その日の夕方。
クララが階段を降りて食堂におやつをくすねに行こうと思ったところ、玄関のドアが開いた。丁度、父親が帰宅したところだった。
「おかえりなさい、パ…… 」
声をかけようとして固まった。
隣にクララの知らない女の人がいたのだ。
――まさか……
「ただいま、クララ。ちょっと紹介し…… 」
「いやー‼︎」
その場から逃げ出すように階段を駆け上がる。
クララの後ろでなにか声が聞こえたが、構わず部屋に入ってベッドに潜り込んだ。
――パパのバカ。パパのバカ。パパのバカ。
仕事で出かけていたと思っていたら、女の人とデートをしていたのだ。しかも、クララの知らない人。
今日、家に連れて来たのも、クララに会わせるためだろう。
――パパはママのこと、もう愛してないんだ……
クララは母親のことも大好きだった。
亡くなってから大分経つが、いまだに寂しくて涙を流す時がある。
そして、母親はピアノが大好きな人だった。特にベートーヴェンがお気に入りで、ピアノソナタ第二十三番「熱情」をよく弾いていたのを覚えている。もちろん、クララがピアノを始めたきっかけは母親の影響だ。彼女が楽しそうに演奏しているところを間近で見ていて、いつか自分もこんなふうに弾けるようになりたいと憧れていた。
コンコンと乾いた音が室内に響く。
クララは布団から顔だけ出して、音のした方を睨みつけた。
「クララ。突然ですまないね。パパの友人を紹介しようと思ってたんだ。下におりてきてくれるかな」
いつものように、クララのことを心配する父親の優しい声が扉越しに聞こえる。
「嫌。行かない」
「そうか。クララのためにわざわざ足を運んでもらったんだけど、今日は都合が悪いと伝えておくよ」
クララは不思議に思った。
父親は「クララのため」と言っているが、自分の交際相手が新しい母親になって、結果、「クララのため」ということなのか。そんなのはクララのためではない。自分のエゴを押し付けられても困る。
そんなことを考えていると、ガチャリと扉が開いて父親が部屋に入ってきた。
「クララ――何をしてるんだい?」
布団を被り、芋虫のように顔だけ出していたクララの姿を見て不思議に思ったのか、父親は言った。
「パパなんか嫌い!」
不貞腐れ「ふん」とそっぽをむく。
「ク、クララ?」
「パパのことなんか知らない!」
「っ!」
相当ショックを受けたのか、父親はがくりとその場に膝から崩れ落ちた。
いくら父親のためと思っていても、クララはまだ新しい母親を受け入れる心構えができていない。ついつい口調も荒くなる。
「パパなんか嫌い……パパのことなんか知らない……パパなんか嫌い…… 」
白く灰のようになってブツブツと復唱する父親。
どうやら少し言いすぎたようだ。
もちろん、父親に非があるわけではないことはわかっている。しかし、新しい義母を迎えいれることで、クララの大好きな母親の存在が、役目を終えた花のように萎み枯れ、自身の記憶から色褪せてしまうのが怖かった。ただ、父親の気持ちを考えると、ずっと一人でいて欲しいとも思わない。いずれは新しい伴侶を持って、クララも一緒に仲良く暮らせたらとも思う。
落ち込む父親に、弁明するかのようにクララは言った。
「い、今はまだ……その……新しいお母様を受け入れることはできないけど、もう少し私が 大人になったら―― 」
そう、今はタイミングが悪いだけなのだ。
「えっ?」
おもむろに顔を上げて驚いた様子でクララを見る父親。
「クララ……何か勘違いをしているようだけど 」
そんな父親の反応を見てクララも混乱する。
「勘違い?」
一体どういうことだろうか。確かに父親は今お付き合いをしている女性をクララに紹介しようとしている。にも関わらず「勘違い」とは?
