いんかれ! ~インカレサークルに入ったと思ったらインドカレーサークルだった~

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michymugicha

第1話 放課後チャイタイム

公開日時: 2020年11月23日(月) 18:48
更新日時: 2020年11月23日(月) 19:17
文字数:10,546

「ナマステ」

 三人の女子大生が両手を合わせ、来訪者を出迎えていた。

 夢でも見ているのではないか。お香の幻想的な煙にも魅せられて、来訪者はそう感じずにはいられなかった。なにしろ、ここはインドではなく、日本なのだから。

「あ、あの……」

 理解できないことはいろいろあった。合掌する三人の大学生。壁に掛かった謎めいた絵画。机に盛られたカレーせんべい。そして、ナマステ……。いったいどうしたんだ、私は健全なサークルを見学しにきたはずではなかったのか。しかし彼女には、他にも気になることがあったのである。

「……ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」

「うん、何でもどうぞ」

 部長と思しき女性が、両手を合わせ、何か悟りを開いたかのような表情で返答する。

「ここには……女性の方しか、いないんですか?」

「当然。女子大だからね」

「あ、いえ、そうではなくて……」

 どうも噛み合わない。そう思って来訪者は、もう少し具体的な質問をすることにした。

「失礼ですがここは、インカレサークルですよね?」

「そうだよ。表に書いてあるとおり」

「インカレサークルって、あれですよね。インター、カレッジ。このインターっていうのはインターナショナルと同じ意味で、『何々の間』。インカレは、大学の間だから、複数の大学が一緒になってやるサークル」

 その女子大生は論理的に、自分の理解が正しいことを確認するように、言った。

「そういうサークルって、その……他の大学の男子と合同でやるものだと思っていたんですが」

 それを聞いた部長の女性は、手を合わせたままに、カクっと首を45度傾けた。

「んーなんか勘違いをしていないかな、なにせ私たちのインドカレーサークルは……」

「……えっ? いま、何て?」

 来訪者の顔が、一気に青ざめる。額からこぼれる汗はまるで、この後の涙を先取りしているかのようだった。

「いや、だから、私たちのインドカレーサークルはね」

 一呼吸おいて、来訪者は仰天した。

「インドカレーサークル!!??」

 

 

 一人の女子大生に起こった悲劇。大学の片隅、狭い部屋で巻き起こるすれ違いの嵐。この状況はいかにして生み出されたのか? それを知るためには、時をさかのぼらねばならない。

 四月。新入生でごった返す女子大のキャンパス。履修の相談などをしながら、新入生が楽しそうに並木道を歩いている。その中に一人、にやつきながら下を向いて歩く一年生がいた。顔はまあまあ可愛らしいといえるが、髪はボサボサ、セーターは毛玉だらけという出で立ちだった。

 なぜ彼女は、こうもにやついているのか? 彼女は妄想していたのである。「インカレサークル」に入り、薔薇色のキャンパスライフを送る自分の未来を。

 インカレサークル……英語で書けばIntercollegiate Circle。複数の大学の学生によって構成されるサークル(同好会)である。一大学だけでは人数が集まらなかったり、男女比が偏ってしまったりするときに、インカレとしてサークルが組織されることが多い。

 工業系の大学で混声合唱がやりたい、という状況を想像していただきたい。日本の工業系大学においては、残念ながら、女子率はきわめて低い。近年「リケジョ」……すなわち理系女子という存在が称揚されているが、これは現状の裏返しである。では、一方の合唱サークルはどうか。不都合なことに、混声合唱には女性パートが必要不可欠である。

 このような状況下で合唱をしたい学生は、工業系大学を選んでしまった過去の自分を呪いつつ、泣き寝入りするほかないのであろうか。賢明な読者諸君ならば、その必要はないことにお気づきいただけるであろう。他大学の女子とともに、インカレサークルを立ち上げればよいのである。人間は古くから、厳しい環境に対しても創意工夫を凝らすことで、その環境に適応してきた。インカレサークルはまさに、高等動物たる人間の、知性の結晶といえるものである。

 しかし、人間は高等動物であると同時に、やはり動物にすぎない。ただ単に異性と出会いたい……そのような学生も、インカレサークルに集まってしまう。しまいには、もはや本来の目的を忘れ、ただ男女の交わりに興じるだけのサークルも出てくる。テニスサークルなのに全くテニスをしない……例えばそういうインカレサークルもあり、学生の一部からは疎ましがられている。

