滋賀県彦根市、彦根城で有名なこの街の片隅に小さな喫茶店がある。夜八時からバータイムへ移行するこの店に一人の客が来店してきた。
紺色のスーツに身を包んだ痩身の青年である。
「あらあっちゃんじゃないの、バータイムにはまだ早いわよ」
三十路半ばのマスターが応対する。自他共に認めるオネェの彼は手馴れた作業で水の入ったグラスをカウンター席に置く。
同時に青年がその席に座った。ここは彼の定位置なのだ。
「わかっている。今日はコーヒーを飲みにきた。キリマンジャロを頼む」
「最近エスプレッソも導入してみたのだけどどうかしら」
「ならエスプレッソで頼む」
マスターは最早無意識で動かせるほど馴染んだ動きで、焙煎された豆をポンプ式エスプレッソマシンに入れてレバーを引く。
程なくして内部の気圧によって抽出されたコーヒーがカップに注がれていく。
「はい、キリマンジャロ」
「あぁ」
優雅な仕草でカップを手に取り、香りを少し嗅いでから少しだけ啜る。
「エスプレッソを始めたばかりにしては中々美味いじゃないか」
「光栄だわ」
しばらく青年がコーヒーを楽しむ、その間にマスターは他に来ていた客の会計を済ませてカウンターに戻る。
今のでお客は青年だけになり、マスターは一度外にでてOPENの看板をCLOSEに変えておいた。三時間の休憩を挟んだ後、この喫茶店はバータイムに切り替わる。
「で、どうしたのよ。わざわざ休憩時間を狙ってくるなんて」
「お嬢からショートメールが来た」
「あら祭ちゃんから? 懐かしいわね。なんてきたの?」
「チームを作るから入らないかだそうだ」
「あら、血は争えないのねぇ。あっちゃんはそれを聞いてどうするの?」
「最初はお嬢の頼みならと受けようと思ったんだが」
「どうしたのよ?」
「メールに現メンバーと機体の画像が貼りつけてあってな」
「ふむ」
「そこにあったんだ、ハミルトンが」
「……!? そう、あの機体が」
「あの忌々しい機体をまだ使うつもりらしい」
ギリッと青年は強く歯噛みする。瞳からは憎悪ないし怒りが溢れており隠そうともしなかった。
マスターはそんな青年を背中越しに憐れんでいた。
「やはり親子なのね。どうするの?」
「ひとまず会ってくる。お前に預けている機体を持っていくから業者に頼んで運んでおいて欲しい」
「いいわ、それならあたしも一緒に行く事にするわね」
「なんだと?」
「単純に祭ちゃんが作ったチームに興味あるのよ」
ふと、マスターはカウンターの端に置いてある写真に目を止めた。在りし日の思い出を切り取った写真には、まだ現役ラフトボーラーだった頃の青年とマスター、そして朗らかな笑みを浮かべる男性と彼の腕に笑顔でしがみつく少女が映っていた。
四日後、週末となり学校も休みなのでインビクタスアムトのメンバーは早朝から練習に励んでいた。
「ほらほら、あと三キロメートルだよ!」
インビクタスアムトのフィールド外周を走るだけの簡単なランニング。十キロも走るため普段から走り慣れていないメンバーは五キロを超えた辺りから横腹を抱えて死にかけていた。
「ぐへぇ、はぁ……はぁ、あかん、走るの久しぶりすぎて死ぬ」
「あっし……げぇ……足が」
「ははは! やはり下等市民はなってないですね!」
最早煽ってくる漣理にすらツッコミをいれる元気もない。尚漣理は二週遅れである。
「心愛ちゃん頑張って、息は全て吐き出すようにすると横っ腹は痛くならないよ」
「う、うん」
武尊と炉々の前方では、須美子が心愛を励ましながら走っていた。須美子は巨体の割に走るペースは常に一定であり、速度こそ遅いものの息切れもペースダウンも起こしていない。
「皆、あと少しだから頑張って」
瑠衣は三十分くらいで完走しており、その後は自主的に最後尾について走り方のレクチャーをしたりしている。実質十キロ以上を走っているのだが、瑠衣の顔には汗が浮かんでても苦しそうな表情は無かった。
「ゴール! ふぅ、記録は……五十五分か」
「我、ぜはぁ! はぁ、はぁ……風にみ、みち」
「せめて息を整えてからにしたらいいのに」
澄雨と涼一がたった今ゴールしたようだ。澄雨は涼し気な顔をしているが、その実歩くのが嫌と思うほど疲弊している。涼一の方は疲れてる事を隠そうとせずその場で大の字に寝転がって沈黙してしまった。
祭はまだ走っている。ペースは大分落ちているがまだ走れそうだ。クイゾウ……もとい奏の方は三キロ走った所でダウンした。
「三八……三九……四十」
少し休んでから澄雨はフィールドからでて事務棟に向かった。そこでは宇佐美が筋トレしていたのだ。
走る事のできない彼はここで筋トレに励むよりなかったのだろう。
「お疲れ様です宇佐美先輩」
「澄雨ちゃんもお疲れ様、早いね」
宇佐美はぶら下がっていた懸垂棒から手を離して着地する。近くに掛けていたタオルで汗を拭きながら澄雨が来るのを待った。
Tシャツ一枚の上半身は思いの外逞しく、筋肉も引き締まってて細マッチョという言葉が似合っていた。
澄雨はそんな宇佐美の姿に不覚にも胸を高鳴らして頬を紅潮させ、次に何を言おうとしたのか忘れてしまっていた。
「意外といい身体してますよね、ちょっとドキッとしました」
若干声が引き攣っていたのは仕方ない。
「ふふん、これでも結構鍛えてるんだよ。まあ右足は全然だけどね」
ポンポンと右足を叩いてそこだけ筋力が衰えている事を示した。膝が自力で曲がらないのだから鍛えようがないだろう。
「そう言えば今日だったよね」
「え、あぁ。確か夕方ぐらいですね」
本日は新しいメンバーになるかもしれない人が来るのだ。なんでも祭の古い知り合いらしいが、それ以上は何も聞かされていない。
「うわあああああ私も宇佐美と話したいよぉ!」
「心愛ちゃん凄い! ペースが上がってるよ!」
遠くで宇佐美と澄雨が仲良くしてる所を見た心愛が、嫉妬の炎を燃え上がらせてペースを上げ、自己ベストを大きく更新した。
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