翌日、クララは昨日の不可思議な出来事を考えすぎて一睡もできないでいた。
体は重たいし、何よりも眠たい。おかげさまで、授業中はあくびをしっぱなしの先生に注意されっぱなし――後者に関してはいつもののことだったが……
授業が終わると、クララは音楽室に向かった。昨日の件を気にしていないわけではないが、一日でも練習を休んでしまう方がクララにとって度し難いことなのだ。
音楽室に到着し、恐る恐る中に入る。待ち伏せしてるはずはないと思ってはいても、やはり怖いものは怖い。教室全体を見渡すが、案の定誰もいないようだ。
ほっと安堵の息を漏らし、ピアノの前に座って準備をはじめる。すると、ガタンと部屋の隅で音がした。思わずビクッと肩が跳ねる。
「にゃぁー」
並べられた机の下から、ひょこっと黒猫が姿を現した。
「もうー。びっくりさせないでよ」
黒猫はぴょんとピアノの上に飛び乗ると、クララの目の前で丸くなった。
この子は寮棟で飼っている猫のJJ。飼っているとは言っても外で放し飼いなため、ご飯の時に寮に戻ってくる程度で、普段はどこで何をしているのかわからない神出鬼没の黒猫様。
JJがふぁーと大きなあくびをすると、つられてクララもあくびが出た。
「ダメだよJJ、勝手に音楽室に入ってきちゃ。先生達にバレたら追い出されちゃうよ」
JJの頭を撫でながらクララは言った。気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。
「猫は気楽で良いねぇ」
ついつい優しい笑みが溢れる。それに、もふもふしていて気持ちいい。
「おっと、JJに構ってる暇はないんだった。練習、練習!」
JJから鍵盤に手を戻す。
「ピンッ!」と白鍵を叩くと、JJの耳がピピッと動いた。
今日はフェリックス・メンデルスゾーンの『歌の翼に』から。
ハインリヒ・ハイネの『歌の本』から生まれた歌曲で、『六つの歌』の中の一曲。明るく流れるメロディはインドへの憧れを描いていると言う。
優しい旋律がクララの心にスーと沁みていく。
――JJが歌ってくれてもいいんだけどなぁ。
そんなできもしないことを思いながら音符の波を乗りこなしていると、JJがおもむろに立ち上がった。クララは演奏の手を止める。
「どうしたのJJ?」
JJは眼を大きく見開き、入口を見たまま微動だにしない。ジーと何かを見つめている。
しばらくして、ピアノから床にストンと降りると、スタスタと扉に向かって歩き出した。
「本当に猫は気楽で良いねぇ」
クララがJJの背中に投げるように言葉を放つと、僅かに耳がピクッと動いた気がした。
練習が終わると、辺りはいつのまにか暗くなっていた。 どうやら熱中しすぎてしまったようだ。
クララは急いで片付けをして寮棟に戻り、着替え て夕食を食べてお風呂に入って――気がついたらいつの間にかベッドでぐっすりと眠っていた。
そして翌朝。
すっきりとした目覚めに、すこぶる快調な体。今ならば、跳び箱だって側方倒立回転跳びができそうだ。それはさておき、珍しく時間に余裕があるので、ゆっくりと準備してゆっくりと部屋を出た。
一階から別棟につながる廊下を歩いていると、遠くの方にJJが歩いてるのが見えた。
「JJ~」
試しに名前を呼んで手を振ってみる。
JJは一瞬だけ足を止めてチラリとこちらを見ると、すぐにスタスタとどこかに行ってしまった。
「なんだよ、薄情者め」
クララはひとりごちる。
そして、そのまま別棟を抜けて本科棟の自分のクラスに向かった。
放課後、今日も音楽室に向かう。
ただ、昨日と違うのは、友人二人と一緒だった。
三人でおしゃべりしながら音楽室に入る。ついこの間のことなんて露ほども気にしていない。というよりも、クララは既に忘れていた。
いつものように準備をして、ピアノの前に座る。
友人二人はピアノの近くの机にどかっと腰掛けた。
――さてと、今日は何を弾こうかな。
「ねぇねぇ、クララ。ベートーヴェン弾いてよ。ベートーヴェン」
友人Aことモイラが言った。
「私も聴きたい! バッハ!」
友人Bことシェリーが言う。
「お前ら適当に言ってるだろ! 全く!」
クララはふぅと大きくため息をついて、ガサガサとバックから譜面を探し、適当に引き抜いた。
「えーっと……あった! ……マジか」
出てきた譜面はベートーヴェンのピアノソナタ十四番『幻想曲のソナタ』。
全部で三楽章からなるこの曲はコンクール用ではないが、練習用として譜面ケースに入れていた。
クララ自身も完璧には弾きこなせないちょっと難しい曲。しかし、「ここで引いたら女が 廃る!」と、訳のわからない自分ルールの発動により、顔を顰めながら譜面を目の前に広げた。
大きく深呼吸をして指先に集中する。
まずは、どんよりと雲がかかっていて今にも雨が降り出しそうな本日の天気に妙にハマってしまう第一楽章から。
『できる限り繊細に』
譜面の指示通り、ゆっくりと丁寧に三連符を弾く。そして、休みを置かず第二楽章へ。
シンコペーションを多用した第二楽章は、第一楽章とは打っ て変わって明るく躍動感あふれるリズムが特徴的。
クララは第一楽章の厳かな雰囲気も嫌いではないが、やはり、第二楽章のように軽快な方が気分がスッキリして好きだった。
興に乗ったのが自分でもわかって、ついついテンポが早くなる。
最後に、荒々しく心を爆発させたかのような第三楽章。
難易度が高く、今までミスタッチなしで弾けたことは一度もない。
――集中。集中。
