翌日、クララは授業が終わるとすぐに音楽室に向かった。練習はもちろんのこと、リジーが待っているからだ。
自然とハミングがでる。
音楽室の扉を静かに開け、部屋の中を確認すると、リジーがグランドピアノの前に座っていた。両腕手を鍵盤蓋に置いて、そのまま頭を乗せている。どうやら眠っているようだ。
物音を立てないように抜き足差し足で近づく。後ろから、リジーの横顔をまじまじと覗き込む。雪のように白い肌。サラサラとしたきれいな金色の髪の毛。
リジーはすーすーと規則正しい寝息をたてている。
クララはリジーの横に静かに座り、髪の毛から覗く小さな耳に「ふぅー」と息をかけた。
『ひょわぁぁあー!』
突然のことにびっくりしてガタンと立ち上がるリジー。
声を殺してくつくつと笑うクララ。
まだ少し寝ぼけているのか、リジーは何があったか理解できていない様子だ。
「おはよう、リジー」
微笑みながらクララは言った。
『あ、クララ。お、おはよう?』
首を傾げながらストンと椅子に座り、しばしの黙考。すると、クララの方を向き顔を歪めて言った。
『クララ、今なんかしたでしょ?』
その言葉で耐えきれなくなったクララは破顔した。
「な、なにも……あはは。なにもしてないよ」
『嘘つき! だったらなんでそんなに笑ってるの⁉︎」
怒った顔もまた可愛いらしい。
『もう! クララのいじわる!』
プクッと頬を膨らませ、ぷいっとそっぽを向くリジー。
「ごめんって。気持ち良さそうに眠ってたから、ちょっとイタズラしてみただけだって」
『ほらやっぱり!』
今度は「むー」と唸りながらこちらを睨んでいる。
クララはぽんぽんとリジーの頭を撫でて機嫌をとった。
「さて、今日も練習しなきゃ。リジーは何か聴きたい曲ある?」
『ふん!』
「もーごめんねって。今度、美味しいケーキご馳走するから」
『本当に‼︎』
ケーキにつられ、リジーは満面の笑顔になった。
こういうところはやっぱりまだ子供だなぁと思う。
クララだったら――うん。ケーキは食べたい。
「はい、約束」
『うん!』
お互いの小指と小指を絡ませて指切りをする。
「ところで、リジーは聴きたい曲ある?」
『えーっと、トロイメライが聴きたい!』
「おっ、シューマンね。じゃあ、『子供の情景』を最初からさらおうか」
ガサガサとバックから譜面の束を取りだして、シューマンを探す。
「あった!」
リジーはぴょんと椅子から降りると、グランドピアノの近くにある生徒用の椅子に腰掛けた。
譜面台に譜面を置き、カコンと鍵盤蓋を開ける。
すっと心を落ち着かせ、最初の一音をピンと奏でる。
『子供の情景』は全十三曲からなる、ロベルト・シューマンの作品だ。
一八三九年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版された曲で、クララが初めて聞いたのは母の演奏だった。
幼心に綺麗な曲だなと感動して、いつの間にか子守唄になっていたのを覚えている。
ただ弾くだけなら難易度はそこまで高くないが、しっかりと表現しようとすると簡単にはいかない曲。
第一曲から指先に集中して、一音一音丁寧に奏でる。ゆっくりと心地よい響きが、耳を通して頭の中に届く。 そして、段々とアップテンポになったかと思うと、またゆっくりと穏やかな旋律に帰る。
最後の一音を弾き終わると、リジーはパチパチと拍手をしていた。
「ありがとう」
クララはリジーの方を向き、ぺこりと軽く頭を下げた。
『ところでクララはなんでピアノを一生懸命やってるの?』
机にだらしなく突っ伏して、足をぶらぶらさせながらリジーは言った。
「昔、ここに住んでた令嬢の仕草じゃないねそれ」
呆れながらクララは言う。
『えっ? ああ。だって、もう死んじゃってるから関係ないし』
「さいですか…… 」
『それよりも! クララはなんでピアノやってるの?』
リジーは机に手をついて上体を起こすと、そのまま前のめりになりながら再びクララに聞いた。
「理由ねぇ……んーと、好きだから? かな」
『演奏が?』
「演奏もだけど、それを聴いて喜んでくれる人を見るのが好きかも……って、こんなの真面目に考えたことなかったからよくわかんないよ!」
