派手に尻もちをつく格好になった瓜江累は、フカフカの絨毯の上にゆっくりと片手をついて、体を起こそうとした。
だけど、なぜかすぐにバランスを崩して、後ろにのけ反った。
一瞬前の驚異的な俊敏さが、ウソのようにナリをひそめて。
それは、初めて自分の足で立ち上がろうと試みて引っくり返った赤ん坊のようで。自分の四肢をコントロールする術を急に忘れ果ててしまったかに見えた。
滑稽なくらい不器用なアリサマだった。
なにより当の本人が、自分の失態に一番驚いたらしく、呆然と目を見開いて見せたのが、イヤに薄気味悪かった。
でも、理由はすぐに分かった。
瓜江累は、「自分の片腕が脱臼していることに気付いていなかった」から、「普段どおりに両腕を使って」立ち上がろうとしたんだ。
なんの疑問もなく自然と、両方の腕に体重をかけた「つもり」だった。
でも、脱臼した片腕が思いどおりに動くハズがなくて。左右の均衡を失って、ブザマによろけたんだ。
その瞬間に、オレは完全に理解した。
「痛みを感じない」というのは、つまり、そういうことなんだ、と……
同時に、嫉妬のようなヤボったい感情が新たに胸の内に沸き上がった。
オレの耳は、立っているのがやっとなくらいの激痛でオレを責めたてて、傷口にあてがった手の平が焼け焦げてしまいそうに火照って熱いのに。
対する瓜江累は、みるみるうちにヒジの方まで真っ青に腫れあがった腕を平然とブラ下げたまま、キョトンと小首をかしげながら、無邪気にオレを見上げているんだから。
鼓膜のすぐ隣で激流と化している血流は、豪雨のようにザーザーと、オレの脳ミソにリアルな音を伝える。
不安と焦燥をカキ立てられてやまない。なのに……
オレは、唇をかみしめた。
場違いな悔しさと、妥当な怒りで。
オレだって、この身をどんなに傷つけられても痛みを感じることなく、平然としていられるなら。
たとえば自分の腹をエグラれたとしても、真っ暗な空洞に気付かないままダラダラ血を流し続けて、そうやって、脳は酸素を失って、いつの間にか自然と、平穏な無機物になってしまえるのならば……どんなに穏やかに満ち足りた結末だろう。
流れ出る血が、オレの脳裏に無意味な幻想を描かせる。
ああ、そうか……
慈悲深い神さまが、どうしてたびたびヒトの子に残酷すぎる災禍を与えたがるのか。分かった。
神さまは「全能」かもしれないけど、「全知」じゃない。
ヒトの子の痛みが、全く理解できないんだ。
全能の神さまにとって肉体の苦痛は、しょせん未知の感覚。だから……
だから、罪もないオレの弟に、柱にハリツケにさらて生きたまま内臓をエグられる、残忍な試練を平然と与えたんだろう。
そして、それをその父親に見せつけさせて、真の絶望に追いつめさせて、その命を自ら断たせて。
敬虔な神さまの信者だった父さんを、破戒者に成り果てさせた。
神さま、ああ、慈悲深きサイコ野郎。
アンタに「痛み」を感じる肉体があったなら、そんな試練は、いくらなんでも度を越したヤリスギだってこと、分かったハズなのに。
そんなイカレた蛮行をみすみす見逃して、「耐えられない試練はない」なんてシタリ顔で気休めを言ってのけるのは、アンタが「痛み」を味わったことがないからだ。
霜介は、どれほどの苦痛と恐怖を味わいながら息絶えていったことか。
正常な思考を失って発狂してしまえたことだけが、唯一の救いだったろう。
でも、そんなの遅すぎた。ナケナシの救済にすぎなかった。
かわいそうな霜介。
いつもニコニコと微笑んでいて。ちょっと気が小さいくせに好奇心が強くて。素直で可愛いヤツだった。
本当に可愛い、大事な弟だった。
まぎれもない善人だった。
生きながら解体されゆく霜介の断末魔を目の前にしていた父さんの怒りと悲嘆は、オレにはたやすく想像できる。
自分自身を責めて、悔やみきれない後悔に打ちのめされながら、我が子を切り刻んだその刃物で、ためらいなく自分の心臓を突き刺したんだろう。
父さんは、ただ一途に、正義を貫いただけだったのに。
裁判官として、1人の凶悪な殺人犯に、死刑を宣告しただけなのに。
その相手が瓜江累だったせいで、ヤツの狂信者どもから理不尽な報復を受けてしまった。
こんな理不尽が、神さまの試練だと言うのか?
これほどの試練にもヒトの子は耐えて、アンタを崇め続けるべきなんだと?
だとしたら、ねえ、神さま。アンタはホント、救いようのないサディストだ。
―――天使の名前を持つ"この化け物"に、アンタは良く似てるよ……
オレは、怒りを頼りにして、できるだけ涼しい顔をとりつくろった。
目の前の綺麗な化け物にナメられたくなかったから。
まあ、実際のところは、全身に脂汗が吹き出して、上体がフラフラと左右にゆらめきながら、視点も定まらないアリサマだったけど。
瓜江累の唇が赤く染まって、イタズラを隠した子供のような薄笑いをニンマリ浮かべながら、オレの視界いっぱいに霞んでいたから。
ムカついて仕方なくて、アリッタケの負けん気で必死に目をこらした。
ようやく瞳の焦点が定まったとき、瓜江累が絨毯の上にペッと血のカタマリを吐き出したのが、ちょうど見えた。
足元に飛んできたそれがオレ自身の耳タブだと気付いた瞬間、オレの意識は、こらえきれずにフッ飛んだ。
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