 しかし、少し擁護させていただきたい。そもそも、何に価値を感じるかは、人それぞれであって構わない。大学のような自由な場であれば、なおさらである。極端な話、出会い目的のサークルで息抜きをしているからこそ、学業で素晴らしいパフォーマンスを発揮する学生もいる。自由には責任が伴う……このことさえ気をつければ、どのような活動をしていても、本質的には誰も文句は言えないはずである。

 しかも大学一年生というのは、長く苦しい受験勉強を乗り切った直後なのである。受験のために恋愛を我慢したり、異性と巡り会えなかったりした者も多いことであろう。男女別学だった場合はなおさらである。そうした学生に、これ以上なお慎みを持てというのも、酷な話ではなかろうか。

 そしてこの学生……中川原舞(なかがわら・まい)は、まさしくそういう学生であった。すなわち、中高六年間女子校に在籍し、ひたすら勉強に明け暮れていたのである。

 中川原は表面的には真面目に勉学に取り組みつつも、かねてから思っていた。私のような人間は、共学の学校にさえいたならば、彼氏の一人や二人難なく作ることができただろうと。はっきり言って、クラスには私よりもよっぽどお顔が不自由な輩がたくさんいる。ドレスコードが厳しいレストランにでも行けば、間違いなく門前払いだろう。そんな奴らがクラスの半数程度を占めているのだから、相対的に自分がもてるということは、中川原にとっては火を見るより明らかであった。

 しかし中川原には彼氏がいない反面、クラスメイトには彼氏持ちの人間も少なからずいた。なぜこのような違いが生まれたか? 中川原に言わせれば、下流であるクラスメイトのはずなのに?

 その違いは勇気であった。なんのことはない、学校が女子高ならば、学校の外へ出向いて、彼氏を探してくればよいのである。実際、世の中には女子高の数と同じくらい男子校もある。そういう学校の生徒も、女子高の生徒と同じく、性に飢えているのだ。マッチングが十分成立しうることは、誰の目にも明白だろう。そしてそのことに気づき、学外の人間と付き合う生徒が少なからずいたというわけである。しかし中川原にはそういう冒険をする勇気がなかった。あるいは、実際に彼氏を探したときに、実は自分は全然もてないということが判明することを恐れているようでもあった。

 そんなわけで、中川原は思春期の抑えがたい衝動を向ける先を失った。そのフラストレーションはどこへ向かったか? すべて勉強に向けられた。もし中川原に、何かしらの趣味や、力を入れていることがあれば、それでフラストレーションは解消されていただろう。しかし中川原にはこれといってやりたいことがなかった。勉強は中川原にとって、唯一、力を注ぐに値する活動だったのだ。なぜか? 周りから評価されるからである。中川原は校内でもそこそこの成績をキープしていた。それが、周囲の人間よりも上に立ったように思えて、たまらない愉悦を感じていたのであった。中川原にとって、勉強や成績の良さは、強さの象徴であった。

 そんなわけで勉強に没頭していた中川原だったが、大学に入った今度こそは、冒険しようと思っていたのである。幸いにも、高校の時のように外まで出かけて番(つがい)を探す必要はない。なぜなら大学にはインカレサークルというものがあるからである。

 中川原は扉の前に立っていた。その扉には、「インカレサークル」と大きく書かれた看板が下がっていた。インカレであることを、これほどまでに表明しているのである。きっとインカレサークルの中でもとびぬけた、出会い目的のサークルに違いない。中川原はそう読んでいた。

 私の新しい人生が始まる……。そう思ってヒヒッ、と笑い声を漏らした後、中川原は意気揚々と扉を開いた。

 扉の先に待っていたものについては、冒頭に示したとおりである。

 

 

「どうしたの、急に大声出して。インドカレーに興味があって来たんじゃないの?」

 というわけで、再びインドカレーサークル……略して「インカレサークル」の部室に話を戻そう。

「いや、私はその……」

 出会い目的でいわゆる「インカレサークル」に入りたかったのだ、とは言えない。困惑していると、側にいた部員が助け船を出した。

「ごめんねー、いきなり質問攻めにしちゃって。あなた、とりあえずここに座らない?」

「あ……えっと……」

「話は後で聞くから! 遠慮せずに座って、座って!」

 こうして、中川原は半ば強引に、椅子に座らされてしまったのである。この部員、中川原のことを気遣っているつもりだろうか。本当に気遣うつもりなら、多少なりともこちらの気持ちを察して、ここから帰してほしいものだと中川原は思った。

