そのベッドには、それまでに見た病室の患者たちとはレベルが違う、度を越した痛々しい姿が横たわっていた。
オレは、思わず息を止めて、入り口に凍りついてしまった。
おかげで、患者は目を覚ましてしまい、思いがけない侵入者の存在に気付いた。
そして、右手をそろそろと頭上に伸ばすと、ヘッドレストに固定されたリモコンのスイッチを指先で探って押した。
すると、ベッドの背もたれが45度ほど起き上がって、光量の強いシーリングライトの真下に照らし出された女性の顔がようやく見えた。
黒目がちの大きな右目は困惑に震えていて、左目は、顔の半面を覆っている包帯によって隠れている。
「ぅ……あええおお?」
枕に頭を埋もらせたまま、彼女は、細いマユ毛をゆがめて、くぐもった細い声をあげた。
どうやら、言葉を発するのが困難みたいだ。ケガか薬の影響なのだろうか。
でも、柔らかそうな栗色の髪をひたいに垂らした青白い半面は、オレへの不審と当惑をあらわにしていて。
彼女の理性や判断力には、問題はなさそうだ。
「あの、急にお邪魔してスイマセン。自分は、新任の刑務官で……」
言いながら、オレは、チラッと素早くベッドの名札を見た。
『矯正処遇部・姫川 雪美』
"姫川"といえば、たしか、黒柳が、初対面のオレを「姫川さんの後任」と呼んでいた。
それに、瓜江累もオレに向かって、「姫ちゃんのアトガマ」という言葉を漏らしていた。
ということは、オレと同じく20代前半とおぼしきこの女性、姫川 雪美は、オレの前任者として、瓜江累の専任の看守を務めていた人物なんだろう。
そこで、オレは、相手の警戒心をやわらげるために、つけくわえた。
「新田 桂介といいます。あなたの後任の……」
言いかけた瞬間、姫川雪美は、我を忘れたようにベッドの上にガバッと上体を起こし、「ウウッ」と苦しそうにうめいた。
オレは、急いで駆け寄って、彼女の肩を支えながら、再びベッドに寄りかからせた。
「だ、大丈夫ですか? ムリはしないほうが……」
そう言っているうちにハッと気付いて両手を離す。
彼女は、衣類をまったく身につけていなかったのだ。
かわりに、全身のほとんどをくまなく包帯とガーゼに覆われていたから、肌の露出は病衣よりも少なかったけれど。
とはいえ、華奢な体の輪郭は、病衣を着ているよりもロコツだったから、オレはアセって、彼女のヒザのあたりに丸まっていた毛布を首元まで引っ張りあげて隠した。
けれど、姫川雪美は、自分で毛布をはぎとって、両手を外に出した。
それから、その手をベッドサイドに伸ばそうとしたが、よほど重傷を負っているらしく、見ているだけでひどく大変そうだった。
「なにが欲しいんです? 水ですか?」
と、オレは、かわりにベッドサイドのテーブルに手を伸ばしながら、たずねた。
姫川雪美は、そんな簡単なシグサすらも億劫そうに、緩慢に首を横にふった。
そして、片方しか見えない目線で、テーブルの上の一点を示した。
そこには、B5サイズの電子メモパッドが置いてあった。
発話の困難な彼女が文字によって意思を伝えるためのツールなのだろう。
オレは、彼女の右手にタッチペンを渡し、メモパッドの電源ボタンを押してから、彼女の手元にディスプレイを支え持った。
彼女は、苦しげに顔をしかめながら、ぎこちなく震える手でパッドに文字を書きはじめた。
しばらくすると手を止め、オレの顔に視線をうつした。
オレは、パッドを引き寄せて、乱れた文字を読みあげた。
「『いますぐニゲロ。あいつは痛みを感じないくせに、痛みにドンヨク』……」
「…………」
「あいつ……? 痛みにドンヨク、って……どういうことですか?」
オレが首をかしげると、姫川雪美は、いきなり大きく口を開いて、中を見せつけるようにアゴを反らした。
オレは、戦慄した。
"舌足らず"なんてもんじゃない。彼女の舌は、普通の人の半分の長さもなかった。
舌の先端は、真ん中がヘコんでいるイビツな半円形で、その輪郭はギザギザだった。
オレの見立てによれば、その輪郭は、誰かの「歯形」と合わせれば完全に一致するに違いない。
おそらく、それは、噛みちぎられたオレの耳とも一致するだろう。
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