あなたは嘘をついています。
唐突に言われたその言葉に、私は唖然としていた。
「故に、最後の一文は書けません」
そう言って、死神さんは、羽根を置いてしまった。
「え、ちょ……待ってください! 私、うそなんてついてません‼」
思わず、私は叫んだ。
しかし死神さんは、どこまでいっても冷静だった。
「……そうかもしれませんね」
「そうかもって……。じゃあ早く書いてくださいよ! 私はいじめられて自殺するんだって!」
「それはできません。この紙は、嘘を書けないようになっているのです」
そう言って、彼女は実演してみせた。
先程からなめらかに文字を書き記していた羽根柄を、いくら紙に擦っても、文字は一切表れなかった。
反論の言葉が溢れ過ぎて、私は、喉奥に何かが詰まってしまったように、何も喋れないでいた。
死神さんは、私が嘘をついていないかもしれないと言った。それなのに嘘は書けないなんて、酷い矛盾だ。
嘘が書けないのなら、私が言ったことが嘘だという根拠を言ってもらわないとフェアじゃない。
「ゆっくりと考えていきましょう」
そんな私に、死神さんは、いつものゆったりとした口調でそう言った。
「私も一緒に考えます。あなたが、どうして死にたいのか。あなたが、本当に望んでいることはなにか」
「だから、さっきから言ってるじゃないですか! 私は死にたいんです‼ いじめられて誰にも理解されないから、早くこの世から消え去りたいんです‼」
この切実な想いが嘘なわけない。
死神さんは分かってくれると思ったのに、けっきょく他の人と同じだ。
私は立ち上がった。
「もういいです。私、帰ります。けっきょくあなたも、何かと理由をつけて、私を自殺させまいとしているんでしょ? 私の気持ちを無視して、否定して、心の中で罵倒してるんでしょ?」
「……あなたは頭が良いんですね。そして、感受性も高い。だから、相手の言葉の裏を読み取ってしまう。望む望まないにかかわらず、手を差し伸べる人の醜い一面を覗いてしまう。そうやって、人を信じられなくなってしまったのですね」
今度はおだてる作戦か。
もううんざいだった。
「あなたなんかには頼りません。さよなら」
私はドアの取っ手を掴んだ。
しかし、それ以上、私の手が動くことはなかった。
これを回し、ドアを引けば、ここから出られる。
頭では分かっているのに、私の腕は、金縛りにあったみたいに動かなかった。
ここから出るということは、現実の世界に戻るということだ。
あの不安や恐怖と、再び直面しなければならないということだ。
それを意識した途端、全身から汗が噴き出て来た。
呼吸が荒くなり、めまいがする。
私を罵倒するたくさんの声が、どこからともなく聞こえてくる。
『気持ち悪い』『自殺なんかして困らせるな』『いじめられるのはあなたにも原因があるんでしょ?』『被害妄想じゃない?』
心臓が、痛いくらいに早鐘を打って、私は思わず胸を押さえた。
嫌だ。帰りたくない。
またあの言葉の渦に呑まれて、身体を切り刻まれるような思いをするくらいなら、ここにずっといたい。
「今日はお泊まりになられますか?」
「……え?」
まるで冷え切った心に、後ろからそっと温かい毛布をかけてくれるように、死神さんは言った。
「お客様にゆっくりと死に浸ってもらうため、そういうサービスもしているのです」
「……で、でも。学校に行かないといけないし。それに、両親も……心配……するだろうし」
およそ、自殺しようとした人間の言うことではない。
けれど、それも本心だった。
自殺して、現実から逃げ出したいと願って、それにも関わらず、誰にも迷惑をかけちゃいけないと、まだ心のどこかで思っていた。
「先程も言いましたが、ここは時間と空間から隔絶された、生と死の狭間です。どれほど滞在しようと、現実の世界で時が進むことはありません」
にわかには信じられない話だった。
しかしそれを証明するかのように、店の奥に掛けられている、小さなベルのついた時計は、私が来店した時と同じ時間を示したまま、止まっていた。自分のスマホを確認するも、電源すら入れることができなくなっている。
死神さんの優しい笑みに促されるように、私は、ゆっくりとうなずいた。
◇◇◇
私は死神さんに、二階にある部屋を案内された。
ベッドと小さな机。何も入っていない本棚と、観音開きの窓。