 中川原を椅子に座らせた後、自身も向かいに座ったその部員は、中川原の目を見つめながら、笑顔で語りかけてきた。茶髪のボブと明るい色の服装も相まって、中川原にはまぶしすぎる。

「改めて自己紹介。私は二年の寒河江向日葵(さがえ・ひまわり)! これからよろしくっ!」

「は、はあ……」

 中川原は思った。なにやら、このサークルに入ることが前提になってはいないだろうか。このままだと寒河江のペースに呑まれ、気づいた頃にはサークルに入れられているかもしれない。彼女たちと同じようにナマステと言うようになってから気づくのでは遅いのである。とにかく話を打ち切らねばと思い、中川原は部長と寒河江の隣、もうひとりの部員に声をかけた。

「……あなたは?」

 すると、ビン底メガネで小柄なその部員は、ゆっくりと中川原のもとに近づいてきた。長い髪からは、嗅いだことのない、不思議なシャンプーの香りがする。

「ナマステ。私は海老沢真澄(えびさわ・ますみ)。大学二年です。よろしくお願いいたします」

 そのゆったりとした語り口調、そして敬語を使われたことに対し、中川原は動揺してしまった。人なつっこいのも勘弁だが、こういうミステリアスな人物はなおさら遠慮したかった。まるで、このサークルの謎を凝縮しているように思えたからである。

「あの、私は一年ですし、そんな丁寧になさらなくても……」

「親しき仲にも礼儀あり、といいます。それに学年差など、長い人生から見れば誤差程度のもの。それに囚われる必要はありませんよ」

 いや、別にまだ親しいわけではないだろう。やはりどうもずれていると、中川原は感じずにはいられなかった。

「そういえば、あなたの名前を伺っていませんでした。差し支えなければ、お名前をお聞かせ願えますでしょうか」

「えっ、私は中川原。中川原舞です。この春入学しました」

 中川原は勢いで名乗ってしまい、ただちに後悔した。名乗ったことでまた一歩、一線を越えてしまったように思えたのである。

「舞ちゃんだね、ありがとう。そういえば、私は名乗ってなかったっけ。私は四年の薬師寺(やくしじ)はな。いちおうこのサークルの代表。よろしくね」

 四年生。どうりで大人びて見えたわけである。自信に満ちた眼。洗練された洋服。主張しすぎないパーマがかかった黒い髪。見るからに才女といった出で立ちであり、正体不明のサークルに入っていることが悔やまれるほどだった。つい見とれてしまっていたところで、海老沢が話を次へと進めた。

「これで、全員の自己紹介も済みましたね。では薬師寺先輩。私たちの活動について、ご説明よろしくお願いいたします」

 海老沢に促されて、薬師寺は説明を始める。もちろん、中川原はそんなことなど望んでいない。

「私たちのインカレサークルは、水曜の放課後に集まってインドカレー屋に行くんだ。私たちはこれを『放課後チャイタイム』って呼んでるんだけど」

 知りませんよ……と中川原は言ってやりたかった。

「今日もこのあと行くんだけど、舞ちゃんも来ない? おごってあげるよ」

 タダより高いものはない、という言葉もある。ここで下手に貸しを作ってしまえば、後になってサークルに入るのを断りづらくなるというものだ。

「行こうよー! 舞ちゃん!」

 寒河江が、中川原の腕をぐいぐいと引っ張った。特にこの寒河江がそうだが、中川原にとって、インカレサークルの面々は妙に馴れ馴れしく感じられた。初対面の相手を「舞」と下の名前で呼ぶなど、中川原にとってはありえないことだった。下の名前で呼んでくる人間など、小学校の同級生くらいしかいない。私はお高いんだぞ……そう心の中で粋がってみたが、何のことはない。下の名前で呼んでくれるような、親しい友達がいないだけである。

「百聞は一見に如かず、といいます。中川原さん、とりあえず私たちと一緒に参りませんか」

 こちとら百聞もしていないのに何を言うか……。しかし何を思おうと、それを言う勇気など中川原にはなかった。押しの強さだけはインカレサークルの面々を見習いたいと、中川原は思うのであった。

