雀の囀りを耳に目覚めたのは、まだ日も浅い午前六時半のことでした。パジャマからブレザーに着替えた私は階段で一階に下りると、脱衣所をの籠にズボンもシャツも一つに丸めたそれを通るがてら放り入れて、リビングダイニングの扉を開けました。
淡い酸味の香りがリビングに漂っていて、ダイニングテーブルの上にはバケットとパンが用意されています。後ろの吹き抜けたキッチンにはレディーススーツにエプロンを重ねた母の姿がありました。
「あらモカ、今日は早いじゃない?」
「今日も、だよ」
「遅刻の常習犯が言えることかしら?」
「ぐぬぬ」
私の母『三浦 千歳』に出席状況をズバッと言われ、歯を食いしばります。
2030年代に政府が打ち出した大規模なオンライン化政策で、職場や学校と言った社会システムに変化が巻き起こりました。ネット回線の発展が齎した人の働き方、学び方の改革は移動を減らし、私達に新しい日常を作り与えました。
しかし教育者たちはしばらくして重大な欠陥に気がつきます。子供たちが人との接触を希薄にしたことで、彼らが人との付き合い方を学ばないまま、年齢を重ねてしまうことでした。対策として打ち出されたのが、初等、中等教育では対面を継続し、高等教育以降から積極的なオンライン化を推進していくことに落ち着いたのです。
しばらく、椅子につくまでの物の数十秒ですが、沈黙が続いて、やっと私が母の服装に触れます。
「だって、作り上げられるまで、やめられないんだもん」
「ほどほどに、と言いたいところだけど、母さんの高校時代もそんなもんだから、人の事は癒えないわ」
「じゃあ、私は母さんに似たってことだね」
「度胸と人との付き合い方はお父さん似だけど」
発言が依存症患者のそれでした。私は素直に認めます。
私はゲームに没頭するあまり、出席状況が芳しくない。具体的には遅刻の数が多く、成績表に記載される数字がいつも二ケタに達していて、突かれると何も言えないのです。
とはいえ、遅刻の数が出席日に行われる各教科の評価に直結していないので、問題ありません。母の高校時代こそ法律と同列に厳しかったのですが、オンライン授業と自宅学習が主流になった昨今の高等教育は、設けられている登校日の遅刻数は成績表の装飾品に過ぎなくなってしまったのかもしれません。
「今日は外?」
「まさか。オンライン会議があるの。在宅でも顔合わせるときくらいはスーツじゃないとね」
「おうちキャリアウーマン」
「あら、懐かしい言葉」
私の問いかけに母は空いている手で皿を作って、軽く上げて答えます。民間警備会社の企画系事務にいる母もまた、オンラインによる職場改革の餌食になっていました。
その昔(と言っても10年くらい前)、そんな自宅勤務をする人々を『おうちサラリーマン』や『おうちキャリアウーマン』などとマスメディアがあだ名をつけていたものです。小さかった私の記憶にも鮮明にその言葉が残っています。
「そんなわけで、今日は一日いるから」
「お仕事、頑張ってー」
何気なく応援すると、キッチンから母が皿に盛られたミネストローネを持って、テーブルの方へ出てきました。
「朝ごはん、お待たせー」
「ういーいただきますー」
前を湯気が横切り前に置かれたミネストローネを目にし、私は重たさを若干含んだ声で食膳の呪文を詠唱して、スプーンで一口掬います。
「んにゅー。おいひい」
温めたばかりのスープは熱く、口に運ぶと熱で舌がヒリヒリして上手く口が回りません。
「熱いからお気をつけて。じゃ、私はそろそろ始めようかな」
「もう? 早くない?」
「あーいや、食べながらちょっと片づけようと思ってね。終わらせないと、夜ご飯遅くなっちゃうから」
「そっか」
「えぇ」
私は物寂し気に返事をします。母は四つある椅子の使っていない一個にノートパソコンを用意していたようで、二人用にしてはだだっ広いテーブルの隅にそれを広げると、起動してパンを片手にキーボードを打ち始めます。
そこからしばらく二人の間に、会話はありませんでした。しばらく黙って食べていると、母は唐突に私へ疑問を投げかけます。
「お父さんいないの、寂しい?」
「えっ!?」
思わずオーバーに声帯を振るわせてしまい、部屋中に私の叫喚が反響します。聞こえてたのですが、あまりに突拍子もなく、ちょっとだけ驚きました。
私の父は、もうこの世にはいません。私がまだ生まれて間もないとき、事故で死んだとしか知りませんし、家には仏壇もなく、写真の一枚も残っていないのだそうです。
どんよりとした空気が流れている中、残り少なくなったミネストローネを一気に飲み干して、私は答えました。
「寂しくないよ」
もう二人だけ、というのも慣れましたし、在外私は『孤独』という状態が好きなのです。誰にも邪魔されず、干渉されないことがある意味で『特権』のように捉えています。
しかしそれでも、
「でも、父さんがいたら、母さんはもっと楽になるだろうし、賑やかだと思う」
「……そうね」
母の表情を見ると、ちょっとだけ力んで険しくなっていましたが、素直な返事を聴いて力が解けます。
「ごちそうさま。歯磨きして準備出来たら、勝手に行くから」
使った食器を持って、水の張られたシンクの桶に沈めた私は、リビングから飛び出して洗面所へと向かって、母の前から姿を消しました。
さっきのような沈黙が私の寂しさを強調させて母に聞かせたのではないでしょうか。真意はわかりません。
「たくましく生きてるよ。モカは」
一人きりになったリビングで、母の声がこだまします。勿論、その場にいなかった私には届きませんでした。
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