クララは休校中の学校に戻ると、そのまま寮に向かった。部屋に荷物を置いて早足で音楽室に向かい、入口の扉をカラカラと開ける。ぐるりと中を見回すが、やはり誰もいない。
扉をしっかりと閉めて、いつものようにグランドピアノの椅子に腰を下ろした。
――そう言えば、リジーっていつもどこから来てるんだろう。
自宅があるわけでもないだろうし、本来なら食事や睡眠をとる必要もないだろう。でも、この間寝てたな……
ふらふらとどこか歩き回っているのか。それとも、自分のお墓にいるのだろうか。どの道、今は彼女と接触する方法を考えなければならない。
――方法、方法……あっ!
クララはグランドピアノの鍵盤蓋をいそいそと開けると、譜面がなくても弾ける曲を考えた。
――んーと、えーと……そうだ! あれならいけるかも!
ベートーヴェンのピアノソナタ第五番。昨年のコンクールの時に沢山練習した曲だ。
クララは鍵盤に指を置くと、ふうと息を吐き心を鎮めた。
以前にコンクールで演奏した曲を時間を置いて弾くとき、クララは最初に読んだ解説のことを思い出すようにしている。初めて楽譜を見た時の気持ちを思い出せるからだ。
この曲はベートーヴェンが初めて三楽章制を導入した曲で、クララ自身もお気に入りの曲だった。
旋律が自然な流れにのって明るい響きを押し出す第一楽章。続いて、二つの主題がアリアのように優しく歌われ、安らかな雰囲気の第二楽章へ。休符やタイ、強弱記号などによって強拍の位置がずらされ、活き活きとしたリズムが心地良い第三楽章。
ピーンと最後の音を奏でると、入口のドアにコツンとなにかが当たる音がした。
「リジー!」
慌てて扉に駆け寄る。
コツン!
カラカラと扉を開けると、黒いもふもふした塊が廊下の真ん中に座っていた。黒い塊はクララの方を振り向くと「ニャーン」とひと鳴きして、音楽室から離れていく。
「なんだ、っJJか…… 」
扉を閉めてピアノの方に戻ろうとしたところ、バタンと何かが扉にぶつかった。ビクンと肩が跳ねる。
「え、ちょ、ちょっと何…… 」
身構えながら後を振り向くと、カラカラと扉がゆっくり開いた。すると、白い小さな手が地面を這うようにのそっと現れた。
「ひ、ひっ!」
悲鳴をあげそうになったが、両手で口を塞ぐ。
『ク、クララー!』
次の瞬間、それは金色の髪を振り乱し、勢いよく部屋に入ってきた。そしてそのままクララに抱きつく。
クララはいきなりのことでよろけたが、気合いでなんとか持ちこたえた。
「リジー、ちょっとどうしたの?」
『うわぁーん。怖かったよー!』
「なにがどうしたの?」
お化けであるリジーの存在よりも怖いものとは一体なんなのか。
クララはリジーを抱きしめ返すと優しく頭を撫でた。
『ネ、ネコォー』
「えっ? 猫?」
『そう! 黒猫がずっと入口のところに座ってて、音楽室に入れなかったの! 小石を投げて追い払おうとしたんだけど、全然逃げなくて困ってたらクララが出てきて。そしたら黒猫がこっちに歩いてくるじゃない! びっくりして逃げようとしたら、手前の階段降りていったから急いで音楽室に入ったの』
――それで扉にぶつかったのか……
思わずおかしくて、吹き出すクララ。
『えっと、クララ?』
「ご、ごめん。まさか、リジーが猫を苦手だと思わなくて」
『だ、だって、ヤツら私見ると、ふーって威嚇してくるんだもの。怖くて近寄れないよ!』
「そうなんだ。もしかしたら本能でわかってるのかもね。リジーが普通じゃないって」
『普通じゃないってどういうこと! 私は普通です!』
ぷりぷりと怒りだすリジー。
そんな姿も可愛くて、ついつい笑みが溢れた。
「違うよ。そういう意味じゃなくて―― 」
ぎゅっと強く抱きしめる。
「リジーが可愛いってこと」
クララはリジーの耳元でそう囁くと、ふっと息を吹きかけた。
『うひゃあっ!』
クララの腕の中でびくっとなるリジー。
その反応が面白くて、クララはけたけたと笑った。
『もう! クララの意地悪!』
リジーはクララの腕からするりと抜け出ると、ぷいっとそっぽを向いた。
「ごめんって」
『ふん!』
ぽんぽんと頭を撫でる。
窓が開いていたのか、冷たい風がリジーの綺麗な金色の髪をサラサラと靡かせた。
「寒っ!」
ぶるっと体が震えた。
クララは小走りで窓まで行き、カラカラカラと閉める。ついでにカチャリと鍵もかけた。
『そう言えばクララ、今、学校はお休みなの?』
背中越しに声をかけれ、リジーの方に振り向く。
リジーはつまらなさそうに何かを蹴るマネをしている。
「えっと、どうして?」
『だって、昼間に誰も見かけないから。それとクララだって音楽室来てなかったし』
この学校は全寮制のため、生徒は皆、寮に住んでいる。
今回の騒動で、親が心配して子供達に帰省するよう言ったのだろう。現に、クララの父親もそうだった。実家が遠い子達は寮に残っていたりするので全員いなくなったわけではないだろうが、それでも用がなければ別棟までわざわざ足を運ぶ必要はない。そして、そうなった原因が自分であることを恐らくリジー本人は知らない。
伝えるべきか、伝えずに黙っているべきか……
『難しい顔してどうしたの?』
いつの間にかリジーが目の前にいた。
俯いていたクララを下から覗き込むようにして心配そうに見つめている。
クララはリジーの視界から外れるように目を逸らし言った。