「どうかな、舞ちゃん」

「ぜひともご一緒いたしましょう」

「行こうよー!!」

「うーん……」

 ここでついに、中川原は折れた。

「じゃあその、今回だけなら……」

 中川原は自分が情けなかった。しかし実際、インドカレーを食べない限り、この集団は解放してくれないという気もしていた。インドカレーを食べるだけで済むのなら、今回ばかりは仕方がないと思えてきた。もっとも、それだけで済むかどうかはわからないのだが。

「よし、じゃあさっそく今から行こう!」

 寒河江が喜びながらそう言う。

「え? 今からですか」

「だってもう五時半だよ。今から行けば六時でちょうどいい。みんな準備しよう」

 部員はそそくさと身支度を済ませる。そして中川原の手を引き、あっという間に夜の街へと繰り出してしまった。

 こんなはずではなかった……。そう思う中川原をあざ笑うかのように、部室の「インカレサークル」と記された看板が、ゆらゆらと揺れていた。

 

 

 しばらくして、中川原とインカレサークルの三人は、インドカレー屋に到着した。「ナマステ いらっしゃいませ インド・ネパール料理 ナンおかわり自由」と書かれたオレンジ色の看板に、ヒンディー語が添えられていた。もっとも、中川原はヒンディー語など見たことがなく、いったい何の文字かということ自体わからなかったのだが。

「……インカレサークルって言いますけど、ここインド・『ネパール』料理屋ですよね」

 先ほどに比べれば中川原は、インカレサークルの面々によく意見するようになっていた。道中の薬師寺との会話で、多少は打ち解けたのである。その点薬師寺はやはり天才肌であり、相手を自分たちのペースに巻き込む術を、よく心得ていた。

「日本のインカレ屋は、ネパール人が経営していることが多いのです」

「ナンも、実際インドではあまり食べないらしいからねー。あまり細かいこと気にしなくてもいいよ!」

「いやいや……それってインドカレー屋を名乗っていいんですか」

 ここにて満を持してと語り出すのは、部長の薬師寺である。

「カリフォルニアロールっていうお寿司があるでしょ?あれ、海外だとお寿司に括られるけど、実際は純粋な日本食じゃないよね」

「ええ、まあ。いきなり何の話ですか」

「日本の『インドカレー』も同じ。だから真実とは関係なく、そういう料理だって考えたほうがいいの。そのほうがおいしく楽しめる。日本人としてね」

「……そんなもんですかね」

「青は藍より出でて藍より青い、といいます。日本のインドカレーも、その類なのかもしれません」

「いや、そうはいっても」

 そう言いかけたところで、中川原ははっとした。あやうく、彼女たちのペースに呑まれるところであった。それは何としてでも避けねばならない。中川原は話を打ち切って声を張り上げて言った。

「……とにかく! 入りましょうよ。そして早く食べましょう」

「おっ? 舞ちゃん、おなか空いてるんだねっ?」

「違いますよ!」

 まったく、寒河江はうっとうしい。まあ実際は、初対面の人間とここまで親しくできる人柄は、賞賛すべきものなのかもしれない。しかしそれは、中高時代友人がいなかった中川原にとって、当てつけのようにも思われたのである。

「イラシャイマセー」

 店に入ると、片言の外人が出迎えた。

「キョウハ、ヨニン? ヤクシジサン」

「はい。こちら、新入生の中川原さん」

「え? いや私、このサークルに入ること決めたわけじゃないんですけど」

「ああいや、うちの大学の新入生っていう意味だったんだけどねー」

 誤解を招くような表現はやめてくれ、と中川原は思った。

「コチラノテブルニ、ドゾ」

「このテーブルだって。舞ちゃん、そこね!」

 インドカレー屋に行くということだけでなく、座る席まで寒河江に指定された中川原。しぶしぶ座り、ふと前を見上げると、そこにはテレビ画面があった。テレビ画面の中では、インド人らしき集団が謎の踊りを踊っていた。それに気を取られていたところ、薬師寺に声をかけられた。

