いんかれ! ~インカレサークルに入ったと思ったらインドカレーサークルだった~

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第4話 カレーのちナン

公開日時: 2020年11月23日(月) 19:04
更新日時: 2020年11月23日(月) 19:31
文字数:7,985

 どのくらい経っただろうか。部屋の中のごみの量くらいしか、時間を教えてくれるものはなかった。

 カップラーメンは既に底をついていた。それから、中川原は何も食べない日々を送っていた。空腹も、慣れてしまえば太陽が昇るくらいに自然なことだった。実際今日に至るまで、中川原のありさまをよそに、何事もなかったかのように太陽は昇り続けた。

 携帯電話は、充電が切れてからというもの、電源を切りっぱなしであった。したがって電話もメールも中川原を惑わすことはなかったが、玄関のチャイムが鳴ることは時々あった。しかし当然のように、中川原はすべて無視した。けたたましいチャイムの音も、中川原にとってはもはや、夏の昼下がりの風鈴の音のように生活に溶け込んだ音になっていたのだ。実際のところ、もう七月、夏になっていたのである。

 夏の暑さが、中川原をさらにだらしなくさせた。中川原はおかしな柄のTシャツ一枚で横たわっていた。親にもらったものの柄が気になって全く着ていなかった服だったが、どうせ誰も見ないのだったら気にならなかった。服のあちらこちらに、カップラーメンのシミがついている。

 ——寝ようか。中川原がこの日々でやることと言えば寝ることくらいしかなかった。それは昼夜を問わずだった。今何時くらいなんだろうか、でもそんなことはもうどうでもいいや——。中川原は布団に向かうのもおっくうになり、散らかった雑誌の上に寝そべった。

 遠い天井を眺めながら、中川原はふと、どうしてこんなことになったのかを考えた。経緯ははっきりとは思い出せなかった。だが、大学生活が嫌になった、誰からも身を隠したかった。そのことは覚えていた。……誰からも身を隠したい? 身を隠すほどの知り合いなど、どれほどいるだろうか。

 頭を巡らせる——その中で浮かぶのは、そんな中、インカレサークルの面々だった。この3か月ちょっとの間、最も深くかかわったのは、結果的にはインカレサークルだったのである。それにそもそも、放っておいても思い浮かぶような強烈な経験、それは大学生活が始まってからインカレサークルを置いて他になかった。

 寒河江先輩、今どうしているかな——。海老沢先輩、また変なカップヌードルの食べ方をしているんだろうか。薬師寺先輩は私のことを心配しているかな。そんなことに頭を支配されていることに自嘲めいた笑みを浮かべつつ、中川原は深い眠りへと落ちていった。

 

 

 夢を見た。回転寿司店に行く夢だった。席に座り、湯呑にお湯を注ぎこむ。そして、さて何を取ろうかとお寿司が回るレーンを眺めた。しかし、お寿司は流れてこなかった。かわりに流れてきたのは、香ばしい香りを放つインドカレーとナンであった。中川原は驚いてあちこち見回した。そのときわかったが、店内はインド人とネパール人でいっぱいではないか。

「舞ちゃんは何を食べるのかな?」

 なぜか隣に座っている寒河江向日葵が、わくわくしながらレーンを見ている。何、といったって、回転寿司に比べて選択肢がはるかに少ないではないか。そもそも回転寿司を食べようとしてやってきたのに、インドカレーを食べる気になどならない。中川原は気を取り直すために先ほど入れたお茶を飲んだ。変わった味がした。そう、お茶もなぜかチャイになっていたのである。

「チャイが飲み放題というのは素晴らしいですねえ」

 そう言ったのは海老沢だ。海老沢は既に3杯ほどチャイを飲んでいた。お腹の中はチャイの海になっているだろう。やれやれ変な先輩の相手は大変だと椅子にもたれかかったその時、薬師寺が流れてきたバターチキンカレーを取り、中川原に薦めてきた。

