約百五十年前のアメリカ合衆国のとある町。
街路樹たちもすっかりと葉を落とし、吹き抜ける風はしっかりと冷たくなった頃。
全寮制の名門女学校「聖ブリンクリー学園」の七年生、クララ・ロバートソンは、校舎とは別棟にある音楽室で来月開催されるピアノコンクールの練習をしていた。
曲名はショパンのエチュード『Op.10- 12』、通称『革命』。
作曲者のショパンは、祖国ワルシャワで革命軍がロシア軍によって鎮圧されたという知らせを受けて、やり場のない怒りや絶望を込めたというこの曲。まるで、ピアノを攻撃するかのように情熱的で激しく、幼いクララにとっては難しい課題だった。
いつの間にか窓から差し込む夕日は、クララの横顔を赤く染めていた。授業が終わってすぐに音楽室に来たので、かれこれ三時間は練習している。
西日の差している所以外、暗くなっていることにも気がつかないくらい熱中していたようだ。
もう少しだけ練習して自室に戻ろうかと思ったその時、誰かが音楽室の扉をカラカラと開けた。クララは友人が様子を見にきたのだろうと思い、演奏の手を止め、グランドピアノからぴょこんと頭を出すと――
「ひぇっ⁉︎」
クララは思わず変な悲鳴を上げた。
扉を開けて中に入ってきたのはクララの知っている友人などではなかった。
――えっ! な、何あれ!
人の形をしたソレは、体の肉が全て削げ落ちていて、その肉を支えていた白い芯が剥き出しになっている。よく見るとヒビやかけが目立ち、特に前歯は酷くほとんどな くなっていた。身にはピンク色のドレスをまとっているが、どうやったらそこまでボロボロになるのだろうと思うほど生地は破れ、ところどころ穴が空いている。見た目からも明らかに腐臭を放っているのだろう。その臭いがまるで目に見えるようだった。そしてソレは、眼球無き眼でクララを捉えると、ゆっくりこちらに近づいてきた。
――カシャン。
――カシャン。
骨同士が擦れているのか、その見た目とは裏腹に、随分と軽い音が聞こえる。しかし、その音は止まることなく、一歩、また一歩とクララに近づいてくる。
額から冷や汗が吹き出し、雫が頬を伝う。音楽室の室温が一気に下がったように感じた。クララの心臓はドクンドクンと大きく警鐘を響かせている。
――なななな、なんで、音楽室にお化けが!
理由はどうあれ、逃げだそうにも出口はひとつしかない。今、こちらに近づいてくるお化けが入ってきた扉のみ。しかし、クララの足はガクガクと振るえ、すくんでいる。
ゴクリと生唾を飲み込んだ。
――こ、こんなところで、死んでたまるか!
クララは目を閉じると、パチンと自分の頬を叩き気合いを入れた。
近づいていたお化けはその音にびっくりしたのか、一瞬だけ足を止めた。
――チャンス!
クララはガバっとしゃがみ、ピアノの下に潜り込むと、そのまま下を通り抜けて扉まで走った。そして、扉を抜けて勢いよく廊下に出る。しかし、残念なことに勢い余って転倒してしまった。
「いたたた…… 」
ぶつけた膝をさする。血は出てなかったが白い肌が赤くなっていた。その姿勢のまま後ろを振り返り見る。扉の向こう側からカシャンカシャンと音が聞こえた。
「ひっぃい‼︎」
クララは慌てて立ち上がり、廊下を全速力で駆け抜けた。
『廊下は走っちゃいけません!』
なんて、毎度毎度口癖のように言っているブーン先生の顔が脳裏に浮かんだ。しかし、今は緊急事態。ぶんぶんと頭を振って想像を掻き消し、寮棟の入口付近にあるクラスメイトのレベッカの部屋に飛び込んだ。そして、そのままベッドの中に潜り込む。すると、先客がいたのか、ふにっと二つの柔らかいものに顔が挟まれた。
「……んっ、な、なに?」
柔らかいものが喋った。
顔を上げると、レベッカが下を覗き込むようにこちらを見ている。
クララはそういえば、とレベッカが風邪をひいて今日の授業を休んでいたことを思い出した。
「って、誰‼︎」
「しっ!」
慌ててレベッカの口に手を当て布団の中に引きずり込む。
レベッカはモゴモゴと何か言いながら手を振りほどこうとして暴れている。
「レベッカごめん! ちょっと静かにして」