「舞ちゃん、これメニュー。遠慮はしなくていいよ」

「いやあの……皆さんから決めていただいていいですよ」

「大丈夫。この店のメニューなら、全員『ここ』に入っているから」

 薬師寺は自分の頭を指でトントン、と叩いてみせる。

「ゴチュウモン」

 気が付くとネパール人が傍に立っているではないか。そこでさっそく海老沢は注文を行った。

「では私は、チキンカレーのインド定食をお願いいたします」

「インド定食って何ですか……」

「舞ちゃん、ここのインド定食はおすすめだよ! ライスとナンが両方ついてきて、食後にはチャイも飲めるんだっ」

 寒河江がインド定食とやらを勧めてくる。

「いや、私そういう訳のわからないメニューじゃなくてもいいんですけれど」

「舞ちゃん! インド定食にしないと損するよ。このお店はインド定食あってこそのお店なんだから」

「あ、はい……」

 強引に押し切られてしまった。まあ、ここまで言われて断るのも面倒だからいいか。そう思って、中川原は、寒河江に言われたとおりにすることにした。

「インド定食にします」

「そうですか。ところで中川原さんは、成人はしていますか」

 海老沢がふいにそう聞いてくる。

「え、いや私現役入学なので、まだ18歳です」

「18歳。というと、生まれた年と誕生日はいつになるのでしょう」

「えーっと、2002年の7月10日ですけど」

「なるほど。ではお酒は飲まなくて大丈夫ですね。いや私たちも普段飲まないのですが、中川原さんはどうかわからなかったので」

 こういうところは気遣いできるんだな、と思ったところで、中川原はしまったと思った。話の流れで生年月日を教えてしまった! 得体の知れない集団に個人情報の一端を渡してしまったことを、中川原は後悔するのであった。

「ところ舞ちゃん、インド定食のカレーは何にするのかなっ」

 ああそうか、カレーを選ばないといけないのか。別にインドカレーが食べたくてついてきたわけでなし、なんだっていい。そう思って中川原は、たまたま目に留まったインドカレーを選んだ。

「じゃあ私は……このベジタブルカレー、インド定食で」

「私はキーマカレー単品でっ!」

「えっ、いやいや寒河江さん。そこはインド定食でしょ」

「え?」

「あんだけインド定食勧めてきてたじゃないですか」

「私は小食だからねー」

「いやあのですね……。はあ、もういいです」

 

 

「ベジタブル・カリ」

 料理名を告げながら、テーブルにインドカレーを配っていく店員。中川原の頼んだベジタブルカレーとは、ほうれん草が入った、ただのチキンカレーであった。

 それはさておき、驚いたのはナンの大きさである。「ナン」という食べ物は聞いたことはあったが、実際に見たのは初めてであった。自分の顔より大きいのではないか。おかわり自由とはいうものの、これをもう一枚というのは大変だと、中川原は思うのであった。

「いただきます」

 そう言って皆は手を合わせた。部室に入ったときの光景がフラッシュバックする。ところで食事の前に手を合わせるのは、インドと日本、どちらの習慣というべきであろうか……。いや、なにを真面目に考えちゃってるんだ。中川原は食事に集中することにした。

 薬師寺たちの様子を見ながら、見よう見まねでナンをちぎり、ベジタブルカレーにディップする。ナンはインドカレーに包まれて、さながらインドの民族衣装で着飾ったといったところか。中川原はカレーがしたたり落ちないように気を付けながら、インドカレーとナンを口に運んだ。

 インドカレーは、確かにおいしかった。上品な辛さが文字通り「スパイス」となり、一口ごとに充実感を覚える、そういう味であった。ナンもバターの香りがきいていて食欲をそそり、意外にも早くナンは減っていった。

 インドカレー自体は、案外いけるかもしれない。そう思った矢先のことである。インカレサークルの面々は妙なことを言い出した。

「これは何だ?」

 薬師寺がそう言って、皿を眺め込んでいる。中川原には状況が全くわからなかった。そこに、海老沢がメガネをぎらつかせながら、こう言い返した。

「何だ、って先輩……。それは……ナンでしょう」

 一瞬の静寂があった。

「ウヒャヒャヒャヒャヒャ!!」

 突如インカレサークルの面々は、堰を切ったかのように笑い出した。中川原は鳥肌が立った。もちろん感動したからではなく、恐怖ゆえである。いま目の前では、いったい何が行われているのか? なぜこんなに盛り上がっているのか? 全てが理解不能であった。そんな中川原をよそにして、笑いをこらえながら薬師寺が続けた。