結婚するつもりはないということだろうか。それではあまりに彼女がかわいそうだ。父親に限ってないと思うが、遊びの女性であればクララに紹介するメリットはひとつもない。
「彼女は霊媒師の方だよ。クララの力になってくれるかと思ってお呼びしたんだ」
「れ、霊媒師?」
一気に肩の力がへにゃへにゃと抜けた。
どうやらクララの思い違いだったようだ。
「なにかわからないけど、ってクララ! 大丈夫かい?」
安心した反動で、思わず泣いてしまっていた。ポロポロと涙が溢れる。
父親がクララに歩み寄ると、クララは簀巻きになっていた布団から出て、彼に強く抱きついた。
「すまないね。なにか嫌な思いをさせてしまったみたいで」
父親の胸に顔を埋めながら首を振り言った。
「私が勘違いしただけなの。パパは悪くない……ごめんなさい、パパ」
再びぎゅっと強く抱きしめられる。
「パパはいつでもクララの味方だよ」
「うん」
ぽんぽんと優しく頭を撫でられた。
「よし、応接室でお客様がお待ちだから、準備ができたら下りておいで」
父親はニコリと優しく笑いながらそう言うと、クララを解放して部屋を出ていった。
クララは涙の跡を拭き、身だしなみを整えると、一階の応接室に向かった。
応接室ではテーブルを挟んで、父親と例の霊媒師の女性が話をしていた。
クララは部屋の中に入ると、父親の隣に行き、ソファーにそっと腰を下ろした。
「おまたせしました。うちの娘のクララです」
そう紹介され、父親と二人一緒にソファーから立ちあがる。向かいの女性も立ちあがると、ぺこりと会釈をされた。
「クララさん、こんにちは。霊媒師のヴァレンタインです」
「ク、クララです。よろしくお願いします」
少し緊張していたが、クララもぺこりと会釈を返す。
ヴァレンタインと紹介された女性は、父親よりも少し若く見えた。
ウエーブのかかったブロンドの長い髪を後ろで一本に束ね、ピシッと着こなしたチャコールグレーのスーツがいかにも仕事が出来そうに見えた。ジャケットの下に着ている白いブラウスは、ふたつの大きな塊を少し窮屈そうに包んでいる。クララは自分と見比べるように視線を落とした。
足元が実によく見える。
「さて、立っていてもしょうがないので、座ってゆっくり話しましょう」
父親がそう言うと、霊媒師の女性も再びソファーに腰を落とした。
クララは座りながらなんとなく女性の左手を見る。薬指にキラリと光る指輪が目に入った。
――結婚、しているのか。
それを確認して、僅かに燻っていた不安も消え、心が少し軽くなる。
「クララ。まず、ヴァレンタイン先生を呼んだ経緯を説明するね」
父親がクララの方を向いて言った。
そういえば、なぜクララがこの人に会わなければならないのか詳しいことは聞いていなかった。
「今回の聖ブリンクリー学園でのお化け騒動についてだけど、まずは、クララの言うリジーって子に詳しい話を聞ければと思っていたんだ。それで、霊媒師のヴァレンタイン先生に相談したところ、降霊術で呼んでみたらどうかって提案されてね。クララが今朝言ってた『先生には姿は見えなかったし声も聞こえなかった』が本当だとしたら、恐らくパパは見ることも話すこともできないだろうから…… 」
「うん」
「それに、リジーに色々とお願いしたいこともあってね」
「えっと……それは私が直接伝えるのじゃダメなことなの?」
「クララ」
ガシッと両肩を掴まれた。
「パパはクララのことは信じている。信じているからこそ心配なんだ」
ものすごく真剣な顔で真っ直ぐにクララを見つめる父親。
「あ、ありがとう、パパ。でも、大丈―― 」
「大丈夫じゃないんだ!」
急に大声を出されたのでびっくりしてしまった。ビクッと体が跳ねる。
「クララ、大丈夫じゃないんだよ。パパはお化けと付き合っては行けませんって言ってる訳じゃないんだ。ただ、クララの身に何かあってからでは遅いんだよ。それこそ天国にいるママに顔向けできなくなってしまう」
「で、でも…… 」
「いいかい。パパにとってクララはこの世のどんなものよりも大切なんだ。そのクララの友人がお化けだと言われれば、やはり心配せざるえない。でもね、クララの選んだ友達だから、きっ と大丈夫だとも思ってる」
「う、うん」
「ならば、一度でもいいからその友達に会って直接話が聞ければ、安心して学校に送り出せると思ったんだよ」
「うん……わかった」
クララを想う父親の葛藤。その答えは、リジーを自分の目で見極めるということだったようだ。
二人はヴァレンタイン先生の方に向き直ると、父親は改めてと彼女を紹介してくれた。
「ヴァレンタイン先生はこの町でも有名な霊媒師だよ。今日、彼女にはクララのカウンセリングで来てもらった」
「よ、よろしくお願いします」
「こちらこそ。では、さっそく本題に入りますね。まず、クララさんはどのようにリジーさんと知り合ったのですか?」
「えっと、私が音楽室でピアノの練習をしていて―― 」
それからしばらくはリジーのことについて色々と聞かれた。クララは知っている限りのことを話したが、古い切り株の下にデイビッドソン家の遺産が埋まっていることだけは言わなかった。リジーが殺された理由が遺産を巡って起こったことなので、子供ながらにその価値の大きさはわかっていたからだ。
――大人達が知ったらきっと……
下手をしたら、今度はクララが何者かに命を狙われかねない。もし、この情報を誰かと共有するのであれば、慎重にいかなければならなかった。
父親に言うべきか、それとも言わないべきか……
クララのカウンセリングが終わって、ヴァレンタイン先生と話をしている父親の横顔をちらっと見ると、ふと、クララは不思議に思った。
――あれ? そういえば、パパはリジーを見極めたいって言ってたけど、私の話を聞いてただけじゃない? リジーは学校だし、どうやって会うんだろう?