クララは顔を真っ赤にして照れている。
「リ、リジーはなにか好きなことはないの?」
照れを誤魔化すように、今度はクララがリジーに質問をした。
『私は……好きなものがなにもなかったの。やりたいことも見つけられないまま、殺されたから…… 』
リジーは窓の外を眺めながら少し寂しそうな表情を浮かべた。
今日も天気はどんよりと曇っている。
「そっか。な、なんかごめんね。嫌なこと思い出させちゃって」
慌てて取り繕うクララに、リジーはブンブンと顔を横に振った。
『ううん、大丈夫。もう仕返しはしたし』
「仕返し?」
『そう、仕返し』
「誰に?」
『私を殺した犯人に』
「犯人? って、えっ! 犯人知ってたの⁉︎」
驚きすぎて椅子の上で跳ねた足が、ピアノの底板にぶつかった。
「っー!」
『大丈夫、クララ⁉︎』
鍵盤に突っ伏し痛みを耐えるクララを心配そうに見つめるリジー。
「だ、大丈夫……」
うっすらと涙を浮かべ、たははと笑いながらクララは言った。
「それで、犯人は誰だったの?」
ぶつけたところを摩り摩り聞く。
『名前は知らないけど、多分、昨日クララが言ってたブ、ブリンブリン? とか言うお爺さんだったはず』
「ブリンクリー会長?」
『そう、それ! その人が私を殺したの。だから仕返しに脅かしてやったら発狂して死んじゃった』
悪戯がバレた子供のようにテヘヘと無邪気に笑うリジー。
しかし――リジーの口から語られたまさかの真実。
聖ブリンクリー学園を作ったブリンクリー会長が、デイビッドソン家の遺産を奪うためにリジーに手をかけていたとは……
しかも、死んだはずのリジーに復讐されて、自らの命を落としてしまっていた。
「……リジーって、恐いね」
『えっ、嘘っ! また骸骨の姿になってる?』
慌てて自分の身なりを気にするリジー。
その様子がおかしくて、クララはついつい笑ってしまった。
「違うよ。そういう意味じゃなくて。リジーを怒らせると恐いなって話」
『なんだぁ。間違えて前の姿に戻っちゃったのかなって思った』
ほっと胸を撫で下ろしたリジーは言葉を続けた。
『そうそう。昨日言った遺産のことなんだけど、出来たらクララ一人で掘り出して欲しいの』
「えっと、どうして?」
モニョモニョと言葉を濁すように話すリジー。
『あのね……私が殺された件も絡んでくるから、人に知られたくないというか、他の人に横どりされたくないというか、えっと―― 』
「そっか。わかった! ちょっと頑張ってみるよ!」
クララはぐっと親指を立てた。
『ありがとう! なりゆきでクララを選んだけど、本当にクララで良かった!』
うーと唸りながらクララに抱きつくポーズをするリジー。しかし、グランドピアノまで少し距離があるので当たり前だが届かない。
「なんか一言多い!」
そう言ってクララは立ち上がると、リジーに近づき、机の前でしゃがみこむ。
宙に浮いていたリジーの手を自分の肩に乗せ、おでことおでこをコツンとぶつけた。
「誰でもよかったは納得がいかないから、私じゃなきゃダメって言わせてやる」
『ふぇっ?』
「そりゃー!」
クララはリジーの脇をくすぐり始めた。
『えっ! ちょっと……ク、クラ、あは、あはははは、あはははは!』
ガタンガタンと椅子の上で暴れるリジー。
それを押さえつけるようにくすぐるクララ。
しばらくすると、クララは手を止めて、息も絶え絶えのリジーを解放した。
『あはは、ク、クララ、酷い……よ…… 』
「ちょっとやりすぎたかな」
『う、うん……やりすぎ』
椅子の上で乱れた身なりを整えながらリジーは言った。
『でも……楽しい』
その言葉に一瞬呆気にとられる。しかし、すぐに微笑みリジーの手を取る。
「私も楽しいよ」
昨日、出会ったばかりなのに、何年も前から知っているみたいな二人。もちろん、クララにとってリジーが天使のように可愛くて、今すぐにでも食べてしまいたいと思っていることは変わらない。しかし、それ以前に、なにか懐かしくて温かい繋がりを感じていた。
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