郎共だけどなあ!
「いい加減にしろよお前ら!」
って言えたらどれだけ楽か!
眼前に迫っていた看板を、男へ蹴り返した。蹴りを浴びた看板はV字に潰れ、先の左ストレートを優に超える速度で豪雨を切り裂く。
当然看板は男に直撃し、男の身体は、撃ち落とされるように地上へ剥がれた。
地上の通行人と野次馬が悲鳴を上げるより速く、私は男の落下点へ到達する。
男と看板の影が濃くなりながら広がる中、先に落ちて来ている看板を、左手で掴んだ。すっかり原形を失ったそいつで、歩道に迫る男を落とすまいと、駅方向へ殴り飛ばす。高架線へ吹き飛ばされて行く男を追おうと、用済みになった看板を足元に置きつつ跳んだ。
瞬きをすれば置いて行かれるような衝撃の連続に、やっと頭が追い付いた野次馬と通行人が悲鳴を上げる。だがもう、遥か遠ざかった私には聞こえない。
空を疾走する紙屑のようになった男は、剥がれていくキノコを撒き散らしながら、全身から触手を伸ばした。今、まさに走り去ろうとしている電車の最後尾車両へ貼り付いて逃れようと、引き攣れる程全ての触手を伸張させる。
男のあの、キィキィとした金属的な鳴き声が、自分の鼓膜さえ裂くような叫喚を上げた。
記録に挑むアスリートのようには決して見えない、ただ生存を賭けた、本能的で、後ろ汚い咆哮。
……いや、生物としてなら、百点満点の絶叫か。
だって生き物って、自分が快適に生きていけるなら、それでいいんだから。
先の跳躍で男の背後に迫っていた私は、男の背に、左の足裏を押し付ける。
踏み付けられた男は、その衝撃からか、私への恐怖からか、あれだけ命懸けのように伸ばしていた触手を、呆気無く全て縮こませた。
たったそれだけの光景が、酷く虚しく、目に焼き付く。
男は、空を掻く無数の触手を引き連れて、誰もいなくなった線路上に叩き付けられた。
雨水が絡んだ砂利が打ち上がるも、線路から落下する事は無い。本当なら蹴り飛ばしてやりたい所を堪え、スタンプのように男の背を押すだけに、左足の力を加減してある。
だらりと触手を広げ、萎れたゴムボールのように伸びた男は、その身をやっと、人の形に戻した。
戻したも何も、これは違法魔術の副作用に過ぎないので、男が任意でやっている訳では無いが。肉体的か精神的に違法魔術使用者を弱らせれば、早く治まる事が多い。ボコボコ殴っていたのはその為だ。
大立ち回りの音に押し退けられていた雨音が、漸く戻って来る。
髪や顎から滴る雨水が鬱陶しいなんて、どうでもいい事を考えながら、男の背から左足を上げた。
男のジャージの襟首へ、左手を伸ばすと掴む。男の顔をこちらに向かせるように、目線の高さが合うまで持ち上げた。
男は、微かに意識が残っているようで、間抜け面でこちらを見ている。
その間抜け面を、じいっと、見た。
……ここならこいつを思い切りぶん殴っても、誰にも見つからなかったりするんだろうか。
いや、確かに野次馬や通行人の視界からは逃れたけれど、辺りはビル群である。誰が見下ろしているか分からない。……でもここが路地裏だったなら、本当に分からないんだろうな。
冷え切った目をする私に、男は怯えるように呻いた。恐怖心が意識を覚醒させたのか、ぼうっとした目に僅かに力が戻って、おろおろと泳いでいる。
殴られると思ってるんだろう。確かに本当ならそうしたいし、お前の貧相な脳味噌では想像出来ないような、惨たらしい仕打ちだって用意出来る。お前の相手をした所為でずぶ濡れになったこの不快感だけで、一体何本骨を折ってやれるか。加減しているだけで、我慢しているだけで、この通り私とはお前を、容易に殺せてしまうんだから。
まあ、そんな事は出来ないんだけれど。
魔術師だからとかじゃなくて、人として。
それは殴り甲斐のある顔で泣き出す男に、負け惜しみみたく、歯を覗かせて苦笑した。
「……命は平等らしいぜ。最高だろ?」
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