「血の天使」、「美のアイコン」、「神秘のカリスマ」……
瓜江累の名前に不遜な冠がいくつも掲げられはじめたのは、オレが緋連沢に赴任するより6年あまり前のことになる。
瓜江累は、演劇ファンの界隈ではちょっと名の知れた、新興の小劇団の座付き役者だった。
その当時オレは高校生で、同級生の1人が校内の演劇部に所属していたおかげで、彼のウワサをけっこう耳にした。
いわく、劇団・魚鱗宮は、演劇ファンの間ではアングラ劇団と位置付けられていて、不条理で幻想的な舞台がウリだった。
21歳で初舞台を踏んだ当初は、セリフもほとんどない端役ながら『人外の精霊』という役柄が浮き世離れした美貌に見事にハマり、一部の劇評家から絶賛を得た。
それから1年たらずのうちに、無名のシロートから看板俳優にまで祀りあげられていったそうだ。
魚鱗宮のナジミの劇場に足しげく通っていた、その同級生によれば、瓜江累の演技はお世辞にも上手とは言えず、むしろ救いようのないダイコンだったらしいのだけど。
比類のない容姿はもとより、とりとめのない歌でも口ずさむような独特の抑揚のセリフまわしと、神がかりな祈祷の舞いをほうふつとする恍惚めいた所作が、観客を魅了してやまなかったそうだ。
その美貌、声、一挙手一投足が圧倒的に俗人離れして、神秘的な魅力を放っていたうえに、その魅力には、逃れようのない中毒性があったという。
いったん瓜江累の「怪演」に魅せられてしまったら、とりつかれたように舞台に通い詰めずにはいられなくなったそうだ。
マイナーな小劇団には珍しく、発売と同時にたちまち完売するようになったプレミアチケットを握りしめて魚鱗宮の公演に押し寄せた観客は、つまり、ほぼ全員が瓜江累の熱狂的なファンだった。
そんな中で、あの事件は起こった。
かぐや姫のお伽噺をモチーフに、高慢な月の姫君と醜悪な鬼との悲恋を描いたという魚鱗宮十八番のレパートリー。
その、満場のスタンディングオベーションに沸いていた千秋楽のカーテンコールで、メインキャストが勢ぞろいしていたステージの上にいきなり1人の少女が駆け上がった。
少女は、高校の制服のスカートを大胆にひらめかせながら、ステージの中央に立っていた瓜江累の前に突進すると、真正面から体当たりするような格好で、両手に抱えていた大きな花束を押し付けた。
直後、瓜江累と少女の間に挟まれた白い薔薇の花束に、真っ赤な飛沫が飛び散った。
瓜江累は、花束の中に隠されていた短刀でワキ腹を刺されていた。
凶器の切っ先が肝臓に達していたために、鮮血の量はおびただしく、瓜江累の衣装も激しく染めた。
ステージは騒然となった。
ヒロイン役の若い女優の絶叫がひときわカン高く響きわたる。
観客の多くはまだ事態が飲み込めず、当惑してザワついていた。
普通の人間なら、仮に意識は保てたとしても激痛に顔を歪めて崩れ落ちたはずだろう。
だけど、瓜江累はやっぱり「普通の人間」ではなかった。
魔神と契り永遠の美貌を得た幽鬼の役をまだ演じ続けているかのように、その場に悠然とたたずんだまま、綺麗な唇の端には間違いなくうっすらと微笑みさえ浮かべていた。
自分の血でマダラに染まった薔薇の花弁に見惚れながら、だ。
血相を変えてステージに飛び込んだスタッフたちに両脇から支えられながらも、自分の足で静かに舞台ソデにハケて行った。
凍りついた客席に向かって、柔らかな会釈すら残しながら。
ステージの床に点々と刻みつけられた血の軌跡すら、瓜江累の非凡な魅力をアピールするための珠玉の演出のようだった。
現に、この流血のハプニングを劇団側が仕込んだサプライズだと思いこみ、指笛を吹いてはやし立てる観客も少なからずいた。
それほどまでに、赤と白の花束を抱いたままステージから消えて行った、血まみれの瓜江累の態度は、落ち着いて静かだった。
大量の出血のために、綺麗な顔からはみるみる血の気がひいて真っ青になっていたけれど、それがむしろ人間離れした幽玄な微笑を際立たせて、劇場内の全ての人を異様な陶酔に陥らせた。
中でもとりわけ場違いな感動に打ち震えたのは、誰あろう、瓜江累を刺した17歳の少女その人だった。
舞台裏から飛び出してきたスタッフたちが一斉に彼女を取り囲むと、小柄で華奢な少女は、長い黒髪を振り乱しながら、手に持った短刀をヤミクモに振りまわして牽制しながら、ヘナヘナとその場に膝まづいた。
このとき、スポットライトの下にきらめく刃の光をハッキリ目にとらえた観客たちの間に、ようやく悲鳴と怒号があふれ出した。
ステージの中央にうずくまった少女は、短刀を握りしめた両手を前に差し出した。祈るような格好で。
それから、おもむろに目の前の床をなめた……いや、正確には、床に残っていた血をなめた。
迷える子羊が教会のワインを押しいただくような厳かな敬虔さで。
瓜江累の血を、なめた。
ステージの上では平然と微笑んでいた瓜江累だったけれど、実際には、生死に関わる重傷を負っていた。
救急車で搬送された病院で応急処置を受けた直後、先進医療の設備と技術を備えた医療機関に移送され、そこで3か月近くの集中治療を要するほどだった。
凄惨にして妖麗なカーテンコールの一部始終が、この日の観客が携帯で撮影した映像を介してSNSなどに公開されると、またたく間に拡散されて世間の話題をさらい、そして、瓜江累の狂信的な信奉者を数多く生み出した。
生死の境で超然と微笑んでいる瓜江累の姿には、戦慄を覚えずいられた者のほうが少なかったろう。
それもそのはず、瓜江累には、生まれつき痛覚がなかったのだから。
『先天性無痛症』というやつで。どんな大ケガやヤケドをしようとも、痛みや熱さを自覚することができない。
だから、6年前のその事件で、鋭利な白刃で肝臓を突き刺されても、当の本人は、蚊ほどの衝撃も感じていなかったはずだ。
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