「これは私のおごりでいいよ、舞ちゃん」

 そう言われて中川原は両手を開いて突き出す。

「いや、私お寿司を食べに来たんで、カレーのつもりじゃなかったんですけれど」

「インドカレーはインドにおけるお寿司みたいなもんだよ」

 意味不明な理論でインドカレーを押し付けてくる。困ったなあ、どうしようか、とあたりに目を配ると、もう寒河江と海老沢は各自インドカレーを手に取って食べているではないか。ナンを無邪気にほおばって、笑顔をこぼす姿。それを見ていると、中川原もどうでもよくなってきた。中川原は、はあと息をついた。

「まあ、お腹が空いているから、いいですけれど」

 そう言ってカレーとナンに手を伸ばす。ちょっとおかしいけれど、いつの間にかなじみのものになった、インカレサークルの日常。中川原はそんな日常とインドカレーに浸っていたが、しかしこれは夢である。満たされない欲望に、中川原はそっとお腹をなでおろす。

「……お腹空いたなあ」

 その時であった。ピンポーンとチャイムが鳴り、中川原の眠りは中断されたのであった。

 中川原はしばらく無視していた。するとチャイムがピンポーンピンポーンと、たて続けにけたたましく鳴るのであった。チャイムに慣れた中川原にとっても、初体験のしつこさであった。

 ……いい加減にしてほしい。中川原は扉に一発蹴りでも入れて、帰ってもらおうと思い、のそりのそりと扉へと向かった。

 しかしここで、不思議なことが起こった。さっきまで来客を追い払おうとしていた中川原が、突如、ドアノブへと手を伸ばしたのだ。何が起こっているのか、中川原自身もわかっていなかった。しかし一つだけ確実なことがあった。——中川原は、お腹が空いていた。

 なんのことはない。扉の向こうからは、おいしく、どこかなつかしい匂いが漂ってきていたのである。そんな匂いに導かれているとは意識せぬまま、中川原はがちゃりと扉を開いた。……いずれにせよ、カギはかかっていなかったのだが。

 扉の向こうには、外国人らしき人間がいた。彼は開口一番にこう言ったのである。

「ナマステ」

 

 

 賢明な読者諸君ならお気づきだろう。そう、玄関にはあの「デリーバリー」の店員が立っていたのだ。しかも、訪問客は彼だけではなかった。インカレサークルの面々、さらには三角入江もいたのである。彼女たちは、両手にうちわを持っていた。彼女たちは、扉のわずかな隙間から、うちわでカレーのインドカレーのにおいを送り込んでいたのであった!

「……どうしてここが」

 中川原は開口一番にそう言った。

「ごめんね、舞ちゃん。実は舞ちゃんのお母さんに事情を話して……」

 小学校からの友人である三角は、中川原の実家の住所を知っていた。実家に訪れて母親に事情を話し、中川原の現住所を教えてもらっていたのである。

「舞ちゃん……よかった、ちょっとやせたみたいだけれど」

 薬師寺が中川原を見てそう言った。薬師寺、寒河江、海老沢——インカレサークルのメンバーは、そろってどこかほっとしたような顔をしている。

 薬師寺、寒河江、海老沢。そう認識したところで初めて中川原の思考は動き出した。そして自分の今のありさまを恥じ、とっさに扉を閉めようとした。ところが薬師寺のほうも、とっさにドアに足を挟み込んだのである。季節は夏、薬師寺は素足だった。鈍い音がした。驚いた中川原は、ドアを開けて薬師寺に呼びかけた。

「すっ、すみません、大丈夫ですか」

 大丈夫もなにも、薬師寺の足は赤くなっていた。しかし、薬師寺はまるで虫が体にとまったくらいにしか気にしていない様子で、にこりと笑った。

「いいって。それより扉、開けてくれたね」

 もう扉を閉めるというような非礼を働く気にはならなかった。中川原は変な柄のTシャツ一枚で、薬師寺たちと相対した。そして、薬師寺たちから逃げることをやめた中川原にできることは、ただ自分のありさまを嘆くことだけだった。実際、中川原は泣いた。それはこのしばらくの間、部屋いっぱいにため込んだかのような、嗚咽だった。

