計算手というのは、本来の意味は数学者や設計者の手足となって、細細とした計算を代行する者の総称である。
今から百年ほど前の一七九二年、ナポレオン・ボナバルトは、仏蘭西の数学者ガスパール・ド・プロニーに命じて、わかりやすく正確な対数表の製作を命じた。
対数とは、スコットランドの数学者、ジョン・ネイピアが創始した計算法だ。すべての数は十の冪数【同じ数または式を何回か掛け合わせたもの】であらわすことが出来、二つの数の冪数を足し合わせると、その二つの数を掛け合わせた数の対数になるというものである。ネイピアは十を底とする多くの数の対数を計算し、それを対数表として公表した。ある数どうしを掛ける、あるいは割る場合はその対数表でそれぞれの数の対数を見つけ出し、足し算・引き算を行って、その答えを逆対数法で照合すればいい。
対数は平方根や立方根、三角関数の計算を著しく簡単にした。そのため、対数は数学に限らず様々な分野でも活用されるようになり、誰にでも使えるほどに簡単で、より正確な対数表が求められたのである。
その作業のためにド・プロニーは人手を集め、階層性にして雇った。つまり、まずは数学者達に式を考えさせ、続いて助手達にその式を簡単な加算と減算に分解させる。最後に計算手と呼ばれる労働者達がその基本的な計算を行う。この一連の流れが階層性、というものなのだが、その最下層に位置する労働者こそ、今の「計算手」の始まりである。
しかし、百年前のただの労働者とは異なり、現在の計算手はすこしばかり『出来』が違う。
近年――ここ、二、三十年前後に現れた『計算手』と呼ばれる人々は、道具などを用いて簡単な四則演算を解くだけの労働者ではない。例えば道具を用いず、思考するだけで二十桁同士の乗算や割算をこなしたり、計算だけで百年後の曜日まではじき出せるという、凄まじい能力を誇る。
一八六九年、天文学者であるロス伯爵の研究所に、ジョージ・ロジーヌという十七才の少年が訪れたことが、ある意味で計算手誕生のきっかけだった。ロジーヌは貧民街出身で、読み書きも碌に出来なかったのだが、誰も教えたことが無かったのに、異常なまでに計算速度が早く、かつ正確だったことから、研究対象としてロス伯爵家に引き取られたのである。
彼は十年間ロス伯爵の研究所に在籍していたが、転機が訪れたのは一八七九年の事である。ロス伯爵の三男であるサー・チャールズ・パーソンズが、タービン関連の会社を立ち上げた折、計算手としてジョージを連れて行ったのである。この時代、計算が最も求められたのは工業関係であったろう。優れた計算手の活躍で、パーソンズの会社は一年も経たぬうちにメガワットタービンとタービン動力の船を開発したのである。
ロジーヌはのろまで役立たずと言われていた少年だったが、計算や暗記には異常なまでの才能を示していた。特に映像記憶に長け、床にばらまかれたトランプの枚数や、爪楊枝の本数を一瞥しただけで正確に回答できたという。
当初は、このような才を持った計算手はロジーヌだけだと思われていたが、その二年後にマークス・スノウという天才計算手の少年が、同じく貧民街で発見された。ロジーヌよりも二歳ほど若いこの少年はやや自閉症の気があったが、しかし、凄まじい計算力と暗記力を誇ってもいた。観劇の際、一度見ただけの芝居のすべての台詞をいっぺんに覚えてしまったりもしたという。彼を計算手に雇ったヘンリー・ボンズは、当時解読不能と言われたスペインのカルロス式暗号の解読に成功し、軍の特殊諜報機関部の長官となって各国の諜報戦の軍事地図を一気に塗り替えている。これにより、英国は更に国家間の発言力を強めていった。
「時代の節目、節目には、必ず特殊な能力を持った人間が現れる。というよりも、境界線を超えてしまう人間が出る、と言った方が良いかもしれない。そして、境界線を越える者が現れたと同時期に、同じように境界を越えられる者が複数現れる。あちら側の壁は、まるで物理的な壁と同じだと、神が我等を試しているかのようにな。例えばかつて、一哩を五分以内に走れる人間など存在しなかった。しかし、一八八八年にジョナサン・マックスウェルが一哩を四分五十七秒で走破した途端、次々と五分の壁を越える者が現れた。計算手もまた同様に、ロジーヌ、スノウに続く才能が次々と報告されている。君は、そんな天才の一人なのだよ」
教授の話を聞きながら、メアリは内心酷く驚いていた。
自分が当たり前のことだと思っていたことが、またもや異常なことであるということを、メアリは今、初めて知った。けれど、自分の他にも何人か、同じような能力に特化した人間がいる事に安心もする。一人ではない、誰か仲間が居るという事が、何故だか不思議と心強い。
困惑と安心が半々のメアリに、教授がやや目を細める。
「一般的に天才は、自分が天才だと知るが故に天才である人種と、自分の才能に気付かぬままに、凡人として生きている人種に別れるそうだ。計算手という人種は特に後者に多いらしいが、それ故に、真実の計算手は数が少ないと言う。さて、ジズ嬢。私は君の、その計算手としての才能を活かすべきだと考えている。少なくとも、貧民街の中でその才能を埋もれさせるのは惜しい。しかし、その才能を活かすのかどうかを判断するのは、私では決してない。決めるのは、君の意志だけだ」