第三楽章も中盤に入ると、急に音楽室の空気がピーンと張り詰めた。
カラカラと静かに入口が開く。
押し寄せる音符の荒波に、必死に食らいつこうと譜面を凝視するクララ。
机の上に座りながら、足をプラプラさせてそれを聴いてるモイラとシェリー。
入口からこちらにゆっくりと近づいてくる得体の知れないモノ。
最後の音をポーンと奏で、クララはふうと一息つく。
友人二人はパチパチパチとクララに拍手を贈る。
「ありがと……っ!」
二人の方を向き、お礼を言おうと思った瞬間、クララの視界に得体の知れないモノが映った。
ソレはついこの間、クララを追いかけてきたお化けだった。
「うわー!」
余りに突然のことに大きな声で叫び、ガタンと椅子から飛び退いたクララ。
モイラとシェリーは何事かと横を振り向くと、クララと同じように叫び声を上げた。
「「きゃー!」」
二人はクララの後ろに逃げるように隠れた。そして、クララを盾にしてグイグイと前に押し出してくる。
「えっ! ちょ、ちょっと待って二人とも! なんで押すの‼︎」
クララは後ろの二人に顔だけを向けて抗議した。
「ほ、ほら、いつもみたいにバシッとやっつけちゃってよ!」
モイラが言う。
「い、いつもってなに⁉︎ いつから私は格闘キャラみたいになったの⁉︎ ちょ、ちょっと、ねぇ!」
「なんかさっきの曲強そうだったし、きっと大丈夫だよ」
シェリーも言う。
「いや、曲が強そうとか本当に意味がわからないんだけど!」
すると、急に押していた力がふっと弱まった。
二人はなぜかニコッと笑うと、ぴゅーと風のように立ち去っていった。
「いやちょっと! どこ行く…… 」
いつの間にかお化けに背を向けていたクララ。ガシッと肩を掴まれる。恐怖で全身に電気が走り、感電したかのように動けなくなった。
――ヤバい! 死ぬ!
お化けは掴んでいた手を肩から離すと、クララの前に回ってじっと顔を見つめた。
饐えた土のような臭いが鼻を刺激する。
恐怖でなのか、刺激臭でなのか、目からは涙がこぼれ落ちた。
思考が停止しかけ、プツンと何かが切れそうになる。
『ねぇねぇ、もう一度、ピアノ弾いてくれない?』
頭の中に誰かの声が響く。
「ひょぇっ‼︎」
びっくりして変な声を出してしまった。
しかし、おかげで少し心が持ち直した。
――足は……動く!
くるりと踵を返し、出口に向かって走りだす。
廊下に出るときに勢い余って壁にぶつかりよろけたが、そのまま足を止めずに寮棟に向かう。
寮棟に着いて階段を三階から一気に一階まで駆け下りようとして、二階の踊り場でジャッキー・ブーン先生と鉢合わせた。
先に逃げた薄情者の友人、モイラとシェリーも一緒にいた。
「ロバートソンさん。廊下は走っちゃいけませんって何度も言ってるでしょ!」
「ブーン先生! すみません……でもここ、廊下じゃなくて階段ですよ。って、そんなことより、お化け! お化けが‼︎」
「屁理屈言わないの! 全く、さっきもこの二人にぶつかられて階段から落ちそうになったんですからね!」
ブーン先生は怒りっぽいうえに今もかなり機嫌が悪そうだった。
だから今も嫁のもらい手が――おっと!
その後ろでモイラとシェリーが真っ青な顔でぶるぶ ると震えている。
先生は肩で大きく息を吐くと、クララ達に向かって言った。
「とりあえず三人とも落ち着いて。お化けなんかいない。以上!」
「いや、いたんですよ先生! ピンクのドレスを着た骸骨が!」
「い、な、い、ん、です!」
クララの言葉はブーン先生に強く否定された。
――とりあえず、顔が怖いし近い……
「い、いや、でも…… 」
「デモもストもないんです。いません‼︎」
なぜブーン先生はこんなにも否定するのだろうか。
「わ、わかました。じゃあ先生、一緒に確認しにきてもらっていいですか?」
「えっ⁉︎」
突然のクララの提案に、びっくりするブーン先生。
ぱくぱくと口を開き、目が魚のように泳ぎだした。
――もしかして。
「いや、そ、それはちょっと……いないものを確認する必要は―― 」
「先生! 私たちからもお願いします!」
目に涙を溜めながら、モイラとシェリーが後ろからブーン先生にしがみついた。
「こ、こら! あなたたち、離しなさい‼︎」
二人を引き剥がそうと踵を返したブーン先生に、クララは間髪いれずに言った。
「ブーン先生がお化けのこと苦手だとは知らなかったです」
「なっ‼︎」
勢いよく振り返ったブーン先生と再び目が合う。
――やっぱり。
「な、何を言ってるの、ロバートソンさん。先生に怖いものなんてありません!」
先程同様、ブーン先生の目は右へ左へよく泳ぐ。
「あっ、わかりました! 私、音楽室に忘れ物しちゃったんですが、さっき足を挫いちゃって一人で行けそうにないんです。先生に連れ添ってもらえると助かるんですけど…… 」
クララは上目遣いでブーン先生を見つめた。
「なっ、何を言って―― 」
「せ、先生。私たちからもお願いです!」
「お願いします!」
たじろぐブーン先生に、モイラとシェリーも涙目で懇願している。
「はぁ……わかりました。ただし! 荷物をとったらさっさと自分の部屋に戻りなさい」
ブーン先生は根負けしたのか、大きく溜息をつき言った。
「良かったぁー」
安堵の息を漏らすモイラとシェリー。
そして、ブーン先生を新たに仲間に加え、四人はお化けが待つ音楽室に向かった。
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