「こ……これが、ナン……。それは……いったい、何でだろう……」

「ヒャヒャヒャヒャヒャ!!!」

 笑いは止まらない。

「ちょ、ちょっと皆さん。これは一体何なんですか」

 中川原がツッコミを入れる。

「ナンなんですか……ウヒャヒャヒャヒャヒャ!!!!」

「舞ちゃん、筋がいいねえ」

 机を叩きながら大爆笑する三人衆。驚いたのは、あの冷静沈着な海老沢まで、腹を抱えて笑っていたことである。

「海老沢さん……私何か変なこと言いましたか」

「ナンか変なこと……アヒェヒェヒェヒェ!!!」

 ほどなくして中川原は、なぜ自分の発言が爆笑を誘ったのかを理解した。なんだか、わかってしまった自分が悲しかった。呼吸困難になりそうな勢いのまま、寒河江が中川原をフォローする。

「ご……ごめんね、舞ちゃん。これはね、私たちインカレサークルの儀式なんだ……ウヒィ。ナンについて熱く語る……私たちはこれを『ナンパーティ』、略して『ナンパ』って呼んでるの」

「……」

 すっかり引いてしまった中川原は、うつむいて、残り少ないナンに顔をうずめるしかないのであった。

 

 

 食後のチャイ。さきほどは大変なものを見てしまったが、チャイを飲むことで中川原は落ち着きを取り戻していた。そういう意味では、チャイがついてくるインド定食にして正解だったのかもしれない。

 しかしもう、かなり取り返しのつかない段階まで、中川原は踏み込んでしまっていた。もうある程度は仕方ないかもな。中川原はあきらめの境地に達しつつあった。しかしここまできた以上、どうしても聞いておかねばならない質問があった。チャイをもう一口飲んで心を落ち着け、中川原はついにそれを問いかけた。

「……ひとつ、単刀直入に聞きたいことがあります」

 聞く相手は、部長の薬師寺である。

「うん、何?」

「……このサークルは……カルトではないんですか?」

 カルト。不慣れな新入生の不安につけ込んで入信を迫る、大学新学期の風物詩である。新入生オリエンテーションでも注意喚起されることが多く、中川原も警戒していたのである。

「どうなんですか。実際のところ」

 むろん、「自分たちはカルトである」と馬鹿正直に言うカルトは存在しない。さすがにそれくらいは、中川原もわかっていた。しかし人は、そう簡単に真実を隠しおおせるものではない。「カルトではない」と口では言いながら、動揺したそぶりを見せることはある。その反応をもって、中川原はインカレサークルの正体を見定めようとしたのだ。また、本当にカルトなら、疑われていると感じて、次からしつこく勧誘はしてこないだろう。中川原はこのように読んで、なかなかよい策略であると、自分の行動にうぬぼれていた。

 ところが、薬師寺は淡々とこう答えたのである。

「似たようなものだろうね」

「……え?」

「私たちとカルトは似た者同士だよ」

 ……何ということであろうか。この学生たちはイカれている。中川原はそう思わずにはいられなかった。薬師寺は続けた。

「人は一人では生きられない。ひとりひとりは弱いから。だから同好の士といっしょにグループをつくって、傷を慰めあう。そういう意味では、なんだってカルトみたいなものだよ。違うかな?」

 いやいやいや。それにしても、さすがに自分たちのサークルのことをカルトなどという聞こえの悪い言い方で呼ぶ必要はないだろう。中川原はもうすっかりあきれていた。反論する気も起きないくらいだった。

 ただ一方で、中川原はなんだか少し安心できたのも確かであった。カルトでないかと言われて動揺するどころか、ここまで肝がすわった対応をされては、こちらも牙をおさめるほかなかった。それから、人はお腹いっぱいになると、武装解除するものである。インカレサークルやインドカレーをどう思っているかは別として、おいしいものをお腹いっぱい食べて、中川原は少し心が広くなっていたのである。

「ところで、どうかな。舞ちゃん、来週からも来てくれるかな」

「いかがでしょう」

「来てくれると嬉しいなっ!」

 中川原はこのときはっきりと断るべきだったろう。

「まあ……気が向いたら。考えておきます」

しかし中川原は気づけば、そう答えていたのであった。

 インカレサークルの面々との関係は、今後どうなっていくのか。中川原の大学生活そのものも、闇の中である。しかし、今できることはただ、目の前に供されたインドカレーに対し、両手を合わせるのみである。

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