たったそれだけの部屋だった。
でも、不思議と物足りなさは感じない。余計なものがなく、すっきりしているというのが、私の印象だった。
「お暇なようでしたら、いつでも声をかけてください。別の部屋に蔵書がありますから、言っていただければお持ちします。それでは私は食事の用意を──」
そう言って背を向けた彼女のローブを、私は咄嗟に掴んでいた。
何か用事があったわけでも、聞きたいことがあったわけでもない。
でも無意識に、私は彼女を呼び止めていた。
さっき失礼なことを言ったばかりなのに。
どうしても、彼女に一緒にいてもらいたかった。一人でいたくなかった。
「……少し、お話しましょうか」
私は、注意していないと気付かれないくらい、微かにうなずいた。
私達は、二人でベッドに腰掛けた。
私が呼び止めたのだから、自分から何か話さないといけない。
そう思って色々と考えたが、何故か頭がこんがらがって、言葉にならなかった。
しばらくの間、ずっと沈黙が続いていた。
その沈黙が苦痛で、ぎゅっと目を瞑った時、ふと死神さんが口を開いた。
「トランプ、やりましょうか」
突然そんなことを言う死神さんの顔を、私は思わず見上げた。
彼女はこちらを向き、にこりと笑う。
「私、ババ抜きが得意です」
ちゃっかり自分の得意なゲームを宣言する辺り、死神さんは負けず嫌いなのだろう。
こういう調子の良いところを見せられると、今まで悩んでいたのが馬鹿らしくなって、私は思わず笑ってしまった。
早速、トランプを持ってきてもらって、ババ抜きをすることになった。
「私、誰がジョーカーを持っているか分かるんです。死神ですから」
得意げにそう言って来るが、二人しかいないのだから、自分が持っていなければ相手が持っているのは当然だ。
「私がカードを引いて、重ならなかったことがないんです。コツは相手の視線を読むことです」
そんなことを言いながら、カードを重ねる度に喜んでいる辺り、たぶん死神さんは、二人でしかババ抜きをやったことがないんだろう。
「そういえば」
ゲームをして気分が軽くなったおかげか、私の口はすんなりと動いてくれた。
「ここに来る前、学校にいたんです。あれはなんだったんですか?」
ここが生と死の狭間で、私が自殺したことで死神さんの店に誘われたことは、彼女の説明でなんとなく分かった。
けれど、最初に目覚めた場所が学校だというのは、いまいちよく分からない。
「そこが、あなたにとって一番印象深い場所だったのでしょう」
学校が?
嫌な思い出しかないのに……。
「そういえば、私が眠っていた席。私の席じゃなかったな」
「誰の席でしたか?」
ふと、脳裏に何かがフラッシュバックした。
「……ごめんなさい。思い出せません」
「そうですか。無理に思い出すことはありません。ゆっくりいきましょう。……はい、アガリです。またまた私の勝ちですね」
死神さんは鼻高々だ。
しかし本音を言わせてもらうと、死神さんは弱かった。
ポーカーフェイスなのでババのありかは読みにくいが、それ以上に思考が単純で、ババに誘導するのは簡単だった。
本気でやってもよかったのだが、一度勝っただけでも、死神さんが分かりやすいくらいに拗ねてしまったので、それ以降はわざと負けてあげている。
勝つたびに嬉しそうにはしゃぐ彼女を見ていると、まるで小さな子供と遊んでいるようで、なんだか癒された。
楽しいひとときを過ごし、死神さんは食事の用意をしに階下へ降りて行った。
先程まで、あんなに怖かった一人の時間が、今は何ともなくなっている。
私は、自分の身体をベッドに預け、天井を見つめた。
何もやることがない。
スマホが使えないだけで、日常はこんなにも暇になるのか。
しかしその暇が、なんだかとても心地良かった。
外界から完全に隔絶されていて、周囲の視線もない。
誰にも見られていないということが、これほど開放的な気分にさせることを、私は知らなかった。
死神さんは天国も地獄もないと言っていたが、もしかしたらこここそが天国なんじゃないかと、私にはそんな風に思えた。
「暇だな」
しばらくしてから、紋切り口調でぼそりとつぶやく。
暇というものが、こんなにも贅沢なものなんだということを、私は初めて知った。
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