「大丈夫、舞ちゃん?」

 薬師寺が中川原の後ろに回り、背中をさする。

「ごめんなさい。私、こんなことになっちゃって……」

 中川原はなんとかそう口にすると、壁にもたれかかりながら、繰り返し泣いた。そのまま体がずり落ちて、中川原は倒れこみそうになった。それをすくい上げるように身を乗り出したのは、薬師寺だった。

「薬師寺先輩。私、私……」

 薬師寺は中川原の口をふさぐように、すっと手を差し出した。これ以上の言葉は不要ということである。

「とりあえず、おいしいものを食べよう。話はそれから」

 

 

 インドカレーとナンが配膳されていく。それと並行して、寒河江と海老沢は部屋の掃除をしていた。はっきり言って、目も当てられないような室内だといわざるをえなかっただろう。しかし二人は、何も語ることなく、てきぱきと掃除を進めるのであった。

「お母さんは何て言ってた」

 中川原が心配そうに三角に聞いた。

「もちろん心配はしてたけど、私たちに任せるって言ってくれた。私たちのこともそうだけど、舞ちゃんのことも信頼していたんだと思う」

「……そっか」

 中川原は、こんど久しぶりに実家に電話をしないとな、と思った。そうこうしているうちに、机の上は綺麗に片づけられ、かわりに、インドカレーが人数分置かれていた。

「これで準備完了だね。ほら、食べよう。舞ちゃん」

 寒河江と海老沢が、早く早くと舞を席へと連れていく。とてもお腹が空いているのは自分なのに、なんだかこの先輩たちのほうが早くカレーを食べたがっているようだった。中川原にはそれがおかしかった。

「いただきます」

 中川原の手が、インドカレーとナンに伸びた。

 ナンはできたてで、中川原はその熱さに一度手をひっこめた。ちょっとヒリヒリしたが、それは、これから待っている食事を彩る熱でもあった。中川原は今度は、二本の指でそっとナンを持ち上げた。そしてバターチキンカレーの入った器をもう片方の手で寄せると、カレーの器の奥底まで、ナンをディップした。金色の衣を羽織って重くなったナンから、おいしいカレーがしたたり落ちる。中川原はなるべくカレーが落ちないようにと、顔をナンに近づけて、素早くぱくっと食べた。

 バターチキンカレーの奥ゆかしい甘味。ナンのぱりっとした食感。そして、久しぶりに食べた作りたての食事。久しぶりの誰かとの食事。そのすべてが、なんだか懐かしくて、安心できて……。中川原の目からは、気づけば涙がこぼれていた。部屋にこもっていた時間の分、あるいはそれよりずっと前からの分を、中川原は涙としてこぼした。海老沢がハンカチを差し出してくれた。そのぬくもりは、むしろさらに涙を絞り出させた。

「私、私……」

「いいんだよ、舞ちゃん」

 薬師寺が優しくそう言った。寒河江も続いた。

「舞ちゃん、どんどん食べて。冷めちゃうよ」

 寒河江に促されて、中川原はまたナンに手を伸ばす。食べて、泣いて。そういう時間がしばらく続いた。

 

 