なにか考えがあるのだろうか。
熱心に話す二人の会話をなんとなく聞きながら、ヴァレンタイン先生の胸元に視線を落とす。身振り手振りの度にゆさゆさと揺れるそれは、もはや凶器だった。
「クララさんはリジーさんを呼ぶことはできるのかな?」
急に声をかけられたのでびっくりしてしまった。見ていたことがバレたのかと心臓がドキドキする。
「え、えっと、無理だと思います。リジーとは音楽室で会ってただけなので」
「なるほど。わかりました。と言うことはやはり降霊術しかなさそうね」
「降霊術?」
先ほども父親が言っていたが、クララはなんとなく聞き流していた。
「そう、降霊術です。対象の霊を呼び出して別の何かに憑依させ、その霊から話を聞くと言うものですね。基本的には霊が人の場合は、生きてる人間にそのまま降ろすことが一般的です」
「えっと、その生きてる人間って誰がやるんですか?」
「リジーさんとチャンネルが繋がっているクララさんが適任かと」
「えっ…… 」
クララは狼狽した。
リジーのことはもちろん好きだ。しかし「憑依」となると、なんか怖い。
「降霊術で憑依される人間のリスクはなんですか?」
間を割って、父親がヴァレンタイン先生に質問をした。
「リスクは、憑依されたまま自分に戻れなくなる可能性と、戻れたとして人格の異常をきたしてしまうかもしれないということです…… 」
「えっ! 戻れなくな―― 」
「だとしたらダメですね。娘が危険な目に遭うのなら、父親として容認できません」
ヴァレンタイン先生の言葉に唖然としていたクララを遮って、父親は言った。
「わかりました。では、メレディス校長のご要望を優先させましょう」
そう言うと、ヴァレンタイン先生は立ち上がり、荷物を持って立ち去ろうとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。メレディス校長の要望って…… 」
クララはなぜか嫌な予感がした。
「……一応確認しますが、クララさんにお教えしても大丈夫なのでしょうか?」
ヴァレンタイン先生はいささか困ったように父親に目線を向けて聞いていた。
「仕方ありません。元々は私のわがままでお願いしたことですから」
椅子に座ったまま頷き、はぁとため息を吐く父親。
荷物を置いて再び座り直すヴァレンタイン先生は、こほんと小さく咳払いをすると、静かな口調で喋りはじめた。
「まず、聖ブリンクリー学園にリジーさんが現れたこと。彼女の存在が周りに知れ渡り、世間を騒がせているのはご承知のとおりです。それによって臨時休校になっていることもおそらく先生から聞いていると思います」
「はい、休み前にブーン先生が言ってました」
「世間もなのですが、どちらかという生徒の親御さんの対応が大変だそうです。連日、問い合わせが殺到していて先生方もかなり疲弊してるとか。このままでは授業にならないと、やむをえず臨時休校を決めたそうです。しかし、それは一時しのぎであって解決にはなりません。そこで、メレディス校長が私にリジーさんを成仏させることはできないかと相談にきたのです」
「えっ! リジー、消されちゃうの‼︎」
突然のことに驚きすぎて、クララはガタンとソファーから立ち上がった。
父親はそんなクララを落ち着かせるようにしてソファーに座らせる。
「消せるかどうかは別として、メレディス校長に依頼されたのは事実です。それからすぐ、リジーさんのことを助けてあげて欲しいとクララさんのお父様がいらっしゃいました。私としても、霊の事を何も知らず、生きてる人間の一方的な事情を押し付けるのはなんとなく気が引けたので、こうやってクララさんから色々と話を伺って、どうするのが最善かを判断しようと思ったのです」
普段から霊に近い霊媒師だからこそ、リジーの気持ちを汲まずにいることが引っかかったのだろう。
強く見開かれた目は、まっすぐにクララを見つめている。
「ただ、彼女側の事情が分からないのであれば、怯えている人々の助けを選ぶのは必然かと思います」
「うー…… 」
態度は柔らかいものの、言葉の端々に威圧的なものを感じる。
クララは俯きながら、今にも泣き出しそうな気持ちになった。
