ああ、そうだ、
―――オレは、今、途方もなく深い深い海の底をのぞきこんでいるんじゃなかったか?
そんな突拍子のない唐突な錯覚に襲われて。
アタマの中の回路の一部がグニャリと歪んだような、トランスめいたメマイに取りつかれれば、天窓の真下でくつろいでいる、この"密室の主"の姿も、深淵の奥深くの未知の魔境に巣食う人魚まがいの人外にしか感じられなくもなる。
そうだ、まさしく。深淵の人魚そのものだった。
彼と初めて出会った印象は。
ソデと身頃のタップリしたチュニック様のキナリの一枚服のスソからのぞくその足には、もちろんウロコひとつ生えていなかったけれど。
それどころか、真っ白いフクラハギには一点のシミもキズもなく、生まれたままのビスクドールのような無機質なツヤを放っていて。
ロイヤルブルーの絨毯の上に無造作に投げ出された右足。リラックスした状態からでも、しなやかな骨格を包む強靭な腱がうかがい知れる。
意外なものか。人知の及ばないほどの深い深い海の底の壮絶な水圧を物ともせず思うまま自在に泳ぎまわる人魚なら、その優雅な肢体の内に不屈の筋肉を備えていて当然じゃないか。
折りたたんだもう片方の足を、愛しむように両腕で抱きかかえたまま、立てたヒザの上に突っ伏すようにしてうつむいていた頭を……ギョッとするくらい急な動きで……カクンと後ろに倒してから、ユックリ緩慢に首を横にかしげて、目の前に立ちすくむオレを見上げた。
突然に命を吹き込まれたアヤツリ人形じみた風変わりなシグサと、浮き世ばなれした美貌を見せつけられて、オレの突発的な妄想にもいっそう拍車がかかって。
深淵の人魚は、そのスガタカタチにも、深海のモチーフをきらめかせていた。
腰まで届きそうな長い髪。
おぼろな採光のもとでは銀色に見えるほどに淡い白金の色も、柔らかなウェーブも、いずれも生まれつきだという緩い巻き毛が、彼の些細な身じろぎにも敏感に寄り添ってユラユラと揺らめくさまは、波のよう―――海の上の暴風雨も、深淵の底に届くころには人魚の柔らかな髪の先をわずかにくすぐる程度の、こんなササヤカな優しい波に変わるんだろう。
ついに念願のカタキと対面したオレの心の内側で荒れ狂う激情も興奮も、いずれは穏やかに凪いでしまうんだろうか。
それほどに、この水底は深いんだろうから。
天に仇なそうとばかりに逆巻く怒涛をも、なだめてしまうほどに。
深く深く深く……ああ、なんて深い……
……ダメだ。これは危険だ。
飲み込まれる、彼の深淵に。
彼の瞳の深海……髪の毛と同じ繊細な白金のマツゲに密に彩られたアーモンド形の輪郭は、夢見るようにケブって見える。
が、そこに浮かぶ瞳はクッキリと澄みわたっていて。
一種のアルビノ症により、瞳孔には血の色がいくらか反映され、赤味がかった葡萄の色……
みずみずしい果実を囲む虹彩は、極北の海のよう。
分厚い永久氷壁の下にひそむ透き通った海。一片の濁りのないアクアブルー。
彼の優雅な顔貌のうちで、唯一、硬質な手触りを感じさせるのは、この虹彩の輝きだった。
至高のブルーダイヤモンドのように冴え冴えとした透明感は、けれど、むろん、この手で実際に冷ややかな硬度を確認することは絶対に許されない部位で……なのに、無性に触れたくなるのはなぜだろう?
あまりに透明すぎるから、深淵の底に沈む果実に手が届きそうで。
あまりに透明すぎるから、本当の深さに気付けずに。不用意に近付いて、飲み込まれて、沈んで。
沈んで、沈んで、どこまでも沈むと……ああ、その奇妙に無機質な深淵の芯には、幾多のヒトの血の色がナマナマしく吸い込まれている。
まがまがしい葡萄色の果実……
どうかしている。
見る者を妖しくも明確な幻想で包み込み懐柔する異様な力が、その異形の瞳にひそんでるんじゃないか、なんて。
オレは、そのとき恐れたんだ。
そして、その力こそが、彼を慕う狂信者たちを意のままにアヤツり、幾多の殺戮をタメライなく実行させたんじゃないか、と。
そんなのは、バカバカしいザレゴトだけど。
でも、父さんと弟に惨たらしい最期をもたらした元凶が彼だということには、一縷の間違いもない。
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