「私の、意志?」
「一歩足を踏み出すか、或いはここに留まるか、ということだ。君は、幸運によってここから連れ出されるのではない。君自身が運命を従えて、己の未来を『選ぶ』のだ」
教授の言葉は何処までも淡々としていたが、しかし、酷く重要な決断を迫られているというのは何故かわかった。
「選ぶ……」
メアリは、教授の言葉を口の中で繰り返す。その単語は、奇妙な重さを持って胸に響いた。
思えば、メアリの人生は、一つも自分で選んだものでは無かっただろう。
事故によって父が死に、有無を言わさず孤児院に入れられた。
孤児院でいきなり勝手に里親を紹介され、縁組をされた。
その里親が悪人で、いきなりイーストエンドに捨てられた。
死にかけたところを、ジェーンという優しい人に拾ってもらい、彼女に養われるままに、ここで暮らした。
ジェーンの死後も、何処に行くことも出来ず、生きるために、そのまま彼女の後を継いだ。
それらすべてが、押しつけられた、もしくは与えられたものであり、メアリ自身が選ぶ余地はまるで無かった。それが当たり前であり、選べないことが当然だと、多分メアリは、今の今まで、ずっとそう思っていたのだ。
しかし、教授はメアリに選べと、そう告げた。
今のメアリには、確かに道が二つある。このままジェーンの後を継いで占い師としてここで生きていくという道と、教授の手を取り、ここから出て行き、新しい人生を生きるという道だ。
自分はずっと、ここに居るのだという、漠然とした感覚がメアリには合った。ここから出て行く方法もわからないし、未来だって何もない。ジェーンから受け継いだものを守って生きていくものだと思っていた。
それなのに、たった今、メアリにはいきなり新しい選択肢が増えたのだ。急に開けた未来に対し、最終的にはそれを選ぶにしても、数日は考える時間を欲するだろう。
教授に引き取られ、中流階級の娘に戻るのは、とても素晴らしいことに違いない。しかし一方で、貧民街の孤児がそんな日の当たる場所へ出て行っても良いのかという、恐れにも似た躊躇いがあった。
学もない、単に計算が得意だというだけの娘を引き取って、教授ががっかりしないかという不安もある。
しかしメアリは、その決断を一瞬で済ます。
そうするのが最初から決まっていたかのように、即座にメアリは差し伸べられた教授の手を取る。少しだけ笑って言った。
「わかりました。では、私は貴方の手を取ることを選びます」
あまりの躊躇いのなさに、教授が僅かに目を見開いた。感心したように低く呟く。
「……君がこの手を取るであろうということはわかっていた。しかし、そう決断するに至る時間は予想よりも短かったな」
その言葉に、メアリは困ったように微笑んだ。小さく言う。
「確かに、とても不安はあります。でも、心の中では何を選ぶか、既に決まっているのです。でしたら、悩む時間はすべて無駄です」
メアリは昔から恐ろしいほど割り切りが早い。取捨選択の正確さはともかく、判断の速さだけは誰にも負けない自信がある。そうしなければ生きていけなかったというのもあるが、それ以外にも、うじうじ悩むのが面倒だという、恐ろしいほどの怠惰さのせいだろう。
世の中には確率というものがあるが、突き詰めれば、それはすべて二分の一だ。『出来る』か『出来ない』か、あるいは『やる』か『やらない』かの二択でしかない。そして、『出来る』のならば、メアリは常にそれを選ぶ。自分はここから出て行ける。ならば、進むのが正しいと、そう判断したからだ。
確たる理由が在るわけではない。ただの直感だ。しかし、直感というのは、よくわからないが、自分の全人格を賭けた何らかの計算の答だとそう思う。
今回もその直感に従って行動しなければ、教授達に助けられることもなく、きっとメアリは命を落としていたはずだ。そうして未来を用意されることもなかっただろう。
だから、メアリは教授の手を取ったのだ。そうしろと、自分の中の何かが囁くが故に。
自分は計算手なのだと教授は言う。数学者として希有の才能だと。つまりそれは、父の願いを叶えることが出来るということだ。選んだ道にどんなリスクがあろうとも、ひとつにひとつ、二つは選べない。自分の能力が誰かに望まれているのなら猶更だ。
自分にそれが出来るのならば、それはきっと、自分が為すべき事なのだから。選んだことによって生じる手間やごたごたは、また次元が違う話だろう。
そんなメアリの思いを知ってか知らずか、教授がほんの僅かに感心したように、あの闇色の声で言う。
「なるほど、確かに君は計算手だ」
何と答えて良いかわからずに、メアリは首を傾げるのみだ。計算手がどんなものか、メアリは知らない。しかし、教授がそういうのなら、きっとそうだ。メアリは改めて、自分の道をはっきり選ぶ。彼等と共に、外へ行こう、と。
それがすべてのはじまりだった。
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