 気がつけば、あんなにたくさんあったナンが、残りの一切れになっているではないか。あっという間のチャイタイムであった。

「そのナン、麻衣ちゃんにあげるよ」

 薬師寺が、舞のもとへとナンを乗せた皿を寄せる。しかし中川原は、それを押し返した。

「いや、いいです。これは先輩方にあげます」

「遠慮しないで。今日は舞ちゃんが主役なんだから」

「主役……。私なんか、先輩達に主役と呼ばれる資格はありません」

 中川原は座布団の上に縮こまりながら続けた。

「私なんか駄目です。先輩達みたいに、自分のやりたいこともない、友達もいない。そんな私が、大学でやっていけるわけないんです」

「舞ちゃん」

「正直、インドカレーサークルのこと、馬鹿にしてました。でも、私はそんな先輩達の足下にも及ばない」

 中川原の涙は止まっていた。それと入れ替わりに、自嘲じみた笑みがこぼれた。

「先輩たちは強いです。ああ、私も先輩たちみたいな大学生だったらよかったのにな。そうしたら、今こんなだらしない生活は送ってなかっただろうな」

 あはは、と言って中川原が皿を片付けようとしたその時である。薬師寺はなが、中川原に飛びかかり、そして強く抱きしめた。

「そんなことはないよ、舞ちゃん……」

 ……中川原は驚いた。まず、薬師寺の行為に対して。次に、言葉に対して。そして、それを発した薬師寺が、これまで見たことがないくらいに弱々しく映ったからだ。

「薬師寺先輩……?」

「私たちは、弱い人間だよ」

 今まで見たことのない、自信なさげな顔だった。

「弱い人間?」

「ここしばらくも、舞ちゃんのことが心配で心配で……。連絡もとれないから、すごく不安だった」

 薬師寺の弱った姿の原因が自分にあると知って、中川原は驚いた。

「……ごめんなさい」

「いいんだよ舞ちゃん。だって、私たちが勝手に首を突っ込んでるだけなんだから。つらいかどうかを決められるのは舞ちゃんだけなんだから……。だからこれは単なるエゴなんだ」

 中川原はなぜだか焦っていた。こんな薬師寺を見ているのはどうも落ち着かないからだった。中川原は言葉を紡いだ。

「いやいや、弱いってことはないんじゃないですか。だって先輩たちは、自分の考えをもっている。そして大学での勉強も、サークル活動もがんばっている。それは強さの表れですよ」

 すると薬師寺はぶんぶん、と首を振った。

「弱いから考えるんだよ。弱いから大学で勉強するんだよ、だからインカレサークルをやるんだよ」

 そう言う薬師寺の身体から、体温を感じる。それはこの薬師寺も、自分と同じ一人の人間であるということを中川原に印象づけた。

 弱いから考え、大学で学び、インカレサークルをやる——。その言葉の意味が十分にわかっているとは言い難かった。だが一つ、思い出したことがあった。初めて薬師寺たちとインドカレー屋に行ったときのことである。そこで中川原がインカレサークルはカルトなのかと尋ねたときに、薬師寺が語ったこと。

「人は一人では生きられない。ひとりひとりは弱いから。だから同好の士といっしょにグループをつくって、傷を慰めあう。そういう意味では、なんだってカルトみたいなものだよ。違うかな?」

 中川原は思った。先輩は前も今も、とっても正直者なのだと。次の瞬間には、中川原はあははと笑っていた。

「どうしたの、舞ちゃん」

 薬師寺がぽかん、としながら聞いてくる。

「そうですね、先輩たちは、弱くて、しかも変わってるかもしれませんね。大体なんですかインカレサークルって。紛らわしいったらありゃしないんですよ。そんな名前のサークルをやろうなんて、これは罪ですよ、罪」

 中川原はズバズバと言ってのけた。しかし、すぐに中川原は続けた。

「でも、先輩達はやっぱり強いと思います」

「え?」

「だって、自分たちの弱さを認められるんですから。強くなければ、できないことですよ」

 中川原は、自分と薬師寺たちを照らし合わせ、そう言った。

「……ごめんね、舞ちゃん。いちばん大変だったのは舞ちゃんのはずなのに」

「いえいえ。……人とご飯を食べてると、素直になるものですって」

 中川原は、最後の一切れのナンをほおばった。少し冷めてしまっていたが、そこに今薬師寺と共有した時間がこめられているのだと思った。

「薬師寺さん! そろそろ、あれを出さないと……」

 寒河江向日葵が何かをせかす。それを聞いて薬師寺は、おっとこうしちゃいられないと背筋を伸ばし、自身のカバンへと手を伸ばした。

「ずいぶん遅くなっちゃったけど……お誕生日おめでとう、舞ちゃん!」

「えっ?」

 拍手とともに、薬師寺のカバンから小さな箱が出てきた。その箱を見てようやく、事態を理解した。そうか、私の誕生日は7月だったか! 部屋の中にずっとこもっていた中川原は、自分の誕生日が来ていたことすら気づいていなかったのである。