すると「ぽん」と頭を叩かれた。顔を上げると、父親が優しく微笑んでいる。
「友達を助けるためにクララが犠牲になるかもしれないんだよ。さっきも言ったけど、パパは反対だ。でも、クララにとって大切な友達なんだろう?」
「……うん」
俯きながら頷く。
「後悔のないようにしなさい。クララの心のままに」
「うん」
クララは父親にぎゅっと優しく抱きしめられた。
――大丈夫。きっと大丈夫。
父親から離れ、ヴァレンタイン先生の方に向き直ると、覚悟を決めてクララは言った。
「降霊術やります。リジーを呼んでください!」
それを聞いて、少し驚いた様子のヴァレンタイン先生。しかし、すぐににこりと微笑むとぺこりと急に頭を下げた。
「試すようなことしてごめんなさいね。クララさんのリジーさんへの友情がどこまでかを見極めたかったの」
「えっ!」
あっけに取られるクララ。すると、父親が手を強く握った。
「すまない、クララ」
混乱して状況が掴めない。
なにがどういうことなのか。
「えっと…… 」
「分からないと思うので、簡単に話しますね」
そんなクララの様子を見て、ヴァレンタイン先生は説明をはじめた。
「まず、私たちはリジーさんを『悪霊』としてみてました。悪霊に憑かれたクララさんは、リジーさんの都合のよくなるように動いていると思っていたんです。でも、実際は取り憑かれていなかった。悪霊でないのであれば、メンフィス校長の依頼を無理に実行する必要もなくなります」
クララは肩の力が抜けた。
どうやら、リジーが無理矢理消されることがなくなったようだ。
「それと、クララさんが気にされてる『降霊術』の代償ですが、リジーさんがクララさんを信頼しているのであれば、心配しなくてもリスクはほとんどないと思って大丈夫ですよ。ただ、こればかりはやってみないとわからないので、確実に大丈夫とは言い切れませんが、私たちもリジーさんの納得いく形にできればと思ってます」
「よ、よかったぁ…… 」
安心して緊張の糸がぷつりと切れたのか、ポロポロと涙が溢れた。
「あ、あれ?」
「クララ、大丈夫かい?」
隣に座っている父親がおろおろしながらこちらを見ている。
「大丈夫。ちょっと力が抜けちゃった」
「クララさんにとって、リジーさんは大切なお友達なんですね」
微笑みながらヴァレンタイン先生は言った。
「はい!」
クララも笑顔で返す。
「リジーのこと、よろしくお願いします」
そして、うやうやしく頭を下げた。
「ありがとうございます。では、準備しましょうか」
ヴァレンタイン先生はそう言うと、バックから鉛筆と紙を取り出してクララに渡した。
「自動書記というものです。クララさんの体にリジーさんを降霊させて、こちらの質問に筆談で応じてもらう形になります」
ニコリと微笑むヴァレンタイン先生。
「では、お父様は外に出られて下さい。霊を刺激したくないので、私とクララさんの二人で降霊の儀式は行います」
「わかりました」
父親はそう言うと、ソファーから立ち上がって外に出ていった。
「では、準備しますね」
ヴァレンタイン先生はバックから香炉とマッチ、それと小さな箱を取り出した。その箱から三角形の塊を一つ手に取り、マッチでそれに火をつける。先端から白い煙がたゆたうと、香炉の蓋を開けて真ん中にそれを置き、かちゃりと蓋を閉めた。隙間から湧水のように煙がもわもわと湧き出ている。
なんの匂いだろうか。青臭くて、でも甘い。
「クララさん。リラックスしてください。体の力を抜いて、ゆっくりと息をしてください」
ヴァレンタイン先生の声に耳を傾けながら、ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと息を吐く。すると、段々と意識がぼんやりしてきて、いつの間にか……
「――ラさん、クララさん、起きてください。クララさん」
ペシペシと頬を軽く叩かれる。 微睡んだ意識が、いつの間にか眠ってしまっていた事を感じさせた。
「あ、あれ……私…… 」
「ありがとうございます。今日は無事に終わりましたよ」
ぴらっと紙を渡された。
