一つ頭のケルベロス

棟方(むなかた)
棟方(むなかた)

ドロドロ男

公開日時: 2021年8月28日(土) 23:43
更新日時: 2021年9月25日(土) 18:12
文字数:2,122

 ぎょっとした男は目を見張る。


 急に現れたように見えたんだろう。隣に立つ格好で現れた私に、チラシ配りの女性も目を丸くしていた。


 ……しかしこの男、この女性と近い年齢だろうに、どうしてこうも程度が違う。


 男の髪型は、今や、流行りに乗るけど個性は無いですと紹介するような髪型になっている黒のツーブロックで、ジャラジャラとした金のネックレスと、便所サンダルみたいな黒い合成樹皮の履き物が、悪趣味なジャージで十分な下品さを肥大させている。無精髭も汚らしいが何が一番酷いって、案の定酒臭い。……し、何だか、森? みたいな臭いが混ざっている。キノコ臭いと言うか。


 女性を一瞥いちべつして、暴力を振るわれた様子は無いのを確かめてから、男を見上げて言った。


「やめませんか。警察署も近いですし」


 驚いたまま固まっていた男は、しゃくに触った勢いで我に返ると声を荒げる。


「ああ!? 何だお前はよォコラ! その制服、そこの八高やつこうじゃねえか、ガキはさっさと学校行ってろ! ……あァ!?」


 八高とは私が通う、公立高校の略称である。


 男のがなりは続く。


「この……っ、ちょっとそいつに、傘貸してくれって頼んだだけじゃねえか、何偉そうに騒いでんだよ!」


「傘なら私のあげますから」


「だったら早く手ェ離せやボケッ!」


 そうこいつ、さっきから喚きつつも私の手を払おうと、両腕を使っているが苦戦している。運動部に属していない所か、体重が標準値を下回っているような細っこい女に、まるで大木に挑んでいるように微動さえ出来ていない。


 しっかし、鉄村の奴遅い。


 辺りに視線だけ向けて、鉄村の姿が無いのを確かめると、取り合えず女性へ言った。


「どうぞ、チラシ配りに戻って下さい。何とかしときますんで」


 女性は私に気付くなり、飛び上がって肩をすくめる。


「えっ!? あ、ああ、えっと……」


「?」


 酷く驚かれた。


 いや、怯えてる? 何に? ……私にか? そんなまるで、怪物にでも睨まれたみたいに。


 ふと、男の後ろに立つ雑居ビルの自動ドアに映る、何かに気付いた。


 その何かは位置から考えるに、男の腕を掴んでいる私の姿だ。然しどういう訳だか、手足が無い。身体は、黒くぶよぶよとした肉塊のようになっていて、安っぽいCGのような質感を持って佇んでいる。顔と思わしき位置に開いている二つの穴には白く濁った眼球が収まり、垂れ下がる肉の隙間から、じっとこちらを覗いていた。


 息を呑んでいる自分に、ようやく気付きながら肉塊へ問う。


 何だ、お前。


 左手で握っていた傘が奪われた。


 現実に引き戻され、咄嗟に傘を奪ったものの正体を目で追いかける。


 男の左腕だ。


 男は、まだ私に掴まれて自由が利かない右腕に腹が立ったのか、奪った傘をそのまま、槍のように持ち替え私の顔に突き出した。


 いやそれは度を越してるだろ。


 チラシ配りの女性が悲鳴を上げて縮こまる中、男の右腕を放し、車道に出る格好で跳び退すさって傘をなす。


 辺りから、やけに密度のある悲鳴が上がった。見渡すと通行人が、人だかりを作り始めている。


 ……野次馬が。私と同年代の奴が多いか?


 何せ、この駅から徒歩十分圏内だけで、五つの学校がある。人だかりの中には、スマホをこちらへ構えている奴もちらほらいた。


 撮ってねえで警察呼べよ。


 引きり出してぶん殴ってやろうかと、腹の底で怒りが唸る。


 何だってお前らは何もしない。自分が同じ目に遭ったら、助けて欲しいって思うだろ。


「何だクソてめえはよォ、コラァ……!」


 男の熱に浮かされているよな声に、野次馬へ傾きかけた意識が引き戻された。


 男の様子がおかしい。確かに呂律ろれつは最初から怪しかったけれど、その原因は酒だろうし、意識もはっきりしていた。なのに今はぐったりとして、頭頂部を見せるように猫背になって俯いている。激しい雨音でも掻き消えない程、呼吸も荒くなっていた。


 ……飲み過ぎで体調不良? 酒なんて飲んだ事無いから分からない。救急車を呼んだ方がいいだろうか?


 様子を窺うように、男へ近付こうと踏み出す。


「……あのすみません、大丈夫で」


「うっせえぞてめえコラァ! お前、俺をパクりに来たサツだろ……。女のくせに、そんなゴリラな訳ねえだろが……」


 男は俯いたまま、私の言葉を遮るように訳の分からない事を怒鳴った。


 絶句して立ち止まった私と、野次馬から上る困惑が、じっとりと嫌な粘りを持って、辺りに横たわる。


 ……いや、多分ゴリラってのは、私の怪力を指して言ったんだろう。然し私は警察じゃない。……酒の上に、クスリでもやってる?


 野次馬も恐怖を覚えたのか、それまでぼそぼそと好き勝手喋っていた口を閉じた。


 いや、もういい。警察を呼ぼう。


 ブレザーのポケットからスマホを出す。駅から歩いて十分もかからない位置にある警察署の電話番号を、アドレス帳から探した。


 男の口から、風呂の排水溝が詰まったような音が漏れる。


 気色の悪さに、スマホを操作する手が止まって顔を上げた。


 男の身体が溶けている。皮膚が赤くただれ、形を失うように崩れていた。ジャージの袖からのぞく手足は、溶けた身体がスライムのように粘りのある赤い液体となって、糸を引きながらアスファルトへ流れて落ちている。


 野次馬からも、ちらちらと視線を送るだけだった通行人からも、飛び降り自殺の現場に出会でくわしたような悲鳴が上がった。

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