洞窟には、怪物の足跡がくっきりっと残っています。隠れる気がないのでしょうか。僕は不安になります。女神ローザ様を導く形で先に歩みました。
「絶対に許さないわ」
「ローザ様? そのようなお言葉は……」
一番辛いのはローザ様ですよね。僕は鈍感でした。ローザ様が唇を噛むまで、このことに気づかないなんて。僕は神官失格です。
「ローザ様は悪を許せと教えて下さいました。僕もリア様を目の前で亡くしてまだ震えが走ります。けれど、怪物を始末すればそれで終わりです」
女神様はまた天井にお帰りになる。黄金の椅子に座れます。そう簡単に考えていました。
「いいえ。一度地上に降りたら女神に戻るには生贄が必要よ」
女神ローザ様は僕が質問をしなくてもお答え下さりました。全知全能の女神様というわけでなく、人として人の心をお読みになったのです。
僕は胸騒ぎを覚えます。女神ローザ様は人であると。僕が勝手に髪色を思い描いたり、宗教画が女神の姿を描いたりすることに意味はありませんでした。
今こうして女神様が人として存在する! 確かな事実であり、僕は彼女を人として好きになった瞬間でした。
「あの、ローザ様」
僕は気づけば彼女の手を取っていました。とても愚かな行為です。だけれど、どうしてもこの危機的な状況では我慢ができませんでした。彼女を救いたい。わがままな動機です。女神ローザ様。いや、人としてのローザ様の腰に手を当ててそっと、そのお美しい色白の肌に灯る淡い桃色の唇にキスをしました。
きっと怒りを買うと思いました。けれど、意外なことにローザ様は、この急ぐべき状況だというのに、僕の身体を抱きとめてじっとしていてくださいました。
「あなた、神官でしょ? 誰にでもこんなことをするのかしら?」
「い、いえ」
僕は口ごもります。言い訳のしようがない、甘い感じが口内にまだ残っています。
「不道徳だとは思わないのかしら?」
「は、はいそうですね。申し訳ございません」
「いいの。黙って。私もこんな気持ちははじめて。妹のことで涙を絶え間なく流さなればならないというのに」
不謹慎ですよね。僕たちはリア様の昇天日にキスをしたのですから。
「いいわ。私、この先で嫌な予感がするもの。鍵の怪物を殺して、私も死にたいと思ったのよ。本当はいけないことだわ」
「それは、人の感情としては正常ですよ」
「いいえ、女神の感情としては許されないわ。私は、死んではいけない。生き続ける存在なの。私が死ぬことは、それ自体が罪よ」
絶対神は死ぬことも許されません。僕はその事実に面食らいました。これまで学んできたことが何一つも役に立たなかったのです。女神が人に堕ちた。脳裏にその文言が走ります。
女神ローザ様が突然、僕の肩に腕を回してきました。こんなときに、何を。こんなときだからですか?
さっき僕がしたのと同じことを、今度はローザ様がなさいました。僕たちは不謹慎にも絡み合います。
近くの手ごろな岩の上で横になって、抱きついては世間一般でいうところのみだらな行為を行いました。怪物のいるかもしれない洞窟でです。
僕らは人でした。神と神官ではなくなりました。常識を捨ててしまった堕ちた存在です。
怪物の唸り声が木霊しました。僕らは使命を思い出します。ローザ様は僕のことをジュストとお呼びになります。
「はい、ローザ様」
「鍵の怪物はとても手強いの。おそらく今の私一人では倒せないわ」
「では、僕が行きます」
「無理よ。あなた、本当は血が怖いんでしょう? 知ってるのよ?」
「いえ、ローザ様のために、この短剣でやります」
「いい? 私が怪物を引きつけるわ。女神を殺すことができれば、あの怪物も満足でしょうし。本来なら、あの怪物はリアを殺して私を地上におびき出したことで、目的は達成しているんでしょうけど」
「ローザ様が標的ならばなおさら、行かせられません。僕が行きます」
ローザ様は武器を持っていませんから。僕は怪物の声がした方へ向かいます。洞窟内の虫が天然の青い光を放っています。幻想的な宇宙の様相ですが、ここがもしかしたら僕の墓場なのかもしれませんね。
怪物の吐息が聞こえました。
「ローザ様はここにいて下さい。僕が見てきます」
「あなたも怪我しているじゃない。私は足だけよ。それも、女神なんて職についたばかりに、裸足なのがいけないの」
「女神様が職業の一つであるなら、僕が代わってあげたいですね」
ローザ様は頬を赤らめて僕を否定します。
「男性はなれないわ」
まあ、そうですよね。男が神になるのなら、そのまま神になるのでしょう。
ローザ様を手ごろな岩の上に座らせて、僕は短剣を両手で握り締めます。洞窟の青い光でときどきぼんやりと黒い物体が浮かび上がって見えます。奥へと進んでいきますね。このままでは逃げられてしまいそうです。僕は駆けます。
「ジュスト! 離れないで! 私が本来なら戦わなければいけないのよ。私が殺してやるの!」
「ローザ様! そのようなお言葉は!」
ローザ様の鬼の形相。僕が解決しなければならないと心に決めます。
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