まぶたの上から訴えかけてくる温もり。はちみつのようにわたしの目頭を覆っていく。鼻に漂ってきたその刺激臭に思わずのけぞって目が覚めた。
これは、粘着質。唾液?
顔をぬぐうとさらに、塗り広がっただけ。髪を思わず振り乱す。自身の金髪が口に張りつく。え? わたしの顔の上に、覆いかぶさっているのは怪物!
異様に伸びた犬歯が、結んだ灰色の唇からはみ出して、よだれを私のまぶたに滴り落としているじゃないの。
声が出なかった。ふり絞るようにしてあの人の名前を叫ぶ。
「ジュスト! 助けて!」
私の悲鳴で怪物はその体躯をよじらせて頭をかかえた。剛腕を肘まで灰色の剛毛がたゆたっている。
顔面は醜く歪み、鼻は膨らみ荒々しい息を吐く。眼球は黒く、瞳孔は黄色い。さながら狼のようないでたちで、服をまとっておらず、筋骨隆々とした灰色の肉体は成人男性よりひと回りも大きい。
私の上に乗られたなら、押しつぶされてもおかしくない。
「グガアアアアアアアアアアアアアアア」
怪物は自身の頭から手を忌々しげにふりほどき、天井を仰いで咆哮する。薄暗い洞窟内で鼓膜まで震えるほどに反響した。
助けて……助けてジュスト。ここはどこ。私は、この怪物に殺される! ジュスト。どこにいるの!
私と同じく金髪の頼りなげな顔の青年を思い浮かべる。血を見るのも苦手な彼に短剣を握らせてしまったのは私。
怪物の黄ばんだ鋭い爪が、洞窟内の松明の明かりを受けて鈍い輝きを放つ。
反射的に私は上体を起こす。そのときはじめて指先に触れた大理石の冷たさで、今までずっと台座の上で横になっていたことに気づく。それだけじゃない。
短剣が置かれている。私の手元のすぐ近くに。これは、一体誰の?
考えている暇はない。怪物は腹をすかせた狼のように叫び続けている。私の妹を殺した怪物。逃げているばかりでは駄目。私が殺すって決めていたんだから。ジュストばかりに迷惑はかけられないわ。私一人だってやれる!
怪物よりも先に。私が先に。私は復讐の女神。すべての生き物に命を与えてきた。だから、今度は私が奪う番。
短剣を怪物の熱い胸板より少し下に突き刺す。噴き出す血も灰色。
「醜い化け物!」
妹の仇。
心臓のある右へ、柄まで血に濡れるぐらいにずぶずぶと押し込む。私の細い指では両手で握ってもなかなか、押しすすめられない。
「グバッガアア」
怪物の吐血した灰色の血。私の金髪に未練たらしく降りかかる。
「さっさと死になさい」
こいつは、地上に暮らすたった一人の妹を殺したんだから! 復讐の女神として、罰を下すの。こいつが私の妹の首に食らいついたように、私はこいつの喉をかき切ってあげるの!
短剣を引き抜くのは容易ではなかった。でも、私は両手が鮮血でぬめり、滑っても柄を固くつかみ続けた。怪物が狼狽して半歩後ろに下がるので、私の指が離れそうになる。
自身の真っ赤なドレスを滑り止めのためにあてがって、短剣を引き抜く。後方に倒れる怪物。尖った異様な頭と鋭利な耳。後頭部から湿った土の上に倒れた。
心臓に短剣が届いているはずだから、もう数分のうちに常世(とこよ)におもむくはず。
だけれど、私は怪物の喉元に短剣をあてがう。太い首筋を突き刺す。食道から、口内へ。怪物の長く赤い舌が絶叫とともに、長く突き出される。
ごぼごぼと音を立てて唾液と血反吐が混じって吐き出されていく。
さあ、苦しんで死になさいよ!
妹リア……あの子は、最期に天を仰いだ。私の存在する天を。私を見上げてくれたの。それなのに私は、見つめ返すことすらできなかった――。
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