「あっ、うん。えっと、大丈夫、じゃなくて……い、今、冬季休暇中でみんな実家に帰ってるんだよね」
苦しい言い訳か……
『ふーん。でも、いつもより早くない?』
「うっ……いや、毎年こんなものだよ」
『そっか。いつもはもう少し学校に残っている人がいたと思ってたけど。クリスマスの飾り付けとか頑張ってて凄いなぁって感心してたのに』
リジーの顔はどこか寂しそうに見えた。参加できないとはいえ、もしかしたら毎年楽しみにしていたのかもしれない。
そんなリジーのために何かできないだろうか。
顎に手を当て逡巡していると、リジーがじっとこちらを見ていた。
『クララ、今日、いつもに増して変だけどどうしたの?』
思わずビクッと肩が跳ねる。
「えっ、そ、そんなことないよ。いつも通りだよ」
『ほらやっぱり変だよ。いつもなら「いつもに増してって、いつも変ってことかー!」ってツッコミ入れるのに、今日はやけに大人しいよ』
「うっ! それは…… 」
たじろぐクララに詰め寄るリジー。
『何かあったの?』
どのみちリジーには例の件を聞かなければならない。いずれわかってしまうのなら、自分の口から説明してあげた方がいいだろう。
「リジー。実は今、学校は臨時休校中なんだ。それで、その原因が……リジーの存在が町中に広まっちゃったってことなの」
『あ、そうなんだ』
あっけらかんと特に気にしてなさそうにリジーは言った。
逆にクララが面食らってしまう。
「えっと、大丈夫?」
『何が』
「だってほら、リジーのことがみんなにバレちゃったわけだし、しかもみんな、リジーのこと怖がってるんだよね…… 」
『んー、お化けってそんなものじゃない?』
「達観してるな! 本当に八歳か!」
面白そうにケラケラと笑うリジー。
『いつものクララに戻ったね』
「いやいや、これでも結構心配してたんだよ。このこと知ったらリジー落ち込んだりしないかなって思って…… 」
『心配してくれてありがとう。でも大丈夫! これでも百年近くお化けやってるからね』
優しく微笑むリジー。
確かに、リジーが亡くなってからそれぐらいの時が過ぎてはいるが……
「でも、猫は苦手なんだよね」
にゃーと言いながら、猫の真似をしてリジーに近づく。
『そ、それとこれとは関係ないの!』
焦った様子でそっぽを向くリジーを見て、クララはおかしくてついつい笑ってしまった。
『ちょ、ちょっと、クララ。何がおかしいの?』
「なんでもない……やっぱりリジーは可愛いなぁって思っただけ」
リジーの頭を優しく撫でる。
『クララはいっつも私のこと子供扱いして…… 』
「だって見た目は八歳でしょ?」
『中身は大人ですぅ』
ぷくっと頬を膨らませて怒る様は、どう見ても子供だった。
そう言えばとクララは今日ここにきた目的を思い出した。
「ねぇ、リジー。覚えてたらで良いんだけど、この間、家でやった降霊術のことってわかるかな…… 」
クララの脳裏には先日の恐怖が蘇った。
書いた記憶のない文字を自分が書いたと言う事実。しかもそれは、リジーがクララの体を借りて書いたのだ。
『なんのこと? 私はみんなどこ行っちゃったのかなって学校の中をフラフラしてたけど』
「いやほら、だって、降霊術で私の体の中に入って、私の代わりに質問に答えたじゃん!」
クララが何を言っているのかわからない様子のリジー。
首を傾げ『うーん』と唸っている。
『わかった! わからない!』
「どっち‼︎」
ケタケタと笑うリジーに、煮え切らない様子のクララ。
『えっと、私はその降霊術? でクララに呼び出された記憶はないよ。ずっとここにいたし、ここから離れられないから』
「で、でも、実際に私の家で私の体にリジーがのり移って、私の知らない字でリジーの情報を紙に書いたんだよ!」
再び首を傾げ唸るリジー。
『そう言われても、行ってないものは行ってないし、何かを紙に書いた記憶もないよ』
リジーの言っていることが本当なら、一体誰がクララの体にのり移ったのだろうか。想像して顔から血の気が引いていくのを感じた。
『ちょっとクララ、大丈夫? 顔色悪いけど』
「あ、うん。大丈夫…… 」
俯き唖然と立ち尽くすクララの顔をリジーは心配そうに覗き込んでいる。
そもそも今日はリジーに相談するために来たはずだ。
ある程度のことは今までお喋りしていた時に聞いてはいたが、どこまで父親や霊媒師のヴァレンタイン先生に話して良いのかとか、どれは二人だけの秘密だとかを決めておきたかった。
クララは降霊術をやりたくないがためにここにいる。そして、実際にリジーが現れていないのであれば、そもそもやる意味すらなくなる。
では一体、降霊術でクララに憑依していたものはなんなのか。
喜びと不安が入り混じり、なんとも言えない感覚がお腹の中心で蠢いている。
しかし……
――今それを考えてもしょうがない。先にやらなきゃならないことがあるんだから。
クララはパチン! と自分の両頬を叩いた。
それを見ていたリジーは突然のことに何事かと驚いた。
『ク、クララ……大丈夫?』
さっきとは違った意味で心配されているようだ。
頬がヒリヒリと熱い。
クララはニコッと笑うと、リジーに言った。
「大丈夫。実はリジーに相談があるんだけど―― 」
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