『リジー・デイビッドソン 八歳』と大きく書かれている。そのほかにも、細々と何かが書かれているが、目がしょぼしょぼしていてよく見えない。
「えっと、これは?」
疑問に思いヴァレンタイン先生に聞くと、微笑を浮かべながら彼女は言った。
「降霊術でリジーさんがいらっしゃいました。色々と教えてくださいましたよ」
確かにそこに書かれている文字は明らかにクララのものではない。
クララは背筋に冷たいものを感じ、ぶるると震えた。
「長時間降霊術をすると、体への負担が大きいので今日はここまでにしましょう。結果はお父様にも伝えておきますね」
クララは自分が書いたであろう紙をヴァレンタイン先生に返すと、彼女は荷物を片付けはじめた。
――リジーが私の体を使って……
クララは混乱していた。友達を助けるためとはいえ、やはり怖いものは怖かった。今になってガタガタと体が震え始める。
「クララさん、大丈夫ですか?」
荷物を片付け終わったヴァレンタイン先生が、様子のおかしくなったクララを見て、心配そうに声をかけた。
「大丈夫です。ちょっとまだよくわからなくて…… 少し横になってます」
そのままソファーに体を預けると、少し気持ちが落ち着いたのか、段々と震えは収まってきた。
「今、お父様を呼んできますね」
ヴァレンタイン先生はそう言って早足で部屋を出ていく。
しばらくして、父親が慌てた様子で部屋に入ってきた。
「クララ、大丈夫か!」
父親はクララに駆け寄り、おでこに手を当てた。もう片方の手は自分のおでこに当てている。
「うん。熱はなさそうだ」
「風邪じゃないから!」
ついついツッコミを入れるクララ。
父親は微笑みながら言う。
「それだけ元気なら大丈夫だね。まだ顔が青いから、もう少しここで横になっていなさい。パパはヴァレンタイン先生を送ってくるから」
「パパ…… 」
上半身を起こして父親の袖をぎゅっと掴む。
「どうしたんだい?」
「…… 怖かった」
クララはきゅっと唇を噛んだ。気を抜いたら泣いてしまいそうだ。
「大丈夫だよ。パパがついてる」
覆い被さるようにして父親の体がクララを優しく包みこむ。それを合図にしてか、瞳の奥から湧き上がる涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「よく頑張ったね。本当によく頑張った」
父親の胸の中で喚くように泣いた。怖かった。本当に怖かった。
自分が書いた文字が、明らかに自分の字ではない。記憶にないということが、ここまで恐ろしいとは思わなかった。しかも、自分の体を動かしているのは、自分ではない他の存在。友達のリジーに体を貸しているとは言え、違和感は拭えない。
果たして次も無事にできるのだろうか。
――次?
「ねぇ、パパ。今日だけだよね。もうやらないよね」
顔を上げて不安そうに父親に聞いた。
「あぁ。クララが嫌ならやらなくていい」
優しく微笑みながら答える父親。
「もうやだ。怖いの無理」
父親の答えに少し安心したのか、不貞腐れながらクララは言う。
「わかった。今はもう少しここで休んでいなさい」
ぽんぽんと優しく頭を叩かれる。
クララは「うん」と頷くと、再びソファーに横になった。
「じゃあ、パパはヴァレンタイン先生を送っていくから、それまでここで大人しくしていなさい」
「うん。すぐ帰ってきてね」
「大丈夫。すぐに帰ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
父親が部屋から出ると、室内は静寂に包まれた。静かすぎて、先程までのことを考えたくないのに考えてしまう。
ヴァレンタイン先生は「今日は―― 」と言っていた。クララが次もあると思ったのは、そんな彼女の言葉が引っかかっていたからだろう。
――そうだ! リジーに直接会って話を聞こう。
そもそも降霊術なんかしなくても、学校でならリジーと話ができる。それをそのままヴァレンタイン先生や父親に伝えればいい。
名案だと思い気持ちが落ち着いたのか、目を閉じると同時に意識がゆっくりと微睡んでいった。
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