今夜は月が綺麗だなと、華子は思った。それに、月光があれば楽だ。忍び込むことに慣れていても、光があるのとないのとでは全然違う。
華子は、小学校の裏手にあるフェンスの僅かな隙間から体をねじ込ませる。
少しでも太ったら入れない。体型維持のための良い口実になっていると、華子自身思っていた。
でも、もう少し成長してしまえば、ここを通れないかもしれない。その時は、どうやって入ろう、と今から少し考えていた。
華子は、小学生ではない。二年前に卒業したのだ。それでも、週に一度、華子は卒業した小学校へ忍び込む。
コソコソと裏門付近の窓を開ける。そこは、いつも開いているのだ。それが何故か、先生達はきっと知らない。今知っている児童もいないかもしれない。
華子も、実はこうしてくれている者に出会ったことはないが、噂だけは聞いていた。今日もその人物(と言っていいのか華子には分からない)が、週に一度の夜の訪問者のために窓の鍵を開けてくれていた。
卒業した時と変わらない教室の並びが、月明かりにぼんやりと浮かび上がる。何度訪れても、夜の学校は不気味で、慣れることはなかった。
しかも、華子には特殊な能力があった。
それに気が付いたのは、小学三年生の時だった。
(今夜は静かな方かな)
華子はホッとした。が、この静けさにどこか違和感を覚えながらも、目的の三階の女子トイレを目指す。
ここに来る度に思い出す。
周りの子達と違うものを見て、口にすれば、段々と気味悪がられた。それはいつしか仲間外れという形になり、からかわれる要因となった。気付けば、友達と呼べる子はいなくなっていた。
いつも独りぼっち。華子は、目立たたないように学校生活を送っていた。それが返って、孤独へと彼女を誘った。
それを救ってくれたのは、皮肉なことに特殊な能力だった。
からかわれるだけだったのが、完全にいじめとなっていた四年生の初夏。
同級生達にお父さんから買ってもらった大切なキーホルダーを取られ、三階の女子トイレの三番目の個室に閉じ込められた時だ。
誰も助けてくれなかった。声を上げても、嘲笑が返ってきて、ついには水音がした。同級生達が、水を張ったバケツを持ち出したのだ。
大量の水を被ることを覚悟した時、彼女が現れた――
「花子、お待たせ」
それは、通常の女子中学生が、友人の家に遊びに来た感覚と同じだ。華子には、殆ど経験のないことだが、きっとそうなのだろうと思う。
リビングにあるソファに腰をかけるように、華子は少し低めの手洗い場に背を預けた。
「……あれ? 花子、いないの?」
いつまで経っても現れない友人を、再び呼んだ。
が、返事がない。
「ちょ、ちょっと……はやく出てきてよ。こんなとこで一人待たされんの、怖いんですけどぉ?」
電気を点けるわけにもいかない。一度電気を点けたことがあり、ちょっとした騒ぎになったことがあるのだ。
誰もいない三階の女子トイレの電気が点いた、幽霊の仕業か。
子ども達の間でしばらく噂されたことを、友人は喜んでいた。
が、幽霊に電気を点けることはできない。だって、体がないのだから。
物に触れるのは、実体のあるものだけだ。華子はそれを知っている。
ここの管轄者には、実体がないのだ。が、華子には生きている者達と同じように彼女が見える。
それが、華子の能力だった。
またしばらく無音が続いた。
「ちょっ、ちょっと! いい加減出てきてよ! 花子!」
慣れていることと、怖くないことは違う。
誰がここにいるか分かっていても、自ら奥まで行こうとは思えない。
そう、だってここにいるのは――
「花子!」
『なによ?』
「ぎゃあああぁ⁉」
不意に背後から返事が聞こえ、華子は絶叫した。
『ちょっ! ちょっと! あんまり大きな声出さないでよ。さすがに、近所迷惑でしょ?』
「急に後ろから出てこられたら誰でもこうなるわぁ!」
勢いよく振り向けば、長い黒髪に、赤いワンピースの少女が、幼いその顔に呆れを乗せ、腰に手を当てて立っていた。態度はでかいが、その姿は微かに透けている。
そう、この少女が様々な学校で語り継がれている、トイレの花子さんだ。そして、華子の友人でもある。
幽霊を友人と呼べる時点で、世間一般の普通とはかけ離れてしまったと華子自身も思うが、本当に友人と呼べるのは、花子だけだった。
『ほんと、いつまで経っても驚いてくれるのね、ハナは』
花子は、華子のことをハナと呼ぶ。こんな風にニックネームを付けてもらったのも、花子が初めてだった。
花子はそんな友人を見詰めた。
歳を取らない、いや取れない少女の幽霊は小さく溜息を吐き、華子の横に腰をかけた。
まさに透き通っている白い頬にかかった髪を、花子は耳にかけた。その姿は大人びている。が、僅かに疲弊しているようにも見えた。
(幽霊が疲れるなんて、ちょっと変だけど……)
でも、いつもと様子が違った。
「珍しいね。花子がここを離れるなんて。何かあったの?」
華子が問えば、花子が肩を竦める。
『まあ、ちょっとね』
「何? 気になるじゃない?」
ただの興味だった。
しかし、これがいつも自分の首を絞めることになると華子が気付くのは、後になってからだ。
そして、今回も例に漏れなかった――
『厄介なものがうちに来たのよ』
「厄介なもの?」
花子のふっくらした、しかし色のない唇が歪む。
『ええ……呪われた彫刻がね』
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