リア様の小さな悲鳴。僕の足のかかとに怪物の蹴とばした小石や、ぬかるみの泥がかかります。もう半歩の距離。怪物の手が今にも僕の背に届きます。僕は歯を食いしばって前に足を伸ばします。
背中に走った激痛は耐えがたいものでした。背中を裂かれました。
血が出ました。肉がえぐれました。
僕は情けなくも悲鳴を上げてリア様を抱えたまま転倒しました。僕には自分の背中の状態を確かめる勇気はありません。
前に、前に進んで逃げなければ。だけれど、僕の意識は遠のいていきます。深淵が僕を誘いました。まぶただけは閉じません。絶対にお守りします。
「いやああああああああ」
リア様の悲痛な叫び声。聖女リア様に覆いかぶさる怪物。僕が倒れたばっかりに!
僕は、這ってでもリア様の元へ向かいます。けれど、怪物はリア様の首に深々と噛みついています。さきほどの傷口の上からです。
リア様の足がびくびくと痙攣しているのが見てとれました。こときれる寸前、リア様は曇天を見上げます。僕はリア様に意識がまだ残っていることを確信します。リア様が空に祈っています。僕ではなく女神ローザ様に助けを求めています。
自分が情けなくて涙が溢れてきました。
「リ、リア様」
僕はなんで、幼い少女一人も救えないんだ! リア様の首は無残に裂けました。繊維質に伸び切った肉と、勢いよく飛び出した血。痛みなど想像がつきません。全身ががくがくと震えます。
僕は神父です。戦う術は知りません。だけれど、どうしてこうも非力なんでしょう。目の前のけだものが僕を振り返って大きな足の背を踏みつけました。傷口の上からです。
「ぎあああああ」
情けない悲鳴です。僕は弱い人間でした。きっと今ので背骨が折れたのでしょう。いいえ、そんなことはありません。
痛みと恐怖でそう錯覚したんです。身じろぎ一つできません。
怪物が喉を鳴らします。
僕はとんでもない罪人です。リア様をお救いすることができませんでした。だのに、僕は自分が殺されることを恐れました。
死にたくありません。死にたくない。死にたくない――。
僕が四肢を縮こまらせていると、異様に生暖かい風が吹き荒れました。森の木々が風に揺れます。曇天から、かっと、射るような光が僕と怪物を差しました。僕は腕で顔を覆いました。
これ以上、何が起きても恐れることはないはずです。だけれど、僕の心臓は早鐘を打ちつづけます。何でもいいから救ってくださいと。
怪物が突然、どうっと身体を横たえて苦しみ悶え始めました。僕は怪物の足から逃れることが安堵感よりも、得体のしれない恐怖に心臓をわしづかみにされます。
光の中に裸足の女性が舞い降りたのです。
腰まである長い金髪と、燃えるような赤い瞳。その瞳はぬれています。今しがた泣きはらしたかのような厚ぼったいまぶた。怪物は突然しゃべりました。
「お、おのれ女神め」
怪物は、重力に逆らうかのように立ち上がることに苦心していましたが、立ち上がるなり小走りに跳ねるように走って森の奥へ消えました。
一瞬のできごとです。困惑する僕をしり目に女神と呼ばれた金髪の女性は、聖女リア様の傍らに座り込みます。後頭部をかき抱いて、眠りにつけずにいる彼女の目を指で閉じさせます。
「リア。ごめんなさい」
リア様の銀髪の髪の上に女性の金髪が重なります。口づけでもしているように見える最後の別れは、とても荘厳に見えました。僕は胸が熱くなって、何か言葉をかけようとして、一言も発せられない自分を呪います。
「あ、あの。申し訳ございません」
やっと振り絞った言葉でさえ、酷く情けないものです。僕は羞恥心と、自己嫌悪で自身の顔を埋めたくなります。
「それ以上言わないで」
ぴしゃりと跳ねのけられました。僕は、彼女を失望させてしまいました。見当がつきます。この女性はおそらく、ほんものの女神ローザ様。
僕は、やがて意識を失いました。女神ローザ様を目にしたとたんに、気が緩んでしまいました。彼女の前で僕は醜態をさらしたのです。僕は、神官失格です……。
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