自由落下。ゲームへの潜入はそれから始まります。
実体には受けていない重力が意識の中だけで認識されて、落ちていきます。眠りに落ちるような感覚に近似していて、心地が良いです。
それから数十秒間が経って、瞼を閉じて暗闇の世界に浸る感覚が断続する小刻みな振動と、前や後ろ、横へ不規則に振られる大きな揺れを感知して、目が覚めました。
「はぁーあ。よく寝た」
ゲームの中とは言え、ほとんど寝ている状態なので反射的に欠伸が出ます。
バスでしょうか。うす暗い明かりが小汚い床を微かに照らし、フロントガラス上のサファイア色のデジタル時計は午前5時52分を示しています。
天井の中吊りは広告が貼られていた跡だけが残っていて、角が丸くなった化粧板が寂しく私達を見下ろしています。
座席には他に複数のプレイヤーのアバターが着席していて、ロードが終わっていないのか目を瞑ったアバターもいました。
そしてバスは重厚な五階建てのビルの前で停車しました。状況がまるで整理できませんが、すでに仮想現実にいることは確かです。
炭酸ジュースの蓋を捻った時の気の抜けるような音が響いてドアが開きました。ようやく出られる、さてこの世界はどんな景観をしているのか。ちょっとだけ胸が躍りました。
これは恐らくゲームのオープニング。戦争物とは言え、ゲームです。最初くらいマップの情景を楽しむのも一興でしょう。私は席を立ち上ろうとお尻を上げました。
しかしそれとほぼ同時に、私の期待は打ち消されるのです。
「ほら全員立てぇ! グズグズしてたらこのバスに砲弾ぶち込むぞ! おらぁ! 立て! 立たんかノロマ共!」
——はい?
袖を織った迷彩服とはち切れんばかりの腕、そして帽子越しでもわかるツルツルのスキンヘッドが目に入った瞬間、野性味あふれる周波数が電撃の如く走ります。
耳を疑うような罵声がバスに充満して、私は座席とお尻を磁石でくっつけました。
「立たんか! さぁ早くバスを出て事務所の中へ入れ! さもなくば死ぬぞ! 現実じゃねぇから本当に弾が飛んできても知らんぞ新兵共!」
ダッダッダ。ほぼ一挙動で立ち上り、教官が横を掠めた直後に降車するプレイヤーの皆様。あなた達、本当に初心者ですか?
「そこの若い女! さぁ早く立て!」
「あ、あの!」
「なんだ!」
疑問の時に投げるイントネーションなんてあなたにはインプットされていないようで、強い口調を保ったまま、詰められます。数十メートル離れていても恐ろしいのに、間近になるとその厳つい顔がさらに際立つので、本当近づかないでください。
「わ、私、初心者なんでこの流れについていけ」
「言い訳するな! いいか貴様は今から人間ではない! この訓練所を抜け出すまではウジ虫以下だ!」
「ちょ、それって私だけめちゃくちゃ差別されているような」
「俺は差別していない。今降りて行った全員が、今からそうだ! いいか、俺の言うことは絶対だ! 貴様が一人前の兵士になるまで面倒を見てやる。覚悟しておけよ!」
きょとんと、バスの座席に座りっぱなしになっていると、その男が私を無理やり立たせてバスを降ろします。
窓から見えたビルの入り口に視線を回すと、そこにはカタカナで『ブートキャンプ』と書いた立て看板が寄り掛かっていました。
あの単語に見覚えがあります。第三次世界大戦以前、ある超大国の軍隊へ志願した新兵が受ける訓練のことです。
50年以上前の映画が有名で、教官の容赦のなさといい、聞いているだけで不快感が来る汚い言葉遣いといい、戦場の理不尽さをツナ缶サイズのアルミ缶に詰めたような、まさに地獄そのもの。
出されても歩かない私の首根っこを掴んで、男は建物の中へ引き摺り込みます。もうどうにでもなれ。
そして着席。今度は堅いパイプ椅子に座らせられて、書類と拳銃を渡されました。
「これがお前の最初の装備だ。失くすなよ。何か質問は?」
「一つ、よろしいでしょうか?」
「なんだ」
「ログアウトの仕方って、メニューを開いてうっ」
「次ふざけたことをしゃべったら、その口をもぎ取ってやる」
「しゅいません」
人生ハードモードとは言いますが、まさにその通り。口元を強烈な力で鷲掴みにする彼へ、反論の余地なんてありませんでした。
せっかくなのでやり遂げましょう……とは、到底気持ちがなりませんでしたが、裕翔との共通の話題も欲しいし、オンラインゲームなんて触ったこともなかったので、しばらくこのゲームで退屈をしのぐことにしました。
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