『長谷川ベーカリー』という看板を掲げている小さなパン屋は、 会社員の帰宅ラッシュが終わって一時の静寂を取り戻していた。
つまり客がいなくなって暇になった。
「閉店まであと1時間かぁ」
心愛はレジに立ちながら、時計を見て誰もいない店内にボソッと呟く。
時刻は20時を過ぎたところ、駅に近い所にあるためか、会社員の帰宅ラッシュの時はべらぼうに忙しくなる。特に17時〜19時。
空になったトレイを下げて、まだパンが残っているトレイを1箇所に固めて売り場の縮小をはかる。
同時に半額のPOPを用意してたてかければ、閉店間際の演出が終わる。
もうあと30分もすれば半額パンを求めてお客様が押し寄せる事だろう。
一息つこうかと思ったその時、ベルが揺れてお客様の来店を告げ知らせる。心愛は条件反射で笑顔を浮かべながら「いらっしゃいませ」と招き入れた。
招き入れてすぐ、そのお客の顔を見て絶句してしまう。
それは数時間前、理沙と美希が躓かせて罵ったあの男子生徒だったのだ。杖をついていたからもしやと思って少し観察したらまさにその人だった。
さっきの事を責めに来たのかと身構えたが、当の男の子は杖をついてない方の手でトレイとトングを取り、店内を物色し始めた。
「お? 半額かぁ……いい時にきたなあ」
どうも心愛には気付いていないらしい。ここは大人しくしてやり過ごす事にしよう。そう思ってレジに引っ込む。
「あの、良ければパンを取りましょうか?」
大人しくしようと思っていたのに、店員としてのプライドが接客を優先させてしまった。
「ほんとに? ありがとう!」
彼は無邪気に微笑んだ。その微笑みを見て胸がチクリと痛むのを感じるのだった。
「家族のも買うんだけど、母さんは和風なのが好きだから餡子系のパンはあるかな?」
「……じゃあこの抹茶餡の入ったメロンパンはどうでしょう?」
「いいね、それ一つ。あと姉さんが好きそうなスイーツ系……そこの苺タルトを一つと、父さんにはそこのフランクを」
「はい」
男の子が指定していくパンを慣れた手つきでひょいひょいと掴んでいく。客の中にはトングでパンを潰してしまう人がいるのだが、パンどころか表面の皮すら凹ませずに掴んでいた。
「最後に、自分用に塩コッペパンを6個!」
「はい……えっ6個も!?」
「どうかしたんです?」
「いえ、すみません……なんでもないです。塩コッペパン好きなんですか?」
「好きじゃないですよ……愛してます!!」
なんて男らしい発言。心愛は戸惑いを隠しきれない。
「ははは……そう」
その後会計を始める。全品半額なので数に比べて値段はとても低い。
「お会計、543円になります……1000円からお預かりします」
釣り銭を取り、レジ向こうの彼へと手渡す。
「パン取ってくれてありがとうございます」
お釣りを渡すとそんな言葉が返ってきた。
呆気に取られてポカンと間抜けな表情をしてしまい、同時に良心の呵責が大きくなって胸が苦しくなる。
故に、心愛は店を出ようとするその背中へ。
「さっきはごめんなさい!」
と謝っていた。そして、今度は彼の方が呆気に取られる。
「へ? 僕知らない内に何かされてたの?」
「え〜と、学校で、その転ばされたじゃん? あの時あたしもそこにいてさ」
「ああ、あれ。恥ずかしい所見られちゃったな」
心愛は「うううん」と頭を横に振って否定の意を見せる。
「あんたを転ばしたの、あたしの友達……というか、まあよくつるんでる人でさ。本当なら止めるところなのに、怖くて黙ってた」
美希と理沙の事を何故だか素直に友達とは言えなかった。
「だからごめんなさいなのか、別にいいよ気にしなくても」
「そうは言っても……気になるっていうかさ」
「へぇ、君は……優しい人だね」
「うぇっ! ちょっ、やめてよ恥ずかしい!」
突然の事で流石に狼狽えてしまう。心愛は慣れない異性からの褒め言葉に心弾ませ、嬉しさと羞恥に身悶えてしまう。当然それは顔にも現れて、頬を赤く染めていた。
「それじゃこれで。僕は特別クラスの上原宇佐美って言うんだ。学校で会ったらよろしくパン屋さん」
そう言って宇佐美はドアを開けて外へと出ていく。
「いや名乗るならせめてあたしの名前聞いてけよ! ……って行っちゃったか」
再び店に静かな時が流れる。今となっては物寂しい。
店長がきたのは3分も経ってない頃で、顔を見せて早々「何か楽しい事でもあったのかね?」と尋ねてきた。
どうやらその時の心愛はいつもと違って目元や口元が緩んでいたらしい。普段の自分はどれだけ無愛想なのかと思った。
そして、宇佐美との最後のやり取りが楽しかったという事にも気付いた。
(そっか、楽しかったのか)
その日はとても気分が良く、家に帰ってからもそれは続いたようだ。
シャワーを浴びてさっぱりとし、いつものようにネットサーフィンをしてから布団に入ってふと考える。
「友達……なれたら楽しいかな」
特定の誰かと友達になりたいと考えたのは、生まれて初めての事だった。
翌日。私立洛錬高校の昇降口にて、九重祭とクイゾウは立ち尽くしていた。
通り過ぎる生徒が何事かと覗いていくが、理由を知るとギョッと驚いた顔をしてそそくさと去って行く。
「転校2日目にこれっすか、お嬢流石っすね」
祭の下駄箱、まだ新しい上履きの入った箱には、おおよそあってはならない物が入っていた。
もとい、物になってしまった生物が入っていた。
「この猫、もう死んでるっすね」
上履きの上にのしかかるように、茶色の毛並みをした猫、おそらくは老猫がぐったりと目覚めぬ眠りについていた。
しかもどうやらナイフか何かで刺されたようで、首から血が滴っている。祭の下駄箱が最下段でなければもっと被害が大きくなっていたことだろう。
「めんどくせぇ〜」
祭の嘆きは朝の昇降口のざわめきに掻き消される。
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