私はくしゃみと共に、病院のベッドで目を覚ました。
母から話を聞くと、どうやら私は、手首を切ったまま、空になった浴槽で眠っていたらしい。
意識が朦朧とした時に手足を動かし、たまたま排水栓のチェーンに引っかかってお湯が抜けたんだろうというのが、大人たちの出した見解だった。
それが違うことは、私が目を覚ました時に握っていたハンドベルが物語っている。
スーサイドを後にする際、死神さんが持たせてくれたものだ。このベルを鳴らし、目を瞑って瞑想すると、再びあの場所へ戻ることができるのだという。
いつでも死神さんに会えるということは、これからも生きていくことを決めた私にとって、とても大きな励みだった。
後日、私は家のダイニングで両親に問い詰められた。
けれど、もう自殺をするつもりはないとはっきりと宣言した。
それは事実だったし、そのことに、二人は心の底から安堵していたようだった。
「まったく。あまり心配をかけさせるな。ただでさえ仕事で忙しいのに……」
「ごめんなさい」
「本当にねぇ。あなたももう高校生なんだから、早く私達を安心させてくれないと困るわ」
「その通りだ。こんなに心配してるのに自殺だなんて……。親不孝だってことを理解してくれよ」
「ごめんなさい」
私は素直に、笑顔でごめんなさいと言うことができた。
その度に、チクリ、チクリと胸を刺す、小さな針に気付かないまま。
「それじゃあ、明日からはちゃんと学校に行けるのね?」
「……え?」
ドキリと、大きく心臓が高鳴った。
フラッシュバックのように、辛い過去が脳裏を過ぎる。
「ちゃんと学校には行かないと。みんな、嫌なことを我慢しながら通ってるんだから、結衣だけ特別なんてダメでしょう?」
「そうだぞ。友達だって心配してるだろうし。ちゃんと大丈夫だったって報告する義務がある」
義務……?
義務ってなに? 私をいじめて笑っていた連中に、どうしてそんな義理立てしないといけないの?
そのことは、父だって知ってるはずなのに……。
私は、ぎゅっと自分の腕を握りしめた。
ダメだ。
ここで負の感情に呑み込まれたら、今までと同じだ。
血が出るんじゃないかと思うくらい、私は腕を強く握りながら、努力して笑顔を作った。
「……うん。明日から、学校に行くから。だから心配しないで」
それを聞いて安心したのか、父も母も、もう話は終わりだと言わんばかりに、さっさと部屋から退出してしまった。
「だいじょうぶだから。……だいじょうぶ。私はだいじょうぶ……」
その場から動けず、私はしばらくの間、ずっと一人で、そんなことをつぶやいていた。
◇◇◇
制服を着て、鞄を持ち、バス停でバスを待つ私は、まるで高所恐怖症でありながら、バンジージャンプの列に並んでいるような気分だった。
しばらく学校を休んだことで、クラスメートは私のことを何度も噂していただろう。もしかしたら、自殺未遂をしたことも伝わっているかもしれない。
今さら私が学校に来ることに、嫌悪感を示す人が大半なんじゃないだろうか。
彼らにどんな奇異の目で見られるんだろう。どんな言葉を投げかけられるんだろう。
そんなことを想像する度、心臓が痛いくらいに脈打ち、バスがくる時間が近づくにつれ、身体がガタガタと震え出した。
バスがやってきた。
プシュウとドアが開き、私が中に入るのを待っている。
バスに乗っている人々が、なかなか乗ってこない私を、苛立たし気に、じっと見つめている気がした。
お腹が痛い。気持ち悪い。
全力疾走した後のように心臓が私を叩く中、それでもなんとか、一歩、また一歩と足を動かし、なんとかバスに乗ることができた。
教室の中は、もはや、私が見知っているところではなかった。
たった一か月ほど休んだだけで、そこは完全に別世界になっていた。
知らない人間関係ができあがり、知らない思い出話に笑っている。
まるで私だけが世界に取り残されてしまったかのような孤独感が、私を襲った。
教室に入った時、一瞬だけ、しんとなったが、あとは何事もなかったかのように、各々で話に花を咲かせている。
私のグループだった二人は、今は別のグループにいるようだ。私のことに気付いていないフリをするように、懸命にグループの子に話しかけている。
私は、ただただ自分の席に、縮こまって座っていた。
とにかく怖かった。誰に何を言われるのか分からず、びくびくしながら身構えていた。
銃撃戦のど真ん中で立ち尽くし、いつ撃たれるとも分からないような、そんな状況だった。
「ねぇ」
ビクリとした。
おそるおそる顔を上げると、何度か話したことのあるクラスメートが二人いた。
私がいじめられていた時も、ずっと静観していた子達だ。
「いろいろと大変だったんだってね。ずっと学校休んでたけど、家でなにしてたの?」
私は口を開いたが、声がでてこなかった。
まるで話し方を忘れてしまったかのように、ほんの小さな、か細い息を吐く音しか出てこない。
「無視かよ」
その子は舌打ちした。
「せっかくウチらで話しかけてやってんのにね。何様だよ」
そう言い残して、二人は去って行った。
なんで声がでないの? 家では、普通にでていたのに。
自分の喉を触りながら、あまりにか細くなってしまった自分の声量を心配していると、ふいにクラスがざわつき始めた。
その理由はすぐに分かった。
顔を上げると、そこには、青ざめた顔で教室のドアの前に立ち尽くす、真紀がいた。
『気持ち悪い』
そんな言葉が、まるで耳元でささやかれるように聞こえてきた。
『気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い』
「うっ……!」
私は急いで口を押さえたが、遅かった。
胃から逆流してきた内容物が、教室の床に吐き出される。
「うわ! 汚ね。吐きやがった」
「最悪。アンタが掃除してよ」
容赦なく浴びせられる罵倒と、痙攣する胃袋。冷たい汗と涙に塗れて、もはや頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「てかさ、真紀ひどくね? せっかく学校に来たのに、吐くほど追い詰めるとか」
そんな声が聞こえて、真紀は泣きそうな顔でうつむいていた。
「確かに。よっぽど酷いいじめ受けてたんだろうね。かわいそ~」
ああ、そういうことか。
自分でも驚くくらい、急に冷静さを取り戻した私は、事の全てを理解した。
確かに真紀はきっかけを作ったかもしれない。でもそれに便乗して私を追い詰めたのは、クラスメート全員だ。
私が不登校になったり、自殺未遂を繰り返したことで、彼らは自分達を正当化するために生贄を作った。
すべてを、真紀一人のせいにしたのだ。
「お前達! 何をしてるんだ‼」
一人の男性教師が騒ぎに気付き、私の下へ駆けつけてきた。
「大丈夫か? ……私は彼女を保健室に連れて行く。掃除も先生がやるから、大人しくしていなさい」
クラスメートの、ラッキーという声が漏れ聞こえる中、私はその教師に担がれて、保健室へ向かった。
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