クララの声が耳に届いたのか、レベッカは暴れるのをやめ、大人しくなった。
「体調悪いところ押しかけて本当にごめん」
レベッカの口元から手を離し、クララは声を押し殺して話しかけた。
「なんだぁ、クララか。強姦にされるかと思ってびっくりしちゃったよー」
「さすがに寮内でそれはないでしょ! ってそれどころじゃなくて―― 」
危うく大きい声を出しそうになったが、すぐに声量を落とす。
「どうしたの?」
心配そうなレベッカの声を聞いて、クララはなぜ自分がお化けに追われているのかわからないことに気がついた。
「大丈夫?」
急に黙り込んだクララを心配してか、レベッカにポンポンと頭を撫でられる。
「大丈夫……ではないんだけど、自分でも今の状況がよくわからなくて」
「そっか。じゃ、ギュッて抱きしめれば少し落ち着くかな?」
レベッカがそう言うと、クララは先ほどと同じ柔らかい感触に包まれた。
とくんとくんと彼女の心臓の音が聞こえる。
――暖かい。
クララが目を閉じかけたその時、再び骨が擦れる音が遠くから聞こえた。
「なんの音?」
レベッカは不思議に思ったのか、クララを抱きしめていた手を緩め、もぞもぞと布団から顔を出そうとした。
「あっ! レベッカ、駄目ー!」
そう叫んだ瞬間、クララは何者かに髪を掴まれベッドから無理矢理引っ張り出された。
「い、痛い、痛いっ‼︎」
ベッドの下に転がり、髪の毛を抑えながら叫ぶ。すると、引っ張られていた髪からパッと力が抜けた。クララはその隙にベッドに戻り、枕を手に取ってそれを盾にするようにして顔を隠し、片手をブンブンとがむしゃらに振り回した。
「くるなー! あっちに行けー‼︎」
しばらく手を振り回していたが、何かが当たる感触はない。距離をとっているのか、それとも諦めて退散してくれたのか。後者であって欲しいと願いながら、クララは手を止め、枕越しにそっと部屋を見渡した。
――あれ? なにも、いない⁉︎
キョロキョロと辺りを見回すが、お化けの気配は見当たらない。
ふぅと息を吐き肩を落とす。
ふと隣に目をやると、レベッカが布団を被りながら震えていた。
「ごめん、レベッカ……。え、えっと…… 」
なんて言えばいいのだろうか。なぜ追いかけ回されていたのか自分自身も理解していないというのに……
「ね、ねぇ。い、今のなに?」
丸くなった大きな布団の塊は言った。
「ごめん。私もよくわからないんだ……音楽室でピアノの練習してたら急に入ってきて、追いかけてきたの」
頭をポリポリと掻きながら、クララは微笑をうかべる。
レベッカは布団からボンっと顔だけを出して言った。
「そ、そっか。でも、聖ブリンクリー学園にお化けが出るなんて聞いた事……あっ!」
「ん? どうしたのレベッカ?」
ゾウガメのような格好のレベッカは宙を見つめ、何かを思い出そうとしていた。
「そう言えば、前にブリンクリー会長のお化けが出たって話を聞いた気がして…… 」
「ブリンクリー会長って?」
「えっ? クララ知らないの⁉︎ ここの学校作った人だよ!」
「あー……入学の時にパンフレットで見たような見なかったような…… 」
「呆れた。一番最初のページに載ってるじゃん」
「てへへ……ピアノのこと以外はあんまり興味なくて。って、そうだ! とりあえずみんなのところに行って、この事報告した方が良くない?」
「えっ! あ、うん…… 」
レベッカは俯き、どこか力なく頷いた。
「あっ、そうか。レベッカ、体調悪かったんだっけ。じゃあ、私一人で行ってくるからゆっくり休んでて!」
「えっ! クララ、ちょ、ちょっと待って! さっきまでお化けがいた部屋に一人きりにされるのは…… 」
その言葉にクララは一瞬戸惑うも、すぐにニコリと微笑み言った。
「そうだね。じゃ、とりあえず下の談話室にみんな溜まってるだろうから、行ってみようか」
「……う、うん」
二人はベッドから出ると、周りを警戒しながら静かに部屋を後にして、一階にある談話室へと向かった。
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