「オマエが、ヒメちゃんのアトガマなの?」
それが、初めて耳にした瓜江累の肉声だった。
フワフワした中性的な声。
舌足らずな、たどたどしい響きが鼻についた。
甘ったれた幼い子供のようで。
オレには、問いかけの意味がとっさには理解できなかった。
それ以前に、サディスティックで狡猾な愉快犯と思いこんできた瓜江累の実際の姿……体と神経がデタラメに混線しているかのようなチグハグな物腰と目つきや、白痴めいた緩慢な口調に……衝撃を受けたオレは、絶句した。
瓜江累は、眠たげに目をしばたたかせていた。
長い睫毛がハタリハタリと上下するたび、ゴージャスなハネを持った南国の蝶のハバタキを連想せずにいられなかった。
後ろに反らしていた頭をゆらり横にかしげると、傍らに立っていた男を見上げて、また緩慢に口を開いた。
「ねえ、言ったよねぇ? 僕……」
そこまで聞いただけで、なじるような言葉のニュアンスをすぐに察したらしい男は、姿勢のいい長身をかがめて、ヤツに耳を寄せた。
シワひとつない真っ白な白衣がイヤミなくらい良く似合う、理知的な白皙の医師。
彼が、この贅沢な独房の実質的な管理責任者で、異形の麗人の御目付役とも言うべき湯滝主任だった。
「……見た目が可愛いだけの『オモチャ』には、もうウンザリって。今度はガンジョウで壊れにくいのにしてくれって。僕、言ったよね?」
小声でささやいたつもりらしいけれど、舌足らずなくせに良く響くヤツの声は周囲に丸聞こえだった。
形のいい唇を不満そうにとがらせても、もともと口角がやんわりと上を向いているせいで、イタズラっぽい笑いを含んで見えるのだ。
あどけなささえ感じる表情に、無垢な幼い子供にありがちな野放図な残虐性みたいなものを、……とうに成人しているはずのこの男に……感じずには、いられなくて。
そのときオレは、本能的な嫌悪を覚えてゾッとした。
湯滝主任は、そんなオレをチラリと一瞥した。
銀ぶちの眼鏡のレンズをとおした三白眼気味の切れ長の目は、配慮や気づかいとかよりも、新米の看守の反応を確かめたいだけに見えた。
オレは、多分そのとき、醜悪な害虫が急に目の前に飛んできたかのように眉間に深いシワを寄せながら、不遜な死刑囚をにらみつけていたはずだ。
仕方ない、ポーカーフェイスは本当に苦手なんだから。
おまけに、口の方もそんなにガマン強いほうじゃないから、思わず漏らした。
「サイコ野郎、……くたばれ」
なんならついでに、蒼白く繊細な陰影をのぞかせるヤツの端正なノドに両手をかけて、力いっぱいクビリ折りたかった。
隣にいた黒柳がビクリと全身をこわばらせたのが気配で分かった。
つくづく小動物みたいなヤツだ。
湯滝主任の方は意外にも、新入り看守の暴言を眉一つ動かさないでスルーしてくれたけれど。瓜江累は、そう甘くはなかった。
ロココ趣味の画家が丹精をこめて描いたような優雅な柳眉を片方だけ器用に跳ね上げて、赤と青の入り混じった複雑な虹彩の双眸をオレに据え付けた。
頭と体は微動だにせず目線だけをスッと動かしながら。
「ふうん? 見かけのわりに……けっこう熱いんだ」
血色に欠ける淡桜色の唇が発した物憂げなささやきを、オレが鼓膜にとらえきるより早く、完全にリラックスしているように見えた瓜江累の体が予想もつかない瞬発力を見せつけて、上に伸びた。
蒼みがかった白銀に揺らめく長い巻き毛と生成りの衣服が目の前をフッと通り過ぎると、大輪の花びらが気まぐれな突風に吹かれてフワリ宙に舞いあがったような、そんな場違いなシーンが脳裏をよぎって。
オレは、完全に虚をつかれた。
その一瞬のスキに、瓜江累は、オレの後ろにまわりこんでいた。
長い腕が絡み付いて、オレの上体を縛りつける。
片手で腰を押さえつけられただけで、下半身の身動きがとれない。
さも優雅な風貌を見せつけておきながら、なんてバカ力だ。
もう片方の手は、オレの肩の上にスルリと巻きついてきた。
しなやかな猫科の野獣を思わせる柔軟な腱の感触を、首筋に感じた。
同時に、ブルジョア趣味のノーブルな石鹸の匂いがフッと鼻の先をくすぐったから……そう、なんというか、官能的に……いや、まさか、違う、そんなわけない。
あのとき、オレの緊張感が急激に弛緩して、瓜江累の胸元にふがいなく寄りかかってしまいかけたのは、絡みついたヤツの腕にノドを圧迫され、一時的な酸欠に陥ったからだ。
それだけのこと……
メマイにも似た感覚でフッと体から力が抜けた……が、同時に、突き刺すような痛みが右の耳たぶを急激に襲ってきて、たちまち我に返させられた。
オレは必死で肩をよじらせ、首筋に貼りついていた瓜江累の上腕を両手でつかんで、精一杯にひねり上げた。
人間の関節というやつは、逆方向に対しての力には極めてモロいものだ。
まともな人間なら、たいていは悲鳴をあげて逃げ出すはず……だが、瓜江累は、まともな人間じゃなかった。
オレの耳に噛みついたまま、執拗に離れようとしなかった。
オレは、焦りと恐怖でパニックになりかけながら、体ごと持ち上げるように、瓜江累の腕をさらに上空に突き上げた。
関節のはずれる音が、「ガコッ」と、気持ちいいくらいにハッキリ響いた。
もし、その腕を根元から引きチギったとしても、瓜江累は痛くも痒くもないんだった……
そう思い出したのは、黒柳と湯滝主任が2人がかりで瓜江累にしがみつき、息を切らせながら引きずり倒した直後だった。
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