「はい、これ」
トイレで口を洗い、保健室のベッドに横になっていた私に、男性教師がスポーツドリンクをくれた。
「気分が良くなったら飲んで」
「……ありがとうございます」
私は、少しだけドリンクを口に含んだ。
ようやく、身体の調子も少しずつ戻ってきた。
「自己紹介がまだだったね。僕は東雲薫(しののめ かおる)。少し前から、君の担任になったんだ。よろしくね」
「担任……? あの、前の先生は……」
「学校側が色々と話し合ってね。少し外の目を入れた方がいいんじゃないかということになって、僕が雇われることになったんだ」
うまく言葉を濁しているが、おそらく生徒の自殺未遂が問題になって、教育委員会あたりから派遣されたんだろう。
いじめの実態を調査しようともしなかったこの学校が、そんな殊勝なことを考えるはずがない。
「ご両親には報告していたんだけど、君と面会するのは、もう少し落ち着いてからの方がいいかと思ってね」
私は改めて、東雲先生を観察した。
歳は30代くらい。中肉中背で、清潔感があり、爽やかな印象の人だ。
話し方もおだやかで、女子からの人気も高そうだった。
「……あの、ありがとうございました。介抱してくれたこともそうですけど、床の掃除も、敢えてやってくれたんですよね?」
教師なんだから、汚物の掃除くらい、生徒にやらせることもできた。
でもそうしなかったのは、クラスの人間が私に向ける不満を、少しでも減らすための気遣いだったに違いない。
「こう見えて、掃除がけっこう好きなんだ。仕事で遅い日以外は、毎日掃除機をかけてるくらいだからね」
そう言って、東雲先生は笑った。
良い人だ。薄く微笑みながら、私はそう思った。
「今日はよく頑張って来てくれたね。僕も何人か不登校の子を見てきたから分かるけど、とても勇気のいることだったと思う」
「……そんなの、誰も理解してくれませんけどね」
「心の問題は、周りからは見えづらい。君のことを嫌ったり、君に関心がないわけじゃないと思うよ」
「どうですかね」
私はそっけなくそう言った。
嫌われることを恐れて、優等生の仮面をかぶることの多い私にしては、自然な悪態(あくたい)だった。
初対面の東雲先生に、ずいぶんと心を許しているようだ。
「……真紀は、いじめられてるんですか?」
本当は聞きたくないことだった。
でも、私には、聞かないといけない責任がある。
「一時期、そういう空気があったことは確かだよ。でも今は、特に問題はないと思う。彼女が干渉しなければ、周りも干渉しないという共通認識ができあがったみたいだ。人によってはそれも問題だと言う人もいるかもしれないけど、彼女は一人でいるのが好きみたいだからね」
東雲先生は、前の担任と違って、一人一人の生徒をよく見ている。
彼の認識は、おそらく正しいだろう。
「……なら。今日、私が学校に来た事で、それを壊しちゃったってことですね」
お互いに無視し合うことで成立していた関係を、私が来たことで、無視できないものにしてしまった。
真紀が次のターゲットに選ばれることは、想像に難くない。
「壊れないよ。そのために僕がいるんだから」
その、あまりにも自然に出た言葉に、私は目を見開いた。
「クラスのみんなが、平穏に学校生活を送れるようにするのが、教師の役目だ。もちろん、君もね」
大人から言われる『みんな』という言葉には、ずっと私だけが入っていなかった。
でも、東雲先生の目には、ちゃんと私が見えている。
それがたまらなくうれしくて、私はその時、初めて、自殺しなくてよかったと思えた。
◇◇◇
「なんでこんな普通のことができないの!」
夕食の時間。
私は母にそう言って叱られた。
うつむいて、前を向けない。お腹が空いているはずなのに、胃が痛くて、何も喉を通らなかった。
「先生から電話があったのよ。体調が悪いようだから帰らせましたって。本人が自発的に行きたくなるまで、温かく見守りましょうなんて言われたわ。まるで私が無理やり行かせたみたいに。学校に行くって言ったのはあなたよね⁉ ぜんぶお母さんのせいなの⁉」
「……違います」
か細い声で、私はなんとか、それだけの言葉を絞り出すことができた。
「あなたもなんとか言ってください」
母は、食卓に座る父に声をかけた。
「まあ、時間をかけて行けるようになればいいさ」
新聞を広げて読みながら、そう父は言った。
「そんな適当なことを言って。もう少し関心を持ってくださいよ」
「関心なら持ってるよ。自分の娘のことだぞ」
心外だと言わんばかりに、父は反論する。
「だったら、もうちょっと叱るとかあるでしょ?」
叱ることが前提なの?
そんな反論の言葉さえ口にできないほど、私は疲弊していた。
おそるおそる、父を見る。
父は、ようやく新聞から目を離し、私を見つめた。
「でも、もう治ったんだろ?」
けろっとした顔で、父は言った。
確かにそれは、自分で言った言葉だ。
だけど、それを他人に、あまりにも簡単に言われてしまったことに、ショックを隠し切れなかった。
「……うん」
「だったらもういいじゃないか。仕事が早いからもう寝るよ」
父はそれだけ言って、逃げるように去って行った。
そういうことかと、私は、母の小言を聞き流しながら、妙に納得した。
けっきょく、彼らは私を救いたいわけではないんだ。
学校に行かせるのも、自殺を止めるのも、それが普通のことだから強制するんだ。
そうすることで、何かを考えたり、行動する必要がなくなるから。娘のことについて、思い悩まなくて済むから。自分たちの、普通の生活に戻れるから。
彼らはただ、私に面倒を起こされるのが嫌なだけだったんだ。
私は、もう何度目かも分からない絶望を抱えて、自室へ戻った。
ベッドの上に座り、ボーっとする。
ふと気付いた時、チクリと手に痛みが走った。
見ると、いつの間にか、私はカッターナイフを手首にあてがっていた。
「きゃあ‼」
思わず悲鳴をあげて、カッターを投げ捨てる。
身体がガタガタと震えていた。
怖い。
自分が怖い。
このまま一人でいると、何をするのか分からない。
「死神さん」
ふと出てきた言葉だった。
ハッと顔を上げると、机の上に、小さなハンドベルがあった。
私は慌ててそれを掴み、何度かそれを鳴らすと、壊れるかと思うくらい握りしめて、目を瞑った。
「死神さん。死神さん。死神さん」
まるで呪文のように、唱え続ける。
本当に、こんなことで死神さんと会えるのだろうか。
もしも嘘だったらどうしよう。
そんな不安な気持ちを押さえつけるように、強く強く目を瞑る。
「そんなに強張っていると、顔が歪んでしまいますよ」
ふいに聞き慣れた声がして、私は思わず目を開けた。
ハーブと、甘い薬品の匂いがほのかに香る、自殺用品店スーサイド。
そこに、真っ黒なローブを着た、白い肌の女性が立っていた。
「死神さん!」
私は思わず、死神さんに抱きついた。
「はい。数日ぶりですね、結衣さん」
そう言って、死神さんは微笑み、私の頭を撫でてくれた。
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