それからメアリは毎晩、銀翼竜に会いにメル湖へと出かけた。
途中、ファムという精霊にも遭遇した。
初日、メアリを迷わせた精霊だ。
精霊は夜に活発になるらしく、気さくに話しかけてくる。メアリの道中の話し相手になってくれた。
「メアリ、今日は私と一晩中お話をしましょう?」
「ダメよ。私はファフニールに会いに行くんだもの」
「つまらないわ。どうしてメアリは、あんなやつに会いに行くの?」
「面白い話をしてくれるの。私が知らない、外の世界の話」
銀翼竜から聞かされた話を精霊にも聞かせると、精霊も関心を示したように頷いた。
だがいくら誘っても、彼女たちは銀翼竜には会おうと決してせず、その前になると姿を消してしまうのだ。
『やあ、メアリ。今夜も来たんだね』
銀翼竜は、目にした色々な場所での出来事や体験をメアリに詳しく話してくれた。
どれもこれも、メアリが耳にしたことのない、新しくて素敵な物語で、銀翼竜が口を開くたびに、メアリは心を躍らせる。
「ファフニールはうらやましいわ」
あるとき、メアリは雨の最初の雫のように、ぽつりと漏らした。
はるか遠くの小さな音まで聞き逃さない銀翼竜の耳はそれを逃さなかった。
『そうかい?』
「そうよ。だって、あなたの翼があればどんなに遠くても行けるのだもの」
メアリは近くにあった手頃な石を拾い、湖の中へと投げ入れた。
ポチャリ、と音を立てて水の中に落ちる。
それはメアリの力では対岸にまで届くことはない。決して。
「私はこれから何年も窮屈な修道院で暮らすのよ。そこから出られない。その後も、どこかの国の王子様にもらわれて、知らないお城で一生を過ごすの。まるで監獄だわ」
『監獄は言い過ぎだろう。少なくとも、囚人より大切に扱ってくれる』
「篭の中の鳥と同じよ」メアリは再び石を投げる。「私は鳥じゃなくて人間よ。メアリ・ヴァン・スチュアトリカなのよ! ねえ、ファフニール」
『なんだい、我が友メアリ』
「私を、連れ出して欲しいの! あなたが語ったような素敵な世界を、私も見てみたいの! あなたならできるでしょう!?」
『……ふむ』
銀翼竜はいつになく真剣に考え込む。
世界を物語とするなら、登場する物にはそれぞれ役割がある。メアリにはメアリの、銀翼竜には銀翼竜の役割が。だが、与えられた役割が、必ずしも役者にぴったりとは限らない。
メアリがそうだ。初対面から銀翼竜を恐れず、こうして毎夜会いに来て、話を聞く。
それは、ヴァン帝国第三皇女という本来の彼女の役割ではない。
もちろん、銀翼竜はその願いを拒否することはできる。
だがそれは、彼女に不本意な役割を一生押しつけることに他ならない。
頭の良い彼女だから、それなりに折り合いをつけて生きていくだろう。だが決して幸福にはなれないに違いない。
幸福を妥協し、篭の中で生きていくことを彼女は恐れている。
銀翼竜はここで、自分が彼女の人生の大きな岐路を担っていることを、自覚していた。
『メアリ』
銀翼竜はメアリの目を見据える。どこまでもまっすぐで綺麗な、自分と同じ赤色だ。
『君の願いを叶えることはできる。だが、対価として君は何を差し出す?』
「信仰を」メアリは迷いなく言った。「神ではなく、あなたに仕えるわ、ファフニール」
メアリは手の甲を指しだした。そこには、神の紋様が刻まれている。
神の加護の証だ。神に仕える代わりに、幸運や知恵などの恩恵を授かっている。
皇族の人間は、生まれたときに洗礼を受け、神の加護を得る。
それを捨てるということは、皇族であることを捨てることと同義だ。
『それは君を閉じ込める篭の主が、帝国から私に変わるだけだぞ』
「あなたは色々なところを飛び回るのでしょう? あなたの篭は、帝国よりもずっとずっと大きいわ。私は、色々な世界が見たいの。花園と自分の部屋を行き来するだけの生活は、うんざりだわ」
『いいだろう!』
銀翼竜は大きな翼を広げた。
銀翼竜が立ち上がると、その体はいっそう大きく見えた。メアリの体は、彼の影に覆われて完全に隠れてしまう。
『メアリ・ヴァン・スチュアトリカ。明日の夜にここに来なさい。そのときに君の気が変わっていなければ、私の信徒として迎え入れよう』
「今すぐではダメなの?」
「準備があるだろう。君も、私も。親しい者に別れを告げてきなさい」
※ ※ ※
メアリは夢を見た。
その場所は、お城の自分に与えられた一室だ。
2度と城らないと決意したその日の夜にこんな夢を見るということは、やはり自分は多少は城での生活に未練があるということなのだろう。
メアリはベッドの上で寝ていた。
そのメアリの額に、柔らかくて温かい手がそっと触れる。
……母の手だ。
母は厳格な人だった。
メアリは顔を合わせるたびに怒られていた記憶しかない。
挨拶や食事のマナー、社交の場での礼儀、ダンスに教養。
すべてが母にたたきこまれたものだ。遊ぶ暇なんて一日だってなかった。
厳しい母の教育の前に心が折れそうになるたびに、第二皇女のアレッタの部屋に逃げ込んだのを覚えている。
そんなメアリが唯一、母のことを好きだったのが寝る前だ。
母は必ず、メアリが寝付くまでそばにいてくれた。
手を握って、静かな歌をうたってくれたものだ。「ああ、我が子。お眠りなさい。夢の世界で素敵な妖精たちが、あなたの帰りを待っているわ」と。
昼間は厳しい母が、寝る前だけはとても優しかった。
その時間があったから、メアリは母が自分を愛していることを実感できた。
母が亡くなったのは5歳の頃だ。
病気だった。
母の死後、メアリに会いに来る者は極端に少なくなり、メアリは鍵のかかった自室から出ないように命令された。
後ろ盾を失った皇族の扱いなどそんなもの。
メアリは一日中、自分の部屋の中で孤独に過ごした。
外に出ようと思っても、鍵がかかって空かなかった。
母が死に、寂しさの増した自室で1人きり。
与えられたのは、読み飽きた本と冷たい食事のみ。
毎日が退屈で仕方なかった。
いっそ死んでしまいたいと思ったことも1度ではない。
あのときの暮らしには、もう戻りたくはない。
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