「放課後チャイタイムを休みにして、皆で買いにいったのです」

 中川原ははっとした。放課後チャイタイムがなかった日のことを思い出したのである。

「ああ、あのとき……!」

「当然だけど、舞ちゃんには隠しておきたくって。放課後チャイタイム、理由もなく休みにしちゃってごめんね」

 薬師寺が申し訳なさそうに笑う。寒河江はプレゼントの箱を中川原に渡して言った。

「そういう意味でも、今日は舞ちゃんが主役だから。おめでとう!」

「おめでとう!」

「オメデトゴザイマス!」

 実はまだいたデリーバリーの店員を筆頭に、皆がおめでとう、おめでとうと連呼する。中川原は照れ臭かった。

「私も混ぜてもらっちゃって……。祝うの、小学校以来かな」

「そうなるね」

「またこうしてお誕生日が祝えてうれしいよ」

「……私も、三角さんとまた仲良くなれて、うれしいかな」

 中川原はくすりと笑った。そして三角、それからインカレサークルの面々を見て思った。——ああ、私は一人じゃないんだな。中川原の掌に乗ったプレゼントの箱は、なぜだかとっても重く思えた。

 もっとも、そのプレゼントの中身が、「デリーバリー」のカレー無料チケット詰め合わせであることを、この時点の中川原は知る由もない。

 

 

「結局私は、1ヶ月近く休んでたんですね……」

「まあ、今から勉強しても、なんとか間に合うよ!」

「信ずれば道は開かれます」

 中川原は試験勉強に追われていた。もっとも、中川原は講義にしばらく出ていないので、手元に講義のノートがなかった。しかしノートは、同じ学科の三角がとってくれていたのである。

「三角さんのノートは、綺麗に整理されていて助かる……」

「持つべきものは友達ですね、舞さん」

 海老沢がそう言いながらカップラーメンをストローで飲み込む。呑気な海老沢をよそに、中川原は必死に三角のノートを写していた。あれだけ軽蔑していた三角を頼るなど、以前の中川原は死んでも嫌だったろう。三角に上に立たれるような気がしたからである。しかしいま、中川原は素直に、三角の力を借りようと思えているのであった。

 いま写しているのは、教育心理学の講義ノートだった。中川原は、講義で紹介されたという心理学者の名前と、その心理学者が提唱した理論というのをノートに書きこんだ。そして、ひとつわからないことがあったので、中川原は三角に尋ねた。

「……ねえ三角さん、この心理学者が言っている『自律性の支援は内発的動機づけを高める』ってどういうことかわかる」

 三角は自分のノートを見返しながら答える。

「んーとね、例を挙げたほうがわかりやすいかな。例えば舞ちゃん、これから勉強するぞーって思っていた時に親から『勉強しなさい』って言われたら、途端にやる気をなくしたっていう経験ないかな? これはその心理学者に言わせると、その人の自律性、自分でやろうって気持ちを妨害したことにあたるわけ。そうするとやる気がなくなるよ、っていうのがその言葉の意味」

「あー……、なるほどね」

 何だ、随分と身近な現象じゃないか。そう思った中川原は、心理学のノートをぱらぱらめくって見返しながら、くすりと笑った。

「どうしたのですか、舞さん」

「ああいや、この人たちも、けっこう人生悩んでたんじゃないかなって……」

「悩んでいた、とは」

「生きていく中で、いろんな生きづらさがあって、それが問題意識になって研究につながっていったのかなーって思ったり」

「あはは、面白いね!」

 勉強を見守る薬師寺が笑う。そして寒河江も続いた。

「一緒にカレーを食べてあげたいね」

「学者相手に大きく出ましたね……」

「インドカレーの前では、みんな平等なんだよ」

 そう言ってけらけら笑う寒河江は、もうインドカレーで頭がいっぱいになっていた。

 同じように悩む小さきものへの、愛情にも似た親近感。中川原はそういったものを心理学者や教育心理学に対して感じていたのだ。ただ、学者たちの崇高な思想については中川原は依然としてよくわからず、ゆえに試験に向けて焦りは募る一方だった。試験は二十四時間後に迫ってきている……。

「中川原さん、来ましたよ」

「オマタセシマシタ、ナンデゴザイマス」

 ……でも続きは、おいしいインドカレーを食べてからにしよう。中川原はノートを閉じ、インドカレーに